第77話 温泉
助成金制度と特許制度が発布されてから、数週間が経った。
ギュンターさんの設計した農具は、次々と各地の鍛冶屋によって製作され始めている。鉄の鋤、種まき機、脱穀機。どれも好評だと聞いている。
リーゼさんの様子を見に行くため、私たちは馬車に揺られていた。
「お嬢様、移動中くらいお休みになっては……」
私は馬車の座席で報告書を広げるお嬢様に声をかけた。
「何を言っているの。移動時間こそ貴重な執務時間よ」
「はあ……」
お嬢様は当然のように答えた。馬車が揺れるたびに報告書の束が滑りそうになる。私はそっと手を添えて支えた。
──私はメイドです。書類押さえ係じゃありません。
心の中でそう呟いたが、口には出さなかった。出したところで聞いてもらえないことは、もう十分に学んでいる。
「助成金の申請が殺到しているそうよ」
「それは良いことですね」
「審査担当が追いつかないとか」
「……それは困りましたね」
「ええ。審査官の増員を考えなくてはならないわ」
お嬢様は報告書をめくりながら呟いた。制度を作って終わりではない。運用しながら改善していく──それがお嬢様のやり方だった。
「お嬢様」
「何?」
「楽隠居はいつ頃のご予定ですか?」
「……何の話?」
「いえ、お嬢様はよく『早く楽隠居したい』とおっしゃっていましたので」
お嬢様の手が止まった。
「……これは楽隠居のための準備よ」
「制度を増やすたびに、お仕事も増えているように見えますが」
「…………」
「審査官を増やすと、その管理も必要になりますよね」
「…………」
「管理する人を管理する人も必要になりますよね」
「……エマ」
「はい」
「うるさい」
お嬢様は私の言葉を遮って、報告書に視線を戻した。その頬が少しだけ膨らんでいる。
私は小さく笑った。
お嬢様の「楽隠居」は、きっと永遠に来ない。でも、それを指摘すると怒られるので、私はただ黙って見守ることにしている。
──それが私の仕事だ。メイドの仕事かどうかは、もう考えないことにした。
やがて、馬車が止まった。リーゼさんの村に到着したのだ。
畑では、鉄の鋤で深く耕された土が黒々と光っていた。種まき機で整然と植えられた苗が、等間隔で並んでいる。
「順調に広まっているわね」
お嬢様は満足そうに呟いた。さっきまで膨らんでいた頬は、もう元に戻っている。
「お嬢様!」
リーゼさんが駆け寄ってきた。
「報告書、届きましたか?」
「ええ。よくやったわね」
お嬢様は珍しく素直に褒めた。リーゼさんの顔がぱっと明るくなる。
「他の村の人たちも見学に来るようになったんです。私が教えています」
「農業指導官の仕事、板についてきたわね」
「はい!」
その時だった。
「おお、シャルロッテ!」
聞き覚えのある声が響いた。
振り返ると、馬車から伯爵様が降りてこられるところだった。ヘレーネ様も続く。
「お父様!? お母様!?」
お嬢様が珍しく驚いた声を上げた。
「どうしてここに……?」
「社交シーズンで近隣を回っておったのだが、どこへ行ってもお前の話ばかりでな」
アルベルト様は少し照れくさそうに言った。
「先日、ホフマン男爵夫人のお茶会でね。どの奥様方も、あなたの水車の話で持ちきりでしたの」
ヘレーネ様は微笑みながら言った。
「粉挽きも脱穀も機械がやってくれるから、女たちが随分楽になったとか。『羨ましい』『うちの領地にも欲しい』と皆様おっしゃっていて……シャルの活躍で鼻が高かったわ。それでどんなものか、この目で見てみたくなりましたの」
「……それで、視察に?」
「うむ。せっかくだから、この目で見ておこうと思ってな」
農民たちは突然の伯爵様ご夫妻の登場に、慌てて頭を下げている。
お嬢様は小さくため息をついた。
「……では、水車を見せますわ」
◆
水車小屋に着くと、ギュンターさんが待っていた。リーゼさんが先に走って知らせてくれたのだろう。
「おう、お嬢様。伯爵様もご一緒で?」
「ええ。水車を見せてあげて」
「任せてくれ」
ギュンターさんが水車の仕組みを説明し始めた。
「この水車で、粉挽きも脱穀も一気にできるようになりました」
「まあ……あの重い石臼を回さなくて良くなったのですね」
ヘレーネ様は目を見開いた。
「はい。女衆の仕事が随分楽になったと」
「素晴らしいですわ。シャルロッテ、あなたが考えたの?」
「ええ、ギュンターと一緒に」
お嬢様は淡々と答えた。
「他の領地でも作れますの? 皆様欲しがっていましたけれど」
「ええ。今は特許制度があるから、設計を公開しているの」
「特許?」
ヘレーネ様が首を傾げた。
「俺の設計を使えば、どこの鍛冶屋でも作れますよ」
ギュンターさんが誇らしげに言った。
「発明した人間に、正当な報酬が入る仕組みですわ。ギュンターの設計した農具を他の鍛冶屋が作るたびに、ギュンターに使用料が入るの」
「あら……職人さんにも利益が?」
「ええ。自分で新しいものを発明すれば、自分も報酬を得られる。だから他の職人たちも競って新しいものを考えるようになったわ」
ギュンターさんがニヤリと笑った。
「俺の設計を使うたびに俺に金が入るからな。悔しかったら自分で考えろ、ってな」
「良い競争ですわね」
ヘレーネ様は感心したように頷いた。
アルベルト様は黙って水車を見つめていた。
「伯爵様?」
私が声をかけると、伯爵様は我に返ったように瞬きをした。
「……報告では聞いていたが、実物を見ると……」
言葉が続かない。
伯爵様は、お嬢様の成果を全て知っている。報告書は欠かさず読んでいるし、重要な決定には目を通している。
だが、紙の上の数字と、目の前の現実は違う。
ゴトン、ゴトンと回る巨大な水車。その力で動く歯車。自動で挽かれていく穀物。
これを設計したのが、自分の娘だという事実。
「……凄いな」
伯爵様はそれだけ言った。
「お父様?」
「いや……何でもない」
伯爵様は首を振った。でも、その目は水車から離れなかった。
娘の成し遂げていることが、あまりにも自分の理解を超えていて。
誇らしいのか、戸惑っているのか、それとも少し寂しいのか──伯爵様自身にも分からないのだろう。
見守ることしかできない。それが伯爵様の立場だった。
私には、それがよく分かった。
──私も同じだから。
水車の視察を終え、私たちはリーゼさんの村に戻った。
お嬢様は農民たちに農具の使い方を話していた。話が一段落したところで、一人の農民が口を開いた。
「お嬢様のおかげで、本当に楽になりました」
「そう。良かったわ」
「女房も喜んでおります。浮いた時間で、湯治にも行けるようになったと」
「湯治?」
私は聞き返した。
「はい。山の向こうに、熱い湯が湧く場所がありましてな。昔から病人が浸かりに行くんです。体の疲れも取れるとか」
「そうなんですか」
その瞬間だった。
「──っ!」
隣で、お嬢様が息を呑んだ。
私は驚いて振り返った。
お嬢様の顔が、変わっていた。
いつもの冷静な表情が消えている。代わりにあるのは──何だろう、この表情は。
期待? 興奮? いや、それだけじゃない。
まるで、長い間探していたものを、ようやく見つけたかのような。
「お嬢様?」
「……その湯治場」
お嬢様の声が、かすかに震えていた。
「詳しく聞かせなさい」
「へ? あ、はい……」
農民は戸惑いながらも、湯治場の場所や効能について説明を始めた。
私はお嬢様の横顔を見つめた。
お嬢様の目が、輝いている。
今まで見たことのない輝き方だ。新しい制度を思いついた時でも、改革が成功した時でもない。もっと──もっと純粋な、子供のような輝き。
何か、とてつもなく大事なことを聞いたかのような。
いや、違う。
お嬢様は「聞いた」んじゃない。「思い出した」んだ。
何を、とは分からない。でも、私にはそう見えた。
「お父様、お母様」
農民の説明が終わると、お嬢様はご両親に向き直った。
その声は、もういつも通りの落ち着いたものに戻っていた。でも、目の奥の輝きは消えていない。
「何だ?」
「せっかくですから、湯治場も視察しませんこと?」
「あら、湯治場?」
「民の健康に関わる重要な施設ですわ」
お嬢様は真面目な顔で言った。
……嘘だ。
絶対に別の理由がある。
「まあ……そうだな。視察というなら」
アルベルト様は頷いた。
「では決まりですわ」
お嬢様は即座に言った。
──食いつきが早すぎる。
私は心の中でツッコんだ。いつもの慎重なお嬢様はどこへ行ったのか。
「ふふ、シャルロッテったら。目が輝いていますわよ」
ヘレーネ様が微笑んだ。お母様には分かるのだろう。娘が何かを楽しみにしている時の顔が。
「……気のせいですわ」
お嬢様は視線を逸らした。耳がわずかに赤い。
──かわいい。
私は思わず微笑んだ。
お嬢様だって、まだ十代の女の子だ。楽しみなことがあれば、顔に出る。それを隠そうとして、余計に分かりやすくなる。
普段は完璧な摂政殿下でも、こういう時は年相応なのだ。
◆
湯治場へ向かう馬車の中。
お嬢様は窓の外を眺めていた。その目は、どこか遠くを見つめている。
「……また何か企んでおるのか」
アルベルト様が小さく呟いた。
「あなた、野暮なことを言わないの」
ヘレーネ様が窘める。
「……すまん」
伯爵様は溜め息をついた。もう何も言うまい、という諦めの表情だった。
馬車は山道を進んでいく。
窓の外では、木々の間から白い湯気が立ち上っているのが見えた。
お嬢様の目が、またきらりと光った。
──温泉、そんなに楽しみなのだろうか。
私には分からない。でも、お嬢様がこんなに楽しそうにしているのは、久しぶりに見た気がする。
たまには、こういう日があってもいい。
そう思いながら、私も窓の外を眺めた。
山の向こうに、何が待っているのだろう。




