約束
約束。
その言葉が、頭の中に引っかかっていた。
悠は廊下の奥を見つめたまま、動かなかった。
そこにはもう誰もいない。
ただ、床に落ちた銀色の鈴だけが、非常灯の赤い光を受けていた。
――チリン。
風が吹いたわけではない。
それなのに、鈴は鳴った。
「……約束」
悠は小さく呟いた。
思い出せない。
けれど、忘れていることだけは分かる。
それが妙に怖かった。
「悠」
澪が隣に立つ。
「無理に思い出さなくてもいいよ」
「……いや」
悠は首を横に振った。
「思い出さなきゃいけない」
「どうして?」
「玲奈が待ってるから」
口にした瞬間。
胸の奥が痛んだ。
まるで、ずっと閉じ込めていた何かが、内側から扉を叩いているようだった。
「俺は……あいつと約束した」
断片的な記憶が浮かぶ。
白い部屋。
幼い玲奈。
泣き腫らした目。
そして、自分の手。
『私がいなくなっても――』
『うん』
『私のこと、嫌いにならないで』
悠の呼吸が止まる。
「……違う」
思わず声が漏れた。
「これは……」
記憶が変だ。
自分が知っている過去と、何かが噛み合わない。
母親から聞いた話。
父親から聞いた話。
そして、自分自身の記憶。
どれも少しずつ違っている。
「……俺の記憶って」
悠は震える声で言った。
「どこまで本物なんだ?」
誰も答えなかった。
そのときだった。
「全部が嘘、というわけじゃないよ」
声がした。
振り返る。
そこにいたのは――母親だった。
「……母さん」
悠の身体が強張る。
母親はゆっくりと歩いてくる。
疲れ切った顔をしていた。
「あなたの記憶は、消されたものばかりじゃない」
「じゃあ、何なんだよ」
「順番を変えられたの」
「……順番?」
「そう」
母親は立ち止まった。
「出来事そのものを消すより、その前後を入れ替えたほうが……人間は簡単に騙されるから」
悠の顔から血の気が引いた。
「俺は……騙されてた?」
「そう」
「誰に?」
母親は目を伏せる。
「私たちに」
悠は拳を握った。
「……玲奈は?」
「生きてる」
「本当に?」
「ええ」
「じゃあ、どうして俺は忘れてた」
母親はしばらく黙っていた。
そして。
「あなたが、玲奈を拒絶したから」
悠の目が見開かれる。
「……俺が?」
「違う」
母親はすぐに首を横に振った。
「あなたが拒絶したのは、玲奈そのものじゃない」
「じゃあ何を……」
「玲奈が受けていた実験を」
悠は息を呑んだ。
「あなたは、玲奈を助けようとした」
母親の声が震える。
「でも、間に合わなかった」
「……何があった?」
「あなたは泣いていた」
「俺が?」
「ええ」
母親は目を閉じる。
「そして初めて、笑わなかった」
悠の胸が締め付けられる。
「あなたは言ったの」
母親が、静かに続けた。
「――こんな世界、いらないって」
その瞬間。
施設全体が揺れた。
壁の一部が音もなく消える。
床に落ちていた機械も。
古びた実験台も。
そして。
悠の手の中にあった銀色の鈴まで。
淡い光に包まれていく。
「……悠!」
澪が叫ぶ。
だが、悠には聞こえていなかった。
頭の中に。
最後の記憶が浮かんでいた。
泣いている玲奈。
その前に立つ幼い自分。
そして――
自分の背後に立つ父親。
『悠』
『その力を使えば、全部終わらせられる』
幼い悠は震えながら首を振った。
『嫌だ』
『怖いか?』
『違う』
少年は泣きながら答えた。
『玲奈がいなくなるのが嫌なんだ』
父親が笑う。
『なら、拒絶しろ』
そして。
悠は――
「……あ」
目を見開いた。
思い出した。
あの日。
自分が消そうとしたものは。
実験施設だけじゃなかった。
「俺は……」
声が震える。
「玲奈が苦しむ世界そのものを……」
その言葉の続きを。
誰かが引き継いだ。
「そうだよ、お兄ちゃん」
背後から。
懐かしい声。
悠が振り返る。
そこには玲奈が立っていた。
今度は。
消えかけてもいない。
逃げもしない。
ただ、まっすぐ悠を見つめていた。
「だから私、消えなかったんだよ」
玲奈は微笑んだ。
「お兄ちゃんが拒絶した世界の中に――」
一歩。
悠へ近づく。
「私だけは、残してくれたから」




