もう一人の少女
少女は、崩れかけた廊下の向こう側に立っていた。
照明はすでに半分以上が消えている。
赤い非常灯だけが一定の間隔で明滅し、そのたびに少女の姿が闇の中から浮かび上がっては消えていく。
長い髪。
細い身体。
そして、首元に揺れる銀色の鈴。
――チリン。
風などないはずなのに、鈴が鳴った。
「……お兄ちゃん」
少女は、もう一度そう呼んだ。
悠は動かなかった。
いや。
動けなかった。
その声を聞いた瞬間、胸の奥に何かが引っかかった。
知らない。
知らないはずなのに。
知っている。
そんな矛盾した感覚だった。
「……誰だ」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど低かった。
少女は首を傾げる。
「私?」
そして、少しだけ笑った。
「お兄ちゃんが忘れた妹」
「……妹?」
悠の眉が僅かに動く。
隣にいた澪も、如月も言葉を失っていた。
黒瀬だけが違った。
「……あり得ない」
掠れた声だった。
「あり得ない、あり得ない……」
黒瀬は後ずさる。
「どうしてお前がいる……?」
少女が黒瀬を見る。
その瞬間。
表情から笑みが消えた。
「……あなた」
少女の声が冷たくなる。
「嫌い」
黒瀬の身体が強張った。
「お前……記憶が……」
「記憶?」
少女は小さく笑った。
「そういう言い方、嫌い」
一歩。
少女が歩く。
「私には記憶なんて必要ないから」
もう一歩。
「お兄ちゃんが覚えていなくても」
さらに一歩。
「私は、お兄ちゃんを覚えてる」
悠は少女を見つめた。
胸の奥がざわつく。
何かを思い出しそうになる。
けれど。
思い出そうとした瞬間、頭の奥に激しい痛みが走った。
「っ……!」
「悠!」
澪が駆け寄る。
「大丈夫!?」
「……平気」
悠は額を押さえた。
違う。
平気なんかじゃない。
頭の中に、断片的な映像が浮かんでいる。
白い部屋。
冷たい床。
泣いている子供。
自分の手。
そして――
『お兄ちゃん、約束して』
幼い声。
『私を忘れないで』
「……っ」
悠は目を閉じた。
映像が消える。
代わりに、鈴の音だけが残った。
――チリン。
「……お前」
悠は少女を見た。
「名前は?」
少女は少し考えるように目を伏せた。
「名前……」
やがて。
「昔は、番号だったよ」
淡々とした声だった。
「ここにいる子は、みんなそうだった」
少女は首元の鈴に触れる。
「名前なんて、必要なかったから」
悠の拳が強く握られる。
「……それで?」
「でも」
少女は悠を見た。
「お兄ちゃんがつけてくれた」
「……俺が?」
「うん」
少女の顔に、初めて子供らしい笑顔が浮かんだ。
「私の名前」
「……なんて名前だ」
「覚えてない?」
「……悪い」
「そっか」
少女は悲しそうに笑った。
「じゃあ、もう一回教えてあげる」
彼女は胸に手を当てる。
「私の名前は――」
その瞬間だった。
施設の奥で、大きな爆発音が響いた。
轟音と共に床が大きく揺れる。
「きゃっ……!」
澪がよろめく。
悠が反射的にその腕を掴んだ。
「大丈夫か?」
「う、うん……」
しかし。
黒瀬が叫んだ。
「全員、ここから離れろ!」
その声に悠が振り向く。
黒瀬の視線は、少女に向けられていた。
「そいつは……まだ完成していない!」
「完成?」
如月が問い返す。
黒瀬は答えなかった。
代わりに。
少女が口を開く。
「そうだよ」
「……何?」
「私はまだ完成してない」
少女は笑う。
その笑顔は。
どこか悠に似ていた。
「だから――」
鈴が鳴る。
――チリン。
「お兄ちゃんが、完成させて」
悠の背筋に悪寒が走った。
「……俺が?」
「うん」
少女は手を伸ばす。
「だって私」
一瞬だけ。
彼女の目が赤く光った。
「お兄ちゃんの『拒絶』から作られたから」
悠の呼吸が止まる。
父親の言葉が脳裏をよぎった。
――お前の力は、拒絶する力だ。
なら。
鈴が感情から生まれたのだとしたら。
この少女は――
「……何を拒絶したんだ、俺は」
悠が呟く。
少女は答えなかった。
ただ、寂しそうに笑った。
「それを思い出したら……」
少女の姿が、赤い非常灯の向こうへ消えていく。
「お兄ちゃんは、もう笑えなくなるよ」
その言葉を最後に。
少女の姿は闇に溶けた。
悠は追いかけなかった。
追いかけることができなかった。
胸の奥で。
忘れていた何かが。
確かに、目を覚まし始めていたからだ。
そして。
誰にも聞こえないほど小さな声で。
悠は呟いた。
「……俺は、何を忘れた?」
返事の代わりに。
遠くから。
銀色の鈴の音が聞こえた。
――チリン。
まるで。
笑っているように。




