最後の日のノート
悠の指先は、開きかけたページの上で止まっていた。
古びたノートは小さく、角は擦り切れている。何度も開かれた跡があるのに、その次のページだけは不自然なくらい綺麗なままだった。
玲奈はその手を両手で握っていた。
「お願い……そこだけは」
震える声だった。
悠は玲奈を見る。
泣いている。
さっきまで穏やかに笑っていた玲奈が、子どもの頃と同じように涙をこぼしていた。
「そんなに見られたくないことなのか?」
玲奈は首を振る。
「見られたくないんじゃない。」
少し間を置いて続けた。
「思い出してほしくない。」
その言葉が胸に残る。
悠はゆっくり息を吐いた。
「……ごめん。」
玲奈の表情が少しだけ緩む。
「でも。」
悠はノートを見つめたまま言った。
「思い出さないまま終わるほうが、もっと嫌なんだ。」
玲奈は目を閉じた。
止めなかった。
悠はページをめくる。
そこには、色鉛筆で描かれた二人の絵があった。
笑っている男の子と女の子。
手をつないでいる。
その下に、幼い文字。
おにいちゃんへ
わたしがいなくなっても、わらってね。
悠の瞳が揺れた。
「……違う。」
記憶の中では『私を忘れないで』だった。
書いてある言葉は違う。
玲奈は静かに頷いた。
「書き換えられたのは、お兄ちゃんの記憶だけ。」
悠はページをめくる。
次のページ。
文字が途中で途切れていた。
わたし、こわい。
でも、おにいちゃんがいるからだいじょうぶ。
もし、おにいちゃんだけでも――
そこで終わっている。
紙には水滴で滲んだ跡があった。
涙だった。
悠の胸が締め付けられる。
「最後まで書けなかったのか。」
「ううん。」
玲奈が小さく首を振る。
「書いてる途中で、お兄ちゃんが来た。」
記憶が流れ込む。
扉を開ける音。
息を切らした幼い自分。
『玲奈!』
玲奈が笑う。
『来ちゃだめって言ったのに。』
『帰ろう。』
『まだ帰れない。』
その瞬間だった。
部屋の外で警報が鳴る。
赤い光。
白衣の大人たち。
黒瀬の声。
『二人とも確保しろ。』
幼い悠が玲奈の前に立つ。
『触るな!』
玲奈は悠の服を掴んで泣いていた。
『お兄ちゃん、逃げて。』
『嫌だ。』
『お願い!』
その先の記憶だけが真っ白になる。
悠は頭を押さえた。
「そこから先が見えない……。」
父親が静かに言う。
「そこだけは、お前自身が封じた。」
「俺が?」
「一番見たくなかった記憶だからだ。」
玲奈は悠を見つめる。
「お兄ちゃん。」
「……何?」
「最後に約束したこと、覚えてる?」
悠は答えられない。
玲奈は寂しそうに笑う。
「まだ思い出せないんだね。」
そのとき。
ノートの最後のページが、ひとりでにめくれた。
誰も触っていない。
そこには、幼い悠の字が書かれていた。
れいなを、ひとりにしない。
悠の呼吸が止まる。
その文字を書いた瞬間の記憶が、一気によみがえり始めた。
玲奈は涙を浮かべながら微笑んだ。
「約束、見つけてくれてありがとう。」
だが、その直後。
ノートの文字がゆっくりと消え始めた。
まるで誰かが、この約束ごと世界から消そうとしているように。
悠は咄嗟にノートを抱き寄せた。
「待て!」
部屋の奥から、重い足音が響く。
白い光の中に、新しい人影が現れた。
その姿を見た玲奈の顔から笑顔が消える。
「……来ちゃった。」
悠が振り返る。
白衣ではない。
制服でもない。
真っ白な服を着た、小さな男の子だった。
その首にも、銀色の鈴が揺れていた。




