本物
コツ――。
コツ――。
足音は一定だった。
急ぐでもなく、迷うでもなく。
まるで、この場所を知り尽くしている誰かが歩いてくるような音だった。
悠は無意識に玲奈を背中へかばう。
崩れ始めた白い部屋の中で、その足音だけが異様にはっきり聞こえていた。
「玲奈。」
悠は目を離さず尋ねた。
「本物って、誰なんだ。」
玲奈は答えなかった。
唇をきつく結び、ただ扉を見つめている。
こんな玲奈を見るのは初めてだった。
泣いている時よりも、怒っている時よりも。
ずっと怖そうな顔だった。
白い扉が、ゆっくりと開く。
冷たい空気が流れ出した。
そこに立っていたのは、一人の女性だった。
白衣ではない。
病院着のような白い服をまとい、長い黒髪を肩まで垂らしている。
痩せ細った身体。
けれど、その瞳だけは不思議なくらい澄んでいた。
女性は悠を見る。
その瞬間、柔らかく笑った。
「……大きくなったね。」
悠の胸が強く鳴る。
知らない。
なのに、その声を知っている。
「誰……ですか。」
女性は少し寂しそうに笑った。
「覚えていないのも無理ないか。」
一歩、部屋へ入ってくる。
玲奈が震える声を漏らした。
「先生……。」
女性の足が止まる。
「玲奈。」
名前を呼ぶ声は、とても優しかった。
「無事だったんだね。」
玲奈の目から涙がこぼれる。
「先生……。」
悠は二人を見比べた。
「知り合いなのか。」
玲奈は小さく頷く。
「この人は……。」
言葉が詰まる。
代わりに女性自身が答えた。
「鳳園で働いていた医師よ。」
「医師……?」
「子どもたちの健康を見るために来た。」
少しだけ間を置く。
「そういうことになっていた。」
悠はその言葉に違和感を覚えた。
「……ことになっていた?」
女性は苦く笑う。
「本当は、実験の経過を記録する役目だった。」
静かな部屋に、その言葉だけが重く落ちた。
悠の表情が固まる。
「あなたも……実験に関わってたんですか。」
「関わってしまった。」
女性は否定しなかった。
「最初は止められると思っていたの。」
モニターの並ぶ壁へ視線を向ける。
「でも、一人、また一人と子どもが増えて。」
「番号で呼ばれるようになって。」
「気づいた時には、止める側じゃなく、記録する側になっていた。」
玲奈は目を伏せた。
女性はゆっくり悠へ近づく。
「悠。」
初めて名前を呼ばれた。
「あなたに謝らなきゃいけない。」
「……何を。」
「私は、あの日あなたを眠らせた。」
悠の呼吸が止まる。
頭の奥で、何かが繋がった。
煙の中。
玲奈を探して走る自分。
誰かに抱きかかえられる感覚。
腕に刺さる注射。
視界が白く染まる。
「……先生。」
玲奈が小さく呟く。
「お兄ちゃんを眠らせたの?」
女性は涙をこらえるように頷いた。
「悠だけでも生かしたかった。」
「だから眠らせた。」
「目が覚めた時には、全部終わっていた。」
悠は頭を押さえた。
だから記憶が途切れている。
だから最後だけ思い出せなかった。
「玲奈は……?」
震える声で尋ねる。
「その時、玲奈はどこにいた。」
女性は答えられなかった。
その沈黙が怖かった。
「先生。」
悠の声が少し強くなる。
「玲奈はどこにいたんですか。」
女性はゆっくり口を開く。
「あなたが眠ったあと。」
「玲奈は、あなたのそばを離れなかった。」
玲奈が目を閉じる。
「先生、もういい。」
「いいえ。」
女性は首を横に振った。
「もう隠さない。」
悠を見る。
「あの日、一番最後まで残っていたのは玲奈だった。」
「……。」
「玲奈は逃げなかった。」
「あなたを起こそうとしていた。」
悠の胸が締め付けられる。
玲奈はそんなこと、一言も言わなかった。
「どうして言わなかった。」
玲奈は少し笑った。
「約束したから。」
「何を。」
「お兄ちゃんが目を覚ましたら。」
玲奈は涙を拭う。
「全部忘れて、普通に生きてほしいって。」
悠は言葉を失った。
自分を守るために。
玲奈は十二年間、一人で約束を守っていた。
その時だった。
女性の表情が突然変わる。
悠の後ろを見て、顔色が消える。
「下がって!」
鋭い声だった。
悠が振り返る。
部屋の奥。
割れたモニターの黒い画面に、自分たちの姿が映っている。
いや、違う。
映っていたのは一人多かった。
悠のすぐ後ろに。
誰かが立っている。
白い服でも、白衣でもない。
真っ黒な服を着た、人影だった。
ゆっくりと、その影が顔を上げる。
見えた瞳は。
悠と、まったく同じ色をしていた。




