第89話 国とは何か〜ヴィルヘルム三世視点〜
「二人で話したい」
俺がそう申し出ると、帝国の摂政──シャルロッテは従者たちを下がらせた。
窓辺に立ち、夕陽を眺めながら、俺はふっと言葉を漏らした。
「……国とは、何なんだろうな」
「あなたはどう思うの?」
シャルロッテは俺に尋ねた。
国とは何か。
王として生まれ、王として育ち、王として生きてきた。だが、その問いに正面から向き合ったことがあっただろうか。
「……民を治める仕組み、か」
「私は、器だと思う」
「器?」
シャルロッテは窓の外を見つめたまま、言った。
「民を入れる器」
「……」
「でも──器が割れても、中身は消えないわ」
俺は、その言葉の意味を考えた。
器が割れても、中身は消えない。
「ノルデンの空も、山も、川も、何も変わらない」
シャルロッテは続けた。
「民の記憶も、言葉も、文化も、そのまま」
「……」
「……王家の旗が降りただけよ」
──それだけ、か。
俺は、その言葉を噛み締めた。
100年続いた王家の旗。父から受け継ぎ、息子に渡すはずだった旗。それが降りることは、俺にとって全ての終わりに思えた。
だが──シャルロッテにとっては、「それだけ」なのだ。
「郷愁をお持ちなら、それは土地に向けてちょうだい」
シャルロッテは、俺に向き直った。
「器に向けるものじゃないわ」
9歳の子供の言葉とは思えなかった。いや──シャルロッテを子供だと思うこと自体が、間違いなのだろう。
「その器に身を委ねるかどうかは、民が決めることだろう」
俺は言い返した。
「ええ。だから私は善政を敷く」
シャルロッテは、迷いなく答えた。
「どの国よりも圧倒的に良い暮らしを与える。国が民を選ぶんじゃない。民が『良い国』を選ぶようにする」
「……乱暴な理屈だな」
「乱暴よ。でも反論できる?」
俺は口を閉じた。
反論できない。3年間、帝国を見て回った俺には、反論する言葉がなかった。民が笑っている。それが全てだった。
だが──一つだけ。
「理屈で従わせた民は、理屈で離れる」
シャルロッテの表情が、一瞬だけ変わった。
「……そうね」
その「そうね」に、何かが含まれていた。
「『良い国』であれば国王も摂政もいらないのよ。そもそも私みたいな人間が、国家のこの立場にいるほうがよっぽどおかしいわ」
俺は、シャルロッテを見た。
文字通り受け取れば、9歳の子供がこの立場にいる、というのがおかしいととれる。でもどうしても文字通りに受け止めることができない──彼女はどこか遠くを見ている。
「……お主、まさか」
「……」
「王政そのものを終わらせるつもりか」
シャルロッテは、答えなかった。
ただ、静かに笑った。
「さあ、どうかしら。私はただの幼女よ」
冗談のような言葉だった。だが、俺には分かった。
シャルロッテは──「王」という存在そのものを、いずれ終わらせようとしているのかもしれない。
理屈で従わせた民は、理屈で離れる。
その言葉に、シャルロッテは「そうね」と答えた。つまり──自分がいなくなった後のことを、既に考えているのだ。
恐ろしい子供だ。
いや──恐ろしい、などという言葉では足りない。
俺は──シャルロッテを、少しだけ理解した気がした。
俺は愚王として、一つの国を終わらせた。民のために、恨みを引き受けて、王家の旗を降ろした。
シャルロッテは──もっと根本的なところを変えようとしている。
「──化け物め」
それは──悪口ではなかった。
「お褒めの言葉として受け取っておくわ」
シャルロッテは、不敵に笑った。
「……では、また。元・ノルデン王」
シャルロッテは去っていった。
俺は──その小さな背中を見送りながら、静かに頭を下げた。
敵として戦った相手に。
国を奪った相手に。
だが──同じ覚悟を持つ者に。俺よりもっと崇高な覚悟を持ったものに。
俺は、頭を下げた。




