第84話 敵本隊〜アルブレヒト視点〜
5万の軍勢を率いて、丘に向かう。
地鳴りのような足音が大地を揺らしていた。土煙が舞い上がり、秋の陽光を霞ませる。ノルデンの青と白の旗が風にはためき、その数は数え切れないほどだった。
俺は馬上から振り返り、自軍を見渡した。
地平線の果てまで、兵士たちが続いている。槍の穂先が陽光を反射し、まるで銀の波のようだ。これがノルデンの力だ。これが、父上の代では成し遂げられなかった雪辱を果たす軍勢だ。
「殿下、先遣隊の報告では敵の武器が──」
将軍が馬を寄せてきた。その顔には、まだ先ほどの報告の影響が残っている。
「同じことを何度も言わせるな」
俺は将軍を睨みつけた。
「臆病者どもが逃げ帰っただけだ。本隊が出れば話は違う」
「しかし、200名が全滅──」
「だから何だ」
俺は前方を指差した。
「あの丘を見ろ。敵は10000もいない。我が軍は5万だ」
5万。
この数を前にして、まともに戦える国などない。あるはずがない。
父上は3年前、たった一人の子供に屈した。城に忍び込まれ、攫われ、恐怖に震えて帰ってきた。その話を聞いた時、俺は恥ずかしさで死にたくなった。
ノルデンの王が、6歳の小娘に膝を屈した。
その屈辱を、今日、俺が晴らす。
丘が近づいてくる。
緩やかな傾斜の丘陵地帯。頂上付近に、帝国軍の陣が見えた。
──少ない。
やはり10000もいないように見える。たったそれだけの兵力で、我が軍を止められると思っているのか。笑わせる。
風が吹いた。
こちらに向かって吹いている。風下か。将軍が地形の不利を言っていたが、この数の前では些細なことだ。
だが──その後ろに、何かがいた。
「……なんだ、あれは」
目を凝らす。
敵陣の後方に、軍装ではない集団がいる。色とりどりの衣装。日傘を差している者までいた。女性もいるということだ。
「貴族……でしょうか。着飾っておりますな」
将軍が眉をひそめた。
戦場に、貴族。
まるで野外の観劇にでも来たかのような出で立ちだ。椅子に座っている者もいる。従者が飲み物を運んでいるのが見えた。
俺は理解できなかった。
これから血が流れる場所に、なぜ着飾った貴族がいる? 何のために?
「……ふん」
俺は鼻で笑った。
「物見遊山か。戦争を見世物にするとは、帝国も堕ちたものだな」
「殿下、罠では……」
「罠だと? あの貴族どもを見ろ」
連中は困惑した様子で、あちこちを見回している。落ち着かない様子で隣の者と言葉を交わし、こちらの軍勢を見て顔を青くしている者もいた。
自分たちがなぜここにいるのか、わかっていないような顔だ。
「連中も何も知らされていないのだろう。戦など見たこともない平和ボケどもだ」
「しかし──」
「ならば見せてやろう」
俺は剣を抜き、高く掲げた。
陽光が刃を照らし、きらりと輝く。俺の剣を見た兵士たちが、次々と声を上げ始めた。
「ノルデンの力を!」
5万の兵が、俺の言葉に応える。
雄叫びが大地を震わせた。槍が掲げられ、剣が抜かれ、5万の喉から発せられる咆哮が空気を震わせる。この瞬間、俺は確信した。勝てる。必ず勝てる。
「全軍──突撃ィ!!」
地鳴りが轟いた。
5万の軍勢が、一斉に丘に向かって走り出す。大地が揺れる。土煙が空を覆う。俺は馬に鞭を入れ、先頭集団に並んだ。
王子自ら先陣を切る。
それがノルデンの誇りだ。
馬を駆りながら、俺は丘の上を見据えた。
風を切る音。蹄の音。兵士たちの息遣い。全てが一つになって、戦場の音を作り出している。
帝国軍は動かない。
逃げるでもなく、迎え撃つでもなく、ただこちらを見ている。
──何を考えている?
5万の軍勢が押し寄せているのだ。普通なら、逃げるか、必死で防御陣を組むか、どちらかだろう。それが戦の常識だ。
なのに、連中は──動かない。
妙だ。
距離が縮まる。
兵士たちの顔が見える距離まで近づいた。緊張しているようにも見えるし、困惑しているようにも見える。武器を構えてはいるが、どこか落ち着かない様子だ。
何かを待っているのか?
後方の貴族たちは、さらに顔を青くしていた。中には目を背けている者もいる。これから起きる惨劇を、見たくないのだろう。
──哀れなものだ。
戦場に引きずり出されて、味方が蹂躙されるのを見届けさせられる。摂政とやらは、自国の貴族に何をさせたいのか。
「……まあいい」
考えても仕方がない。この数で押しつぶせば、どんな策も無意味だ。
先陣が丘の中腹に差し掛かる。
あと少し。あと少しで敵陣に届く。
俺は剣を握り直した。
最初の一太刀は、俺が振るう。王子として、この軍を率いる者として、最初の血は俺が流させる。
──今日、帝国は終わる。
3年前の屈辱を晴らす。父上の名誉を取り戻す。ノルデンの誇りを、世界に示す。
そう確信した、その瞬間──
丘の上で、何かが光った。
小さな、火花のような光。
それが何なのか、俺には分からなかった。
分かる前に──世界が、変わった。




