第88話 愚王〜ヴィルヘルム三世視点〜
会談が終わった。
帝国の摂政──あの子供は去っていった。
俺は一人、城の広間に残されていた。溶けた城門の、あの城の。窓から差し込む夕陽が、石畳に長い影を落としている。
……終わったのだ。
ノルデン王国は、今日で終わった。
だが──今日負けたわけではない。
とうに負けていたのだ。3年前から、分かっていたことだ。
停戦が成立して半年後のことだった。
俺は城を抜け出した。
白髪の鬘を被り、襤褸をまとい、荷車を引く。誰が見ても、老いた行商人にしか見えない姿。側近のハインリヒだけが、俺の計画を知っていた。
「陛下、危険です!」
「あの幼女の正体を見極めねば。この目で。俺の危険など些事だ」
そう言って、俺は城を後にした。
──本当は、別の理由があった。
あの化け物が治める国が、どんな地獄になっているか。それを、この目で確かめたかったのだ。
3年前、俺は6歳の小娘に荷物のように抱えられて、夜空を跳んだ。あれは悪夢だった。人間にできることではなかった。
あの化け物が治める国は、きっと地獄だろう。民は搾取され、苦しんでいるに違いない。それを見れば、ささくれだっている俺の心も少しは晴れる。そう思っていた。
帝国領に入って、最初に驚いたのは畑だった。
──豊かすぎる。
ノルデンでは見たこともない作物が、整然と並んでいた。畝と畝の間隔が均一で、雑草がほとんどない。
「今年も豊作だな」
荷車を引きながら通りかかった村で、農民たちの声が聞こえた。
「肥料のおかげだ。お上が配ってくれるやつ」
「ありがたいことだ。去年の倍は穫れる」
……肥料を、国が配っている?
俺は足を止めた。
ノルデンでは、農民は自分の糞尿を畑に撒く程度だ。国が肥料を配るなど、聞いたこともない。
村人に話を聞くと、「輪作」という農法を教えられた。同じ畑で違う作物を順番に育てることで、土地を休ませながら効率よく収穫できるのだという。
「摂政殿下が広めた農法でさ」
「おかげで飢饉がなくなった」
……あの化け物が?
俺は、自分の耳を疑った。
ある村で、子どもたちの声が聞こえた。
──学校だ。
荷車を脇道に止め、俺は窓に近づいた。中を覗くと、子どもたちが石板に何かを書いていた。
農民の子どもが、だ。
ノルデンでは、貴族の一部の子どもしか文字を習わない。農民に字など必要ない──それが常識だった。
「はい、今日はここまで。明日は算術ですよ」
「はーい!」
子どもたちの声は明るかった。
俺は、しばらくその場を動けなかった。
……なんだ、これは。
農民の子どもが、字を書いて、算術を学んでいる。算術はノルデンでは、王族や限られた商人のみが使える技術だ。それを農民が学んでいる。貴族、商人どころか、あの農民が、だ。
しかも、国がその費用を出しているという。
「うちの子も来年から通うんだ。うちの子が文字を書くようになるんだぜ?」
「いい時代になったもんだ」
「だな。摂政様、様々だ」
通りすがりの農民が、誇らしげに話していた。
各地を回りながら、俺は民の顔を見た。
笑っていた。
帝国の民は、笑っていた。
ノルデンの民も笑う。祭りの日には、酒を飲んで歌う。だが──どこか違った。
飢えの心配がない顔。
明日を恐れない顔。
子どもの将来を楽しみにしている顔。
俺がノルデンで見てきた民の顔とは、何かが根本的に違っていた。
……これが、あの化け物の治める国か。
地獄どころではない。
ノルデンより、遥かに──
その先は言いたくなかった。
3年間、俺は帝国中を歩いた。
北の穀倉地帯から、南の港町まで。東の鉱山から、西の牧草地まで。行商人として荷を運びながら、この国の隅々を見て回った。
そして、悟った。
──勝てない。
武力ではない。
国の地力で、勝てない。
農業、教育、物流、民の意識。全てにおいて、帝国はノルデンを上回っている。しかも、その差は年々広がっている。
10年後には、もっと差がつく。
20年後には、手が届かなくなる。
代々の恨みのせいで、目が曇っていた。100年間、帝国を「敵」としか見てこなかった。その向こうに、民の暮らしがあることを、俺は見ようとしなかった。
これは──俺にはできないことだ。
農業を変え、教育を広め、民を笑顔にする。それには何十年もかかる。俺の代では、間に合わない。
ならば──
窓の外を見た。
ノルデンの城下町が見える。夕陽に染まった屋根が、オレンジ色に輝いている。俺が生まれ育った街だ。父が、祖父が、守ってきた街だ。
明日から、ここは「帝国領」になる。
だが──あの豊かさが、この国にも来る。
子どもたちが学校で学ぶ日が来る。
農民が飢えを恐れずに済む日が来る。
俺の代では、できなかったことが。
俺は未来に、愚王と呼ばれるだろう。100年後、200年後にずっと愚王として名が残るのだ。
息子のアルブレヒトは、俺を恨んでいるに違いない。俺が見た事実を、そして俺の考えを、覚悟を話せば、あの子は演技などできない。だから、本気で恨んでもらう必要があった。
民も、恨みを向ける先が必要だ。
「王が愚かだったから負けた」──そう思ってもらえれば、民は新しい支配者を受け入れやすい。
全てを、俺が引き受ける。
──それでいい。
俺が愚王になることで、民が救われるなら。
「……これでいいんだ」
俺は、静かに目を閉じた。
俺は殺されると思っていた。首だけになって、さらされると思った。
でもそうはされなかった。無様に生き残ってしまった。
『民を想うなら、生きて見届けなさい。自分が手放した国が、どうなるのかを』
一生の宿題をもらってしまった。併合された、ノルデンの──帝国の未来を見届けるという。
窓の外では、ノルデンの旗がゆっくりと降ろされていく。青と白の、見慣れた旗が。




