黒い悠
背筋が凍った。
モニターに映る人影は、悠のすぐ後ろに立っていた。
息が止まる。
振り返るより先に、本能が「逃げろ」と叫んでいた。
「悠!」
澪の悲鳴が響く。
悠は反射的に身体をひねった。
次の瞬間、さっきまで首があった場所を黒い影が通り抜ける。
音はしなかった。
ただ空気だけが裂けた。
数歩離れた場所で立ち止まった影が、ゆっくりこちらを向く。
黒い制服。
黒い髪。
黒い瞳。
鏡を見ているようだった。
悠と同じ顔。
けれど、その表情だけが決定的に違った。
笑っていない。
怒ってもいない。
何も感じていない顔だった。
「……誰だ。」
悠の声は震えていた。
影は答えない。
代わりに首を少し傾ける。
その仕草まで悠と同じだった。
玲奈が一歩前へ出る。
「来ないで。」
影は玲奈を見る。
その瞳が初めて揺れた。
「玲奈。」
低い声だった。
「まだ残っていたんだ。」
玲奈の顔が青ざめる。
「先生!」
医師の女性が玲奈を引き寄せる。
「近づいちゃ駄目!」
影は静かに笑った。
「遅いよ。」
その笑顔だけは、悠にそっくりだった。
十二年間、鏡で見続けた笑顔。
苦しい時も。
怖い時も。
無理やり作ってきた笑顔。
悠は思わず息を呑む。
「……俺だ。」
口から漏れた。
「違う!」
玲奈が叫ぶ。
「お兄ちゃんじゃない!」
影は玲奈を見たまま言った。
「君は昔からそう。」
「本物を見ようとしない。」
悠の胸がざわつく。
「本物?」
医師の女性が震える声で呟いた。
「まさか……人格保存。」
影はゆっくり頷く。
「ようやく思い出した。」
女性の顔色が変わる。
「そんなはずない……あれは失敗したはず。」
「失敗したよ。」
影は淡々と言う。
「身体は死んだ。」
「でも。」
影は悠を指差した。
「人格だけ残った。」
悠は理解できなかった。
「人格?」
「十二年前。」
影の声が部屋に響く。
「お前が父親を拒絶した瞬間。」
「拒絶されたのは父親だけじゃない。」
悠の心臓が大きく鳴る。
「お前自身も拒絶された。」
静寂が落ちる。
誰も動かなかった。
「……何を言ってる。」
「お前は。」
影は一歩近づく。
「人を憎んだ自分も。」
「誰かを見捨てようとした自分も。」
「全部いらないって思った。」
悠の身体が固まる。
「だから。」
影は自分の胸に手を当てる。
「その時、捨てられたのが俺だ。」
玲奈が涙を流す。
「違う……。」
「違わない。」
影は玲奈を見ない。
悠だけを見ていた。
「鈴は怒りだった。」
「玲奈は希望だった。」
「じゃあ俺は何だと思う?」
悠は答えられなかった。
影は少し笑う。
「俺は。」
一拍置く。
「お前の罪悪感だ。」
その言葉と同時に、悠の頭へ大量の記憶が流れ込む。
玲奈を助けたいと思った自分。
みんなを助けたいと思った自分。
それでも一瞬だけ、「玲奈だけでも」と願った自分。
その瞬間に生まれた後悔。
罪悪感。
自分を許せなくなった感情。
全部が一つになって目の前に立っている。
悠は苦しそうに息を吐いた。
「……だから俺を見るたび。」
「苦しかった。」
影が静かに頷く。
「お前は毎日俺を見ていた。」
「鏡の中で。」
悠は膝が震えるのを感じた。
影はもう一歩近づく。
二人の距離は手が届くほどになった。
「俺を拒絶したままで終わるか。」
影が手を差し出す。
「それとも。」
その瞳に初めて感情が宿る。
怒りでも憎しみでもない。
寂しさだった。
「今度は俺も連れて行くか。」
悠は差し出された手を見つめる。
震えている。
影の手も。
自分の手も。
まったく同じように。
その瞬間、部屋全体が激しく揺れた。
天井に大きな亀裂が走る。
警報が鳴り響く。
『最終観測室、崩壊まで残り六百秒。』
無機質な音声が響く。
玲奈が悠の名前を叫ぶ。
「お兄ちゃん!」
崩壊まで、あと十分。
悠の前には、もう一人の自分が立っていた。




