残してくれたもの
玲奈は、そこにいた。
赤い非常灯に照らされた横顔は、記憶の中の少女より少しだけ大人びて見える。それでも、悠を見つめる瞳だけは、あの日と何も変わっていなかった。
悠は息をすることさえ忘れていた。
「……玲奈」
その名前を呼ぶだけで胸が痛む。
玲奈は小さく頷いた。
「やっと呼んでくれた。」
その一言で、悠の中の時間が崩れた。
幼い玲奈の笑顔。
泣き顔。
袖を掴んで離さなかった小さな手。
どれも鮮明になっていく。
「ごめん。」
気づけば謝っていた。
「忘れてた。」
玲奈は首を横に振る。
「忘れたんじゃないよ。」
一歩近づき、悠の胸にそっと手を当てる。
「閉じ込めただけ。」
温かい。
その温もりに、悠は目を閉じた。
「怖かったから。」
「……うん。」
「思い出したら、玲奈まで消えちゃう気がして。」
玲奈は少しだけ笑う。
「お兄ちゃんらしい。」
笑ったあと、その目に涙が浮かんだ。
「でもね。」
「私が一番嫌だったのは。」
一拍置いて、静かに続ける。
「お兄ちゃんが、自分を嫌いになったこと。」
言葉が刺さる。
悠は視線を落とした。
十二年間。
理由も分からず、自分を恐れていた。
笑顔の裏で、自分は壊れている人間なんじゃないかと怯えていた。
玲奈はその頬に手を添えた。
「私は助けてって言ってない。」
「え……?」
「最後まで言わせてもらえなかっただけ。」
悠の頭に、あの日の続きが流れ込む。
炎。
煙。
実験室の警報。
玲奈が必死に何かを叫んでいる。
『お兄ちゃん、逃げて!』
その声だった。
助けてではない。
逃げて、だった。
悠の瞳から涙がこぼれる。
「俺……聞き間違えてた。」
「聞き間違えさせられてた。」
玲奈は静かに訂正した。
悠が振り向く。
母親は苦しそうに目を閉じていた。
「……そう。」
震える声で言う。
「最後の記憶だけ、書き換えた。」
「どうして!」
悠の声が施設に響く。
「どうしてそこまでした!」
「あなたが戻ってこられなくなると思ったから!」
初めて母親が叫んだ。
「あなたは玲奈を助けられなかったことを知ったら、きっと自分を壊すと思った!」
静寂が落ちる。
誰も動けなかった。
母親はその場に崩れ落ちた。
「私は母親だったのに。」
肩を震わせる。
「守る方法を、一つも知らなかった。」
悠はその姿を見つめた。
怒りは消えていない。
許せるわけでもない。
それでも。
泣いている母親を見て、胸の奥に別の感情が生まれていた。
「……許さない。」
悠は静かに言った。
母親の肩が震える。
「でも。」
悠は続けた。
「憎み続けることもしない。」
母親がゆっくり顔を上げる。
「俺はもう。」
「誰かを憎むためだけに生きたくない。」
玲奈が嬉しそうに微笑んだ。
「それでいい。」
その瞬間だった。
施設全体を揺らすような低い振動が響く。
ゴォォォン――。
壁の奥から、重い扉が開く音。
今まで閉ざされていた最深部。
真っ暗な通路の先から、白い光が漏れ始める。
父親の表情が変わった。
「……開いた。」
「何が?」
如月が問いかける。
父親は光の先を見つめたまま呟く。
「最終記録室だ。」
玲奈の笑顔が消えた。
「お兄ちゃん。」
悠を見る瞳に、不安が宿る。
「あそこだけは行っちゃだめ。」
「どうして?」
玲奈は答えない。
代わりに、首元の銀色の鈴を強く握りしめた。
「そこには。」
声が震える。
「お兄ちゃんが、一番忘れたかったものがある。」
白い光が、ゆっくりと廊下へ広がってくる。
その光景を見た瞬間。
悠は理由もなく確信した。
ここまで思い出した記憶は、まだ半分にも満たない。
本当に封じられていた過去は。
あの部屋の向こうで待っている。




