第93話 帝国の異質さ〜アルブレヒト視点〜
毎日が同じだ。
朝、陽の光で目が覚める。使用人がカーテンを開ける音がして、部屋が明るくなる。
「おはようございます、殿下」
起き上がる。顔を洗う。服を着替える。食堂に向かう。
朝食が並んでいる。焼きたてのパン。卵料理。果物。牛乳。
食べる。美味い。
食後は書斎で本を読む。帝国の歴史書。地理の本。言語の教本。読んでも頭に入らない。
昼食。また美味い料理が出てくる。
午後は庭を歩く。噴水の周りをぐるぐると回る。花を眺める。空を見上げる。
夕食。また美味い。
夜、眠る。悪夢を見る。あの戦場の夢。赤い霧の夢。
そして朝が来る。
毎日が同じだ。
窓の外には夏の陽射しが降り注いでいる。庭の木々は緑を茂らせ、花壇には色とりどりの花が咲いている。美しい景色だ。だが、俺の目には灰色に映る。
人質というのは、こういうものか。
鎖に繋がれた方が、まだ気が楽だった。目に見える拘束があれば、怒りの矛先がある。「いつかここを出てやる」と思える。
だが、この待遇には怒る理由がない。
それが、余計に辛い。
「殿下、今日の食事のご希望は?」
使用人が声をかけてきた。相変わらず丁寧な口調。敬意を込めた態度。毎日、同じ時間に、同じように声をかけてくる。
「……なんでもいい」
「では、昨日お気に召されていた魚料理を」
覚えているのか。俺が何を食べたか。俺が何を美味いと思ったか。
「……」
俺は、使用人を見た。中年の男だ。穏やかな顔をしている。俺を恐れている様子はない。緊張もしていない。まるで、長年仕えてきた主人に接するように、自然に振る舞っている。
「……お前、怖くないのか」
「何がですか?」
「俺は敵国の王子だぞ」
使用人は、不思議そうな顔をした。眉をわずかに上げ、首を傾げる。本気で分からない、という顔だ。
「元、でしょう? 今は帝国の客人です」
「……客人? 人質だろう」
「摂政殿下は『保険』とおっしゃっていました」
使用人の声には、何の感情もなかった。事実を述べているだけ。「保険」という言葉に、皮肉も悪意も込められていない。
俺がノルデンの使用人なら、敵国の王子にこんな態度は取れない。言葉の端々に嫌悪が滲むか、怯えるか、どちらかだ。少なくとも「客人」とは呼ばない。
なのに、この男は──まるで天気の話でもするように、俺の立場を口にする。
「お食事の準備、整いましたらお呼びします」
そう言って、使用人は部屋を出ていった。
何を考えているのか、分からない。それが、不気味だった。
数日後、護衛が声をかけてきた。
「殿下、外出されますか?」
「……許されるのか」
「屋敷の周囲でしたら」
「……」
俺は言葉を失った。
ノルデンで捕虜になった者は、地下牢に繋がれた。日の光を見ることすら許されなかった。食事は一日一回、冷めた粥だけ。水は汚れていた。
それが「敵」の扱いだと、俺は思っていた。
護衛は、微笑んだ。若い男だった。俺より少し年上か。
「道に迷われると困りますので、ご案内します」
監視を、案内と呼ぶのか。
俺はその言い換えに、怒る気にもなれなかった。
屋敷の門を出て、通りに出る。護衛が後ろについてくるが、距離を置いている。止める気配はない。
街は賑わっていた。商人が声を張り上げ、子供が走り回り、女たちが井戸端会議をしている。荷車が通り過ぎ、犬が吠え、どこかで赤ん坊が泣いている。
活気に満ちた、平和な光景。
歩きながら、俺は街を見た。
道が広い。石畳が整然と敷かれている。ノルデンの街道はぬかるんだ土の道で、雨の日は泥濘に足を取られた。ここでは、荷馬車がすれ違えるほどの幅がある。
子供たちが何かを読んでいた。紙だ。紙を持っている。ノルデンでは、紙は貴族の贅沢品だった。それを、子供が──農民の子供が、当然のように手にしている。
市場を通り過ぎた。品物の種類が多い。野菜、果物、肉、魚、布、陶器。値札がついている。ノルデンでは、値段は売り手の言い値だった。ここでは、誰もが同じ値段で買える。
……何だ、この国は。
誰も俺を見ない。
敵国の王子が歩いているというのに。誰も俺に気づかない。いや──気づいていても、気にしていない。
「あれ、ノルデンの王子様じゃない?」
「ああ、そうらしいな」
「かわいそうに。まあ、仕方ないさ」
通りすがりの会話が、耳に入った。それだけだ。それ以上の反応はない。憎しみは、ない。
俺は──ただの「新しい住人」として扱われている。
地下牢でも、鎖でも、唾でもない。無関心。それが帝国の答えだった。
俺は脅威ですらないのだと、この街が教えていた。
夜、俺は天井を見上げた。
ベッドに横になっている。柔らかい寝具。清潔なシーツ。涼しい夜風が窓から入ってくる。
恨もうとしている。復讐を誓おうとしている。
「いつか、あの化け物を……」
そう思おうとする。だが、続かない。言葉が、心に響かない。
怒りの火が、つかない。湿った薪のように、何度火をつけてもすぐに消える。
昼間見た街の光景が、頭から離れなかった。
あの道。あの市場。あの子供たち。紙を持っていた、あの子供たち。
……父上は、これを見たのだろうか。
3年前の停戦の後、父上は変わった。何かを悟ったように、口数が減った。俺が「反撃を」と進言しても、首を横に振るだけだった。
あの時は、臆病者だと思った。
でも──もし、父上がこの国を見ていたなら。
この豊かさを。この街を。この民の顔を。
……分からない。まだ、分からない。
ただ──父上が何かを知っていたのだろうということだけは、今日、少しだけ分かった気がした。
これが……あの化け物のやり方か。
怒りの火種を、一つも残さない。俺から恨む理由を、全て奪っていく。
だからこそ、余計に……悔しい。
俺は負けたのだ。あの戦場でだけではない。今も、負け続けている。この待遇に甘んじている時点で、俺は負けている。
恨むことすら許されない。それが、どれほど屈辱的か。
俺は──何をすればいいのだろう。
王子として生まれ、王子として育った。いつか国を継ぐと思っていた。いつか民を率いると思っていた。
今は──何もない。国もない。民もいない。役目もない。
ただ、生きているだけ。飼われているだけ。
答えは、見つからなかった。
目を閉じる。また、悪夢を見るのだろう。あの赤い霧の夢を。
でも、それ以外に──俺には、何もなかった。




