最終記録室
白い光は、廊下の奥から静かに流れ出していた。
壊れた施設の赤い非常灯とは違う。どこか病院を思わせる、冷たく無機質な光だった。
悠はその光を見つめたまま立ち止まる。
胸の奥がざわつく。
足を踏み入れれば、もう戻れない。そんな予感だけがはっきりとあった。
「お兄ちゃん。」
玲奈が袖を掴む。
その手は小さく震えていた。
「お願い。あそこだけは入らないで。」
悠は玲奈を見た。
ここへ来て初めて、玲奈が本気で怯えている顔を見た気がした。
「何があるんだ。」
「思い出したら……。」
玲奈は唇を噛む。
「お兄ちゃんが苦しくなる。」
悠は少しだけ目を伏せる。
「もう十分苦しいよ。」
その一言に、玲奈は何も返せなかった。
沈黙を破ったのは父親だった。
「玲奈。」
低い声が響く。
「隠しても無駄だ。」
玲奈が振り返る。
「あなたは黙って。」
「真実から逃げ続ければ、また同じことを繰り返す。」
「違う!」
玲奈の声が廊下に響いた。
「お兄ちゃんはもう十分壊れた!」
悠は二人の間に立つ。
「やめて。」
静かな声だった。
「俺のことなら、俺が決める。」
玲奈は悠を見つめる。
涙が一粒、頬を伝った。
「……ごめん。」
悠はゆっくり頷き、白い扉へ歩き出した。
扉には何も書かれていない。
ただ、中央に掌を当てるような跡だけが残っていた。
「開くのか。」
悠が手を置いた瞬間、扉が音もなく左右へ開いた。
冷たい空気が流れ出す。
部屋は驚くほど広かった。
壁一面に並ぶモニター。
古びたサーバー。
天井まで届く棚には、無数のファイルが収められている。
その中央だけが空いていた。
白いベッドが、一台。
誰も寝ていない。
けれど、誰かがいた形跡だけが残っていた。
「ここ……。」
悠の足が止まる。
見覚えがある。
記憶ではなく、身体が覚えていた。
毎日ここで目を覚ましていたような感覚。
「……実験室じゃない。」
父親が静かに言った。
「ここは観察室だ。」
「観察?」
「君が眠っている間、毎日記録されていた部屋。」
悠はモニターへ近づく。
画面は真っ黒だった。
しかし、一台だけ電源が入る。
ノイズが走る。
映ったのは、小さな男の子だった。
六歳くらいの悠。
ベッドに座っている。
笑っている。
画面の端に日時が表示されていた。
六月三日 観察一日目。
『神代悠、本日の状態を記録します。』
黒瀬の若い声が聞こえる。
『泣き止むまで三時間二十二分。』
映像の中の悠は、一人で笑っていた。
誰もいない部屋で。
何もない壁に向かって。
「……違う。」
悠が呟く。
「俺、笑ってない。」
映像の笑顔は、不自然だった。
口だけが笑っている。
目は泣いていた。
『成功です。』
黒瀬の声が続く。
『感情抑制反応を確認。』
モニターが切り替わる。
翌日。
また翌日。
また翌日。
毎日、同じ映像。
泣いて。
笑う。
泣いて。
笑う。
泣いて。
笑う。
悠は一歩後ずさった。
「……これを。」
声が震える。
「毎日?」
母親が俯く。
「見ていた。」
その一言だけだった。
悠は息を呑む。
「母さんは。」
「止められなかった。」
母親の肩が震える。
「止めなきゃいけなかったのに。」
悠は何も言えなかった。
怒ることもできない。
ただ胸が苦しい。
その時だった。
部屋の一番奥。
棚の下に、小さな木箱があることに気付く。
埃をかぶった箱。
他の機械とは明らかに違う。
悠はしゃがみ込み、蓋を開けた。
中には一冊だけ、古いノートが入っていた。
表紙は子どもの字で書かれている。
少し歪んだ文字。
そこには――
『れいな と おにいちゃん』
と書かれていた。
玲奈が息を止める。
「それ……。」
悠はノートを開く。
一ページ目には、幼い字で大きく書かれていた。
おにいちゃんへ
わすれちゃったら、これをよんでね。
悠の指先が震えた。
ページをめくろうとした、その瞬間。
玲奈が慌てて悠の手を掴む。
「待って!」
今までで一番大きな声だった。
悠が驚いて玲奈を見る。
玲奈は涙をこぼしながら首を振る。
「その次のページだけは駄目。」
「どうして。」
玲奈は答えられない。
代わりに、震える声で言った。
「そのページを書いた日が……。」
一度言葉が途切れる。
「私が、お兄ちゃんと最後に話した日だから。」
部屋の空気が凍りついた。
悠は開きかけたページを見つめる。
薄く見える文字。
そこには、自分の知らない過去が眠っていた。




