第95話 父の正しさ〜アルブレヒト視点〜
「殿下、印刷所の見学でもしてはいかがでしょう?」
護衛がそう提案してきた。街を歩くようになって数週間。護衛は俺の興味を把握し始めていた。
「印刷所?」
「帝国の技術の粋です。ご興味があれば」
敵国の王子に技術の粋を見せていいのだろうか?
いや、これ以上自問しても無駄だろう。もはや敵国でもない、ということだろう。
俺は頷いた。どうせ暇だ。何もしない日々に、少しでも変化があるならば。
印刷所は、首都の東側にあった。大きな建物だ。レンガ造りの壁、煙突から立ち上る煙、窓からは機械の音が聞こえてくる。
中に入ると、轟音が響いていた。
空気が違う。インクの匂いが鼻を突く。紙の匂いが混ざり合っている。熱気がこもり、職人たちが忙しそうに動き回っている。
巨大な機械が動いている。歯車が回り、レバーが動き、紙が次々と吐き出されていく。
「この活版印刷機なら、一日で本が100冊刷れます」
技師が説明した。誇らしげな顔だ。
「100冊……」
100冊。ノルデンでは、写本師が一冊の本を仕上げるのに何ヶ月もかかる。それが──一日で100冊。
「これで教科書を刷って、全国の子供に配布しています」
「全国の子供に……本を?」
「はい。摂政殿下のご方針で、読み書きができる民を増やしています。貴族はもちろん、町民も、農民も」
技師は当然のことを説明しているかのように、淡々と続けた。
俺は、言葉を失った。
ノルデンでは、貴族の子弟しか字が読めなかった。農民が字を読める必要はないと、誰もが思っていた。字を教える学校など、考えたこともなかった。
この国では、全国の子供に本を配っているのか。
印刷機を見つめる。金属の活字が整然と並んでいる。一つ一つは小さい。だが、それが組み合わさると──本になる。知識になる。力になる。
この差は……軍事力だけじゃない。
国の根幹が、違う。
あの爆発も、あの炎も──こういう技術の積み重ねから生まれたのだ。
印刷所を出た。夏の風が、汗ばんだ頬を撫でる。空は青く、入道雲が湧いている。蝉の声が、どこからか聞こえてくる。
屋敷に戻り、俺は考えた。
父上が国を「売った」理由が、わかった。いや「売った」というのも違う。
負けたからじゃない。勝てるわけがなかったからだ。
遥か遠くから兵を撃ち抜く武器。大地を裂く爆発。城門を溶かす炎。あの兵器だけじゃない。
道路も、税制も、印刷技術も、教育も、何もかもが違う。
父上は3年前、あの化け物の力を肌で感じた。城に忍び込まれ、攫われ、恐怖に叩き落とされた。だから「あれと戦ってはならない」と言い続けた。民のために。国のために。
俺は……父上を臆病者と呼んだ。
何も見えていなかった俺が。何も知らなかった俺が。
一番の愚か者は、俺だった。
足が止まった。夕陽が沈んでいく。街の人々が、家路を急いでいる。
父上は──見えていたのだ。この差を。この国力を。この未来を。
だから──国を手放した。「これ以上、民を死なせないために」
俺は──目を逸らしていたのだ。相手の本来の姿を。
なにも見ていなかった。なんて愚かだったのだろう。
夜、屋敷に戻った。机の上には、紙とペンが置いてある。
手紙を書こうと思った。父上に。
「父上が正しかった」と書きたかった。「あなたは臆病者じゃなかった」と書きたかった。「俺が間違っていた」と書きたかった。
ペンを手に取る。紙を見つめる。
……書けなかった。
俺はまだ、何も成し遂げていない。
父を臆病と罵った俺が、今は人質として飼われている。良い待遇の中で、何もせずに生きている。帝国の民に養われて、ただ息をしている。
この惨めな状態で、何を書けるというんだ。
「父上が正しかった」? 「俺が間違っていた」?
言葉だけなら、誰でも言える。でも俺は──何も証明できない。
父上は、行動で示した。国を手放すという、苦渋の決断で。愚王と呼ばれる覚悟で。民のために。
俺は──何も示せない。人質として飼われているだけだ。
ペンを置いた。紙は、白いままだった。
「……すみません、父上」
誰もいない部屋で、俺は呟いた。
窓の外には、星が瞬いている。夏の夜空だ。蒸し暑い夜だが、星はよく見える。ノルデンでも、同じ星が見えるのだろうか。父上も、今頃──同じ星を見ているのだろうか。
手紙は、まだ書けない。
何かを成し遂げてから。胸を張れる何かを手に入れてから。
そのときに、書こう。
いつか──手紙を書ける日が来るだろうか。そう願いながら、俺は窓の外を見つめ続けた。




