忘れていた名前
鈴の音が、遠ざかっていく。
悠はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
追いかけなければ。
そう思っているのに、足が動かない。
頭の奥で、さっき少女が口にした言葉だけが何度も繰り返されていた。
『お兄ちゃんの「拒絶」から作られたから』
父親は言っていた。
悠の力は、拒絶する力だと。
自分が本当に拒絶したものを、この世界から消してしまう力。
ならば。
あの少女は何なのか。
「……悠」
澪の声がした。
「大丈夫?」
「……分からない」
悠は正直に答えた。
いつもの自分なら、笑って誤魔化していただろう。
大丈夫だよ。
なんでもない。
そう言って、相手を安心させる。
それが癖になっていた。
けれど今は。
笑えなかった。
「俺……」
喉が乾いていた。
「妹なんて、いたのかな」
澪はすぐには答えなかった。
代わりに、如月が口を開く。
「少なくとも、あなたの記憶にはいない」
「……だよな」
「でも」
如月は少しだけ目を細めた。
「さっきの子を見たとき、あなたは何かを思い出しかけていた」
「……うん」
悠は目を閉じた。
また、あの映像が浮かぶ。
白い部屋。
小さな手。
泣き声。
そして、自分を呼ぶ声。
『お兄ちゃん』
「……」
胸が苦しくなる。
思い出せない。
なのに。
忘れてはいけないものだった。
「黒瀬」
悠は振り返った。
そこにいた黒瀬は、俯いたまま黙っていた。
「お前なら知ってるんだろ」
「……何を」
「あの子のこと」
黒瀬の肩が僅かに揺れた。
「俺の妹なのか?」
「……違う」
返事は早かった。
「お前に妹はいない」
「嘘だ」
悠は一歩近づいた。
「じゃあ、なんでお前はあの子を見て怯えた?」
「……」
「なんで『完成していない』なんて言った?」
黒瀬は答えない。
悠の中で、何かが膨らんでいく。
怒りだった。
けれど。
今までとは違う。
その怒りを無理に押し殺すことはしなかった。
ただ、そこにあるものとして感じていた。
「答えろ」
「……実験体だ」
黒瀬が、ようやく口を開いた。
「あれは、お前の妹じゃない」
「じゃあ何だ」
「……」
「何なんだよ」
黒瀬は顔を上げた。
その目には、恐怖があった。
「お前が十二年前に拒絶したものだ」
悠の呼吸が止まった。
「……俺が?」
「そうだ」
「何を拒絶した?」
「それは――」
突然。
黒瀬の胸元から赤い光が漏れた。
「……っ!」
黒瀬が苦しそうに胸を押さえる。
「黒瀬!」
悠が手を伸ばした。
だが。
黒瀬の身体が、少しずつ透け始める。
「……始まったか」
「何が?」
「施設が消えれば……俺たちも、この場所に紐づいていた存在も……」
黒瀬は苦しそうに笑った。
「一緒に消える」
「待て!」
悠が腕を掴む。
「まだ話は終わってない!」
「神代……」
黒瀬の手が、悠の腕を掴み返す。
「ひとつだけ教えてやる」
その声は震えていた。
「お前が十二年前に拒絶したのは――」
そこまで言った瞬間。
黒瀬の姿が消えた。
「……黒瀬?」
返事はない。
ただ。
床に一本の銀色の鈴が落ちていた。
悠はそれを拾い上げる。
指先が触れた瞬間。
頭の中に、知らない記憶が流れ込んできた。
白い部屋。
幼い自分。
そして。
自分より少し小さな少女。
少女は泣いていた。
『お兄ちゃん』
幼い悠が、その手を握っている。
『大丈夫だよ』
『怖くないよ』
悠は笑っていた。
今と同じように。
誰かを安心させるために。
『僕がいるから』
少女が顔を上げる。
『本当に?』
『うん』
『じゃあ、約束して』
『何を?』
『私がいなくなっても――』
そこで記憶が途切れた。
「……っ!」
悠は頭を押さえた。
そして。
無意識に口から言葉が漏れた。
「……玲奈」
澪が息を呑む。
「今……何て?」
悠自身も驚いていた。
どうしてその名前を知っているのか。
どうして今まで忘れていたのか。
分からない。
けれど。
確かに。
その名前だけは覚えていた。
「……玲奈」
悠は、もう一度呟く。
すると。
遠くから。
少女の声が聞こえた。
『やっと思い出してくれたね』
悠は顔を上げた。
誰もいない廊下の先。
暗闇の中で。
銀色の鈴だけが揺れていた。
――チリン。
そして。
少女は静かに続けた。
『お兄ちゃん』
『約束、まだ覚えてる?』
悠は答えられなかった。
なぜなら。
その約束を思い出した瞬間。
自分が十二年前に何を拒絶したのか。
それまで一緒に思い出してしまいそうだったからだ。




