第94話 民が笑っている〜アルブレヒト視点〜
「……少し、街を歩きたい」
護衛に声をかけた。
「かしこまりました。ご案内します」
止めない。相変わらず、止めない。
敵国の王子が街を歩きたいと言っているのに。何の警戒もなく、当然のように準備を始める。
夏の朝だった。空は青く、雲一つない。陽射しが眩しく、汗が滲む。蝉の声が、どこからか聞こえてくる。
屋敷を出ると、暑い空気が肌を撫でた。
じっとりと湿気を含んだ風。ノルデンの夏とは違う。向こうはもっと乾いていた。カラッとした暑さだった。
ここの夏は、まとわりつくような暑さだ。
街に出て、最初に驚いたのは道路だった。
足元の感触が、違う。
「この石畳……均一だな」
「帝国標準です。主要街道はどこでも同じ品質で整備されています。なんでもマカダム舗装というらしいですよ?」
「マカダム……ノルデンの首都より……歩きやすいな」
護衛は、淡々と答えた。自慢するでもなく、当然のことを説明するように。
「摂政殿下のご方針です。物流が良くなれば経済が回る、と」
「……」
見下ろす。石畳は隙間なく敷き詰められている。水はけの溝も、計算されて配置されている。段差もない。均一だ。
道路一つで、これほど変わるものなのか。
ノルデンの首都は、石畳がガタガタだった。雨が降れば水たまりができ、馬車は揺れた。それが当たり前だと思っていた。王城の前だけは整備されていたが、少し離れれば泥濘の道だった。
「……」
俺は、黙って歩き続けた。
通りには人が行き交っている。商人、職人、主婦、子供。誰も俺を気にしない。敵国の王子が歩いているというのに。
いや──彼らにとって、俺はただの「新しい住人」だ。敵でも味方でもない。気にする価値もないのだろう。
市場に足を踏み入れた。
活気が、耳を打った。
「いらっしゃい! 今日は新鮮な魚が入ってるよ!」
「お母さん、あれ買って!」
「はいはい、おやつは一つだけよ」
俺は、足を止めた。
笑っている。
民が、笑っている。
商人が大きな声で呼び込みをしている。顔は汗だくだが、笑っている。客が品定めをしながら、値切り交渉をしている。笑いながら。子供が母親の手を引いて、菓子屋の前で駄々をこねている。母親は困った顔をしているが、目は優しい。
ノルデンでは……こんな顔をしていたか?
思い出そうとする。ノルデンの市場を。ノルデンの民を。
……思い出せない。いや、思い出せる。だが、こんなに笑っていただろうか。こんなに活気があっただろうか。
俺は──民の顔を、見ていたか?
市場は活気に溢れていた。商人が声を張り上げ、客が品定めをし、子供が駆け回る。果物の匂い、魚の匂い、焼きたてのパンの香り。色とりどりの商品が並び、陽光が屋根の隙間から差し込んでいる。
「旦那、これ美味いよ! 食べてみな!」
商人が、俺に声をかけてきた。果物を差し出している。
「……」
「遠慮すんなって! ほれ、美味いから!」
護衛が小さく頷いた。受け取っていい、という合図だ。
俺は果物を受け取り、一口齧った。
甘い。みずみずしい。美味い。
「な? 美味いだろ?」
商人は笑っている。敵国の王子に果物を勧めて、笑っている。
俺が誰か、知らないのだろう。知っていても、気にしないのかもしれない。
当たり前の光景。だが、俺には見慣れない光景だった。
商人たちの会話が、耳に入った。
「今月の税、払ったか?」
「ああ。相変わらず明朗会計だな」
「昔は役人に袖の下を渡さなきゃならなかったのにな」
「摂政殿下様々だよ。あの人が来てから、税の取り立てが公平になった」
「うちの婆さんも『帝国万歳』って言ってるよ」
商人たちは笑っていた。軽口を叩き合いながら、荷物を運んでいる。
俺は、言葉を失った。
税が公平。賄賂がいらない。
ノルデンでは、税の取り立ては役人の裁量だった。気に入らない農民からは多く取り、賄賂を渡す商人からは少なく取る。それが当然だった。誰も疑問に思わなかった。俺も──疑問に思わなかった。
それが普通だと思っていた。どの国でもそうだと思っていた。
ここでは、違うのか。
あの化け物は、こんなところまで──
「殿下、そろそろお戻りになりますか?」
護衛が声をかけてきた。陽が傾き始めている。
「……ああ」
俺は、市場を後にした。
帰り道、俺は考え続けた。
夕陽が街を赤く染めている。影が長く伸び、空が橙色に変わっていく。商人たちが店を閉め始め、子供たちが家路を急いでいる。
一日が終わる。平和な一日が。
俺たちは、何と戦っていたんだ。
5万の兵を率いて、この国に攻め込んだ。民を守るために、と思っていた。ノルデンの誇りのために、と思っていた。
だが……。
遥か遠くから兵を撃ち抜く武器。大地を裂く爆発。鉄の城門すら溶かす炎。
そんな力を持つ国の民が……笑っている。
税は公平だ。道路は整備されている。市場は活気に満ちている。商人は見知らぬ客にも果物を勧め、子供は母親に甘え、主婦は井戸端で笑い合っている。
守るべきノルデンの民より、幸せそうじゃないか。
俺は、何のために戦った。
何のために、あれだけの兵士を死なせた。
民を守るため? 違う。俺が守ろうとしていたのは──ノルデンの「誇り」だ。父上を臆病者と呼び、「雪辱を」と叫んでいた、俺自身の誇りだ。
民のことなど──考えていなかった。
ノルデンの民は、笑っていたか? 俺は見ていたか? 市場を歩いたことがあったか? 民の声を聞いたことがあったか?
……なかった。
王城にいて、貴族と話し、剣を振り、戦略を学んだ。それが王子の務めだと思っていた。
民のことなど、考えたこともなかった。
屋敷が見えてきた。夕陽が窓に反射して、赤く輝いている。
俺は──何のために、生きているのだろう。
何のために──ここにいるのだろう。
……答えは、まだ見つからなかった。
足が重い。心が重い。
門をくぐり、屋敷に入った。使用人が出迎えてくれる。丁寧な挨拶。温かい湯浴みの用意。美味い夕食。
何もかもが、整っている。
何もかもが、優しい。
それが──余計に、胸を締めつけた。
帝国の夏は、まだ終わらない。




