第82話 侵略〜アルブレヒト視点〜
289年、10月。
秋の朝だった。
国境沿いの平原に、5万の軍勢が整列していた。朝霧が薄く立ち込める中、ノルデンの軍旗が風にはためいている。
吐く息が白い。鎧の金属が冷たい。だが、俺の胸は熱く燃えていた。
眼前に広がる軍勢を見渡す。歩兵、弓兵、騎兵。整然と並ぶ兵士たちの顔には、緊張と高揚が入り混じっている。誰もが、この日を待っていた。3年前の屈辱を晴らす、この日を。
俺は馬上で剣を掲げた。
「兵士たちよ!」
声が、朝の冷たい空気を裂いた。5万の視線が、俺に集まる。
「今日、我々は3年前の屈辱を晴らす!」
兵士たちの目が、熱を帯びる。彼らもまた覚えているのだ。父上が負けて帰ってきたあの日のことを。ノルデンの威信が地に落ちたあの日のことを。
「敵は子供の摂政に率いられた弱小国だ!」
嘲笑が広がる。そうだ、帝国など恐れるに足りない。
「正面から押しつぶせ! ノルデンの誇りを取り戻せ!」
一瞬の静寂。
そして──歓声が爆発した。
地鳴りのような鬨の声が、平原に響き渡る。5万の兵士が、一斉に武器を掲げ、声を上げる。その振動が、大地を通じて俺の体に伝わってきた。
──これだ。
これがノルデンの力だ。父上が失った誇りを、俺が取り戻す。
進軍が始まった。
5万の軍勢が、整然と大地を踏みしめる。馬蹄の音、鎧の金属音、兵士たちの足音。それらが混ざり合い、一つの巨大な音となって平原を支配していた。
先頭を行く俺の背後に、ノルデンの軍旗がはためく。青地に銀の狼──代々の王が掲げてきた誇りの象徴だ。
父上も、かつてはこの旗の下で戦っていた。先陣を切り、兵士たちを鼓舞し、敵を打ち破っていた。だが今の父上は城に籠もったまま、見送りにすら来なかった。
──俺が、父上の代わりにこの旗を掲げる。
「殿下、間もなく国境です」
将軍が馬を寄せてきた。
「敵軍の動きは」
「斥候の報告では、帝国軍は1万ほど。国境から2日ほど奥に布陣しているようです」
1万。我が軍の5分の1。話にならない。
「よし」
俺は前方を見据えた。なだらかな丘陵の向こうに、帝国領が広がっている。100年間、幾度となく争われてきた国境線。今日、俺たちはそれを越える。
丘を越えた瞬間、将軍が声を上げた。
「殿下、国境を越えました」
帝国領に、足を踏み入れた。
不思議な感覚だった。大地の色も、空の色も、何も変わらない。同じ草が生え、同じ風が吹いている。だが、ここはもう敵国だ。100年の因縁を背負った、宿敵の土地だ。
祖父も、曽祖父も、この線を越えて戦った。そして、誰も決着をつけられなかった。
──俺が終わらせる。
「このまま進め。斥候を先行させろ」
「はっ」
進軍は順調だった。
あまりにも順調すぎた。
半日が過ぎても、帝国軍の姿は見えない。街道沿いの村を通り過ぎても、抵抗らしい抵抗がない。
「殿下、斥候が戻りました」
「報告せよ」
「前方に帝国軍の姿はありません。村も……無人です」
「無人?」
俺は眉をひそめた。
「住民が避難したようです。家畜も、食料も、何もかも持ち去られています」
……焦土作戦か?
俺は馬を止め、近くの村に目を向けた。
静まり返っていた。人の気配がまるでない。家々の扉は閉ざされ、井戸には水桶が残されたままだ。風が吹くたびに、壊れた柵が軋む音がする。それが、かえって静寂を際立たせていた。
兵士の一人が、近くの家を調べて戻ってきた。
「殿下、竈にはまだ灰が残っております。昨日か一昨日まで、人がいたようです」
「それが、今は誰もいない」
「……はい」
住民たちは、俺たちが来ることを知っていた。そして、逃げた。家畜も、食料も、何もかも持って。
まるで──何かから逃げるように。
いや、違う。俺たちを恐れて逃げたのだ。5万の軍勢が来ると聞いて、怯えて逃げ出したのだ。
「殿下、罠では?」
将軍が進言する。その声には、隠しきれない不安が滲んでいた。
「臆病なことを言うな」
俺は首を横に振った。
「敵は1万だ。5万の我が軍に正面から当たれないだけだろう」
「しかし、この徹底した避難は──」
「敵が怯えている証拠だ。我が軍の威容を聞いて、民を逃がしたのだろう」
「……」
将軍は黙った。だが、納得したようには見えなかった。
正直に言えば、俺も違和感を覚えていた。これほど徹底した避難は、普通ではない。焦土作戦にしても、ここまで完璧に行うには時間がかかる。
まるで、俺たちが来ることを──ずっと前から知っていたかのようだ。
だが、その違和感を口にするわけにはいかなかった。5万の兵士の前で、総大将が不安を見せるわけにはいかない。
「進め。明日には帝国軍の本隊と接触するはずだ」
俺は振り払うように、進軍を命じた。
夜になった。
平原に無数の篝火が焚かれ、5万の軍勢が野営している。星空の下、兵士たちは明日の決戦に向けて休息を取っていた。
見回りをすると、あちこちで兵士たちが談笑していた。
「明日の戦が楽しみだな」
「ああ、3年前の借りを返してやる」
「殿下がついてるんだ。負けるわけがない」
その声を聞きながら、俺は自分の天幕に戻った。
天幕の前に立ち、夜空を見上げる。満天の星が、俺たちの野営地を照らしていた。
父上は怯えていた。
「お前はあの子を知らない」と。
だが、これを見ろ。
我が軍は帝国領の奥深くまで進んでいる。抵抗など、どこにもない。あの無人の村々は、敵が俺たちを恐れている証拠だ。
──所詮は子供だ。
まともな軍の運用など、できるはずがない。父上は何かをされたのかもしれないが、それはきっと不意を突かれただけだ。5万の軍勢を前にすれば、小細工など通用しない。
明日、帝国軍の本隊と接触する。そこで決着をつける。
5万の軍勢。3000挺の連弩。1000騎の重装騎兵。
父上が見たものが何であれ、この軍の前では無意味だ。
──9歳の小娘が何をできる。
俺は天幕に入り、目を閉じた。
明日こそ、ノルデンの誇りを取り戻す。




