消える前に
「お兄ちゃん」
鈴の声は、妙に穏やかだった。
さっきまで震えていた施設の中で。
警報が鳴り続けている中で。
それでも鈴だけは、静かに笑っていた。
「僕。もうすぐ。いなくなるよ」
「……何言ってんだよ」
悠は鈴の肩を掴んだ。
けれど。
指が、少しだけ沈んだ。
肉に触れている感覚がない。
「……鈴?」
「うん」
鈴は自分の手を見下ろした。
指先が透けている。
その向こう側に、壊れた壁が見えていた。
「僕は、お兄ちゃんから分けられたものだから」
「だったら戻せよ」
即答だった。
「俺の中に戻れ」
「……できないよ」
「なんで」
「もう、分かれちゃったから」
鈴は困ったように笑う。
「怒りも」
「憎しみも」
「怖かった気持ちも」
「全部、お兄ちゃんの中に戻ったんだ」
悠は何も言えなかった。
確かに。
さっきから胸の奥が重い。
怒っている。
怖い。
憎い。
悲しい。
全部が混ざっている。
でも。
以前みたいに、それを否定したいとは思わなかった。
「じゃあ……お前は何なんだよ」
「僕?」
鈴は首を傾げる。
「僕は……」
少し考えて。
胸元の銀色の鈴に触れた。
「お兄ちゃんが、初めて僕につけてくれた名前だよ」
「……名前?」
「うん」
鈴は笑った。
「だから、僕は鈴」
その笑顔を見た瞬間。
悠の胸が痛んだ。
「……消えるなよ」
「無理だよ」
「無理じゃない」
「お兄ちゃん」
「俺は……」
言葉が詰まる。
いつものように笑おうとした。
けれど。
笑えなかった。
「俺は、まだお前に何も返してない」
鈴が目を丸くする。
「返す?」
「ああ」
悠は拳を握った。
「お前が俺の代わりに抱えてたもの」
「全部、返してもらった」
「だから今度は俺が、お前に返す」
「……何を?」
悠は少しだけ笑った。
今度の笑顔は。
誰かを安心させるためのものじゃなかった。
「ありがとう、って」
鈴は黙った。
そして。
小さく笑った。
「……それだけ?」
「ああ」
「安いね」
「うるさい」
「ふふ」
鈴の身体が、さらに薄くなる。
肩が透ける。
腕が消えかける。
「……時間みたい」
「待て」
悠が手を伸ばす。
鈴も手を伸ばす。
二人の指先が触れた。
その瞬間。
銀色の鈴が鳴った。
――チリン。
小さな音だった。
なのに。
施設全体が、その音に反応した。
『対象――神代悠』
機械音声が響く。
『感情分離体の消失を確認』
『実験結果――』
悠は顔を上げた。
「黙れ」
『――成功』
空気が止まった。
成功。
その言葉だけが。
妙に鮮明に残った。
悠の中で。
何かが切れた。
「……成功?」
鈴が目を伏せる。
「お兄ちゃん」
「俺たちを壊して」
「俺から感情を切り離して」
「それで……成功?」
悠の周囲から。
何かが消え始める。
床。
壁。
天井。
壊れた機械。
全部が、黒い穴に飲み込まれるように消えていく。
澪が叫んだ。
「悠!」
如月も気づく。
「神代くん、駄目!」
黒瀬が初めて。
怯えた顔をした。
「……やめろ」
悠は聞かなかった。
「俺が本当に拒絶したいものは――」
鈴を見る。
消えかけた、小さな少年を見る。
「お前じゃない」
悠は静かに言った。
「こんな実験そのものだ」
その瞬間。
銀色の鈴が。
もう一度だけ鳴った。
――チリン。
そして。
施設の奥から。
何かが消えた。
人でも。
機械でもない。
もっと根本的な何かが。
「……え?」
黒瀬が呟く。
「実験記録が……」
画面から。
文字が一行ずつ消えていく。
被験者番号。
実験内容。
死亡記録。
記憶操作。
そして――
神代悠。
その名前まで。
消えた。
「……何をした?」
父親が呆然と呟く。
悠は答えない。
ただ。
目の前にいる鈴だけを見ていた。
すると。
鈴の身体が。
ほんの少しだけ、戻った。
「……あれ?」
悠も目を見開く。
「鈴?」
「僕……」
鈴は自分の手を見る。
さっきまで透けていた指が。
少しだけ実体を取り戻していた。
そして。
鈴は笑った。
「お兄ちゃん」
「うん」
「もしかしたら……」
その先を言う前に。
施設全体が。
大きく揺れた。
『警告』
『実験施設の存在情報に重大な異常』
『消去対象――施設そのもの』
黒瀬の顔から血の気が引いた。
「……まさか」
悠はゆっくり顔を上げる。
「俺が拒絶したものは――」
その答えは。
すぐそこまで来ていた。




