第85話 地獄〜アルブレヒト視点〜
丘の上で、何かが光った。
その直後──
遥か前方で、大地が裂けた。
轟音が世界を呑み込んだ。
咄嗟に耳を塞いだ。だが、遅かった。鼓膜が破れるかと思うほどの音圧が、頭蓋を揺さぶった。
『それ』が起きたのは俺たちと帝国軍の、ちょうど中間地点だった。
誰もいない平原。そこに──巨大な穴が、突然現れた。
土煙が空高く噴き上がる。衝撃波が顔を叩いた。馬が嘶き、暴れる。
反射的に身を伏せた。馬の首にしがみつく。周りでは兵士たちが地面に伏せている。
何秒経っただろう。
恐る恐る顔を上げた。耳鳴りがする。周りの音が遠い。
「な──」
俺は言葉を失った。
周りの兵士たちも、ゆっくりと身を起こしていた。
何が起きた?
今、何が起きた?
轟音の余韻が消えていく。土煙がゆっくりと晴れていく。
そこには──村がひとつ呑み込まれるほどの、巨大な穴が口を開けていた。
黒い。底が見えない。まるで大地が、神に食い千切られたかのようだった。
「……何だ、あれは……」
誰かが呟いた。
誰も答えられなかった。
静寂が、戦場を支配した。
5万の軍勢が、一斉に立ち止まっている。誰も動かない。誰も声を出せない。目の前の光景を、誰も理解できなかった。
帝国軍も動かない。
俺たちも動けない。
ただ、その穴を──見つめていた。
どれくらいの時間が経っただろう。
数秒か。数十秒か。
俺は馬上で呆然としていた。
──何だ、今のは。
魔法か? この世界に魔法はある。だが、こんな強力な魔法は見たことがない。俺は知らない。いや、そもそも魔法なのか?
神の怒りか? いや、馬鹿馬鹿しい。
だが、あの穴は現実だ。大地が消し飛んだのは、確かだ。
「……殿下」
将軍の声が聞こえた。震えている。
「あれは……何でしょうか……」
「知るか」
俺も震えていた。
あの穴が、もし──俺たちの足元にあったら。
考えたくなかった。
静寂を破ったのは──また、轟音だった。
今度は、さっきより近い。
俺たちの前方──弓の射程ほど先の地面が噴き上がった。
「──っ!?」
馬が暴れる。振り落とされそうになって、必死で手綱を握った。
また穴が空いている。さっきより小さいが、それでも馬車が丸ごと落ちる大きさだ。
──近い。
さっきより、近い。
「……来る」
俺は理解した。
爆発が、こちらに向かって来ている。
次の爆発。
さらに近い。石が飛んできた。
次の爆発。
熱風が顔を焼く。
土が噴き上がるたびに、距離が縮まる。轟音で耳が痛い。
「う、うわああああ!」
誰かが叫んだ。
「逃げろ! 逃げろ!」
「どこに逃げるんだ!?」
パニックが広がる。兵士たちが散り散りに逃げ始めた。だが、どこに逃げればいい? 前か? 後ろか? 次はどこが爆発するかわからない。
次の爆発。
すぐそこだ。土砂が降り注ぐ。悲鳴が上がる。
次の爆発──
目の前で、兵士たちが消えた。
いや、消えたのではない。
爆発の中心にいた者たちは──肉片に変わった。
赤い霧が舞った。
何かが顔に当たった。生温かい。
俺は、自分の頬を拭った。手が赤く染まっていた。
──血だ。
誰の血だ。
さっきまで隣にいた兵士か。名前も知らない男だ。俺と同じように馬を駆っていた。俺と同じように剣を握っていた。
それが、跡形もない。
「……っ」
吐き気がこみ上げた。
だが、吐いている暇はなかった。
また爆発。また。また。
連続で、さらに近くなる。
「殿下! お下がりくださ──」
護衛の兵士が、俺の前に立った。
若い兵士だった。俺より少し年上くらいの、真面目そうな顔をした男だった。
その男が、俺を庇おうとした瞬間──
爆発が、彼を呑み込んだ。
目の前で。
俺の目の前で。
彼は──赤い霧になった。声も上げられずに。俺を守ろうとして。
「……」
声が出なかった。
叫びたかった。でも、喉が動かなかった。
5万の軍が、大パニックに陥っていた。
統率など、もうどこにもない。将軍も兵士も、ただ悲鳴を上げて逃げ惑っている。旗は倒れ、陣形は崩壊し、誰も誰の命令も聞いていなかった。
逃げようとした者が、爆発に巻き込まれる。
立ち止まった者が、次の爆発で肉片に変わる。
泣き叫ぶ者。祈る者。仲間の名を呼ぶ者。
地獄だった。
これは戦争じゃない。
一方的な──虐殺だ。
丘の上を見た。
帝国軍は──動いていない。
突撃してこない。追い打ちをかけてこない。剣を抜くことすらしていない。
ただ、見ている。
俺たちが、勝手に死んでいくのを。
最初の爆発は、俺たちと帝国軍の中間だった。
誰も死ななかった。
あれは──警告だったのか。
「ここから先に来たら、こうなる」という。
だが俺たちは止まらなかった。止まれなかった。何が起きたか理解する前に、次の爆発が始まった。
いや、違う。
止まる時間は、あった。
あの静寂の間に、撤退を命じることはできた。
俺が──命じなかった。
呆然としていた。何が起きたか理解できずに、ただ立ち尽くしていた。
その間に──爆発は、俺たちの足元まで迫ってきた。
──これが。
これが、あの化け物の力か。
3年前のあの夜。
王城に一人で乗り込んできた、6歳の少女。父上を攫い、恐怖に叩き落とし、何もできないまま解放した、あの存在。
父上は──この力を、肌で感じたのだ。
あの子供の背後にある、底知れない何かを。
だから、あれほど怯えていたのか。だから、「あれと戦ってはならない」と言い続けていたのか。
俺は──父上を、臆病者と呼んだ。
腰抜けだと。情けないと。ノルデンの恥だと。
そう思っていた。
でも、違った。
父上は──知っていたのだ。
これを。この地獄を。
「……化け物」
声が震えた。
俺の口から漏れた言葉は、かつて父上が言っていたのと同じ言葉だった。
「……化け物め……」
俺は──間違っていた。
父上を臆病者と罵った俺が、一番の愚か者だった。
爆発が──止んだ。
突然の静寂。
いや、静寂じゃない。呻き声と、泣き声と、悲鳴が混ざった音が、そこかしこから聞こえてくる。助けを求める声。仲間の名を呼ぶ声。神に祈る声。
5万いた軍が──どれだけ残っているかわからない。
周りを見渡す。立っている者は、ほとんどいなかった。地面に伏せている者。座り込んでいる者。動かない者。そして──赤い染みになった者。
「……撤退だ」
俺は、声を絞り出した。
「撤退しろ……! 近くの城に逃げ込め……!」
籠城だ。
城壁があれば、守れる。城壁があれば、この爆発も防げるはずだ。
「殿下、お怪我が──」
誰かが俺の腕を支えた。見ると、血が流れていた。いつ怪我をしたのか分からない。痛みすら感じなかった。
「構うな……! 走れ……!」
俺は走った。
生き残った兵士たちと共に、必死で走った。振り返らなかった。振り返ったら、もう動けなくなる気がした。
遠くに、城が見える。
あそこに逃げ込めば。あそこに籠もれば。
城壁があれば──守れる、はずだ。
そう自分に言い聞かせた。
だが、足が震えていた。
さっきまでの自信は、跡形もなく消えていた。
5万の軍を率いて、帝国を滅ぼすと息巻いていた俺が──今は、ただ逃げている。
情けない。
だが、それ以上に──怖かった。




