第78話 あ゛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
湯治場に到着した。
「こ、これは……」
私は息を呑んだ。
山の中腹に、湯気が立ち上る池があった。岩に囲まれた天然の浴場。硫黄の匂いが微かに漂っている。
「……」
お嬢様は無言で湯を見つめていた。
「お嬢様?」
返事がない。
「お嬢様、いかがなさい──」
その時だった。
お嬢様が、脱衣所に向かって駆け出した。
「お、お嬢様!?」
私も慌てて後を追う。
脱衣所に飛び込んだお嬢様は、信じられない速さで服を脱ぎ始めた。
ボタンが外され、ドレスが肩から滑り落ちる。下着も一瞬で脱ぎ捨てられた。
「お嬢様、落ち着いて──」
お嬢様は私の言葉など聞いていなかった。全裸のまま、湯に向かって駆け出した。
「お待ちください! 転びますよ!」
ざぶん。
お嬢様は湯の中に飛び込んだ。
「…………」
私は呆然と立ち尽くした。
脱衣所の入口で、伯爵様とヘレーネ様が固まっている。
「……あなた、私、何も見ていませんわよね」
「……ああ。私も何も見ていない」
ご両親は現実逃避を始めた。
私は急いで服を脱ぎ、お嬢様のもとへ向かった。
私が温泉に駆け込んだところ、お嬢様は既に肩まで湯に浸かっていた。
「……」
「…………」
「………………」
「あ゛〜〜〜〜〜」
「!?」
「あ゛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
「お、お嬢様!? 大丈夫ですか!?」
私は慌てて駆け寄ろうとした。
「……最高」
「……」
お嬢様は、今まで見たことのないほど蕩けた表情をしていた。
……今のは一体……。
離れた場所で、アルベルト様の声が聞こえた。
「……私は何も聞いていない」
お嬢様の奇声は男湯まで届いていたらしい。
「エマ、あなたも早く入りなさい」
「は、はい……」
私は恐る恐る湯に足を入れた。
「……っ」
熱い。でも、不思議と心地よい熱さだった。
ゆっくりと肩まで浸かる。じんわりと体の芯まで温かさが染み込んでくる。
「……あ」
思わず声が漏れた。
「どう?」
「……これは……すごいですね」
体の疲れが、湯に溶けていくようだった。日頃の緊張が、少しずつほぐれていく。
見上げると、青い空が広がっていた。山の緑が湯気の向こうに霞んでいる。鳥の声が、どこか遠くから聞こえてくる。
「露天風呂というのは、こうでなくてはね」
お嬢様が満足そうに言った。
「露天……風呂?」
「外で入る風呂のことよ。景色を眺めながら湯に浸かる。これが温泉の醍醐味なの」
お嬢様は目を閉じて、深く息を吐いた。
「肩まで浸かって、百数えなさい」
「ひゃ、百……」
「のぼせそうになったら、一度上がって涼んで、また浸かるの。これを繰り返すと、体の芯まで温まるわ」
「……」
なぜお嬢様はこんなに詳しいのだろう。
「温泉には様々な効能があるの」
お嬢様は語り始めた。
「硫黄泉は肌に良いわ。古い角質を落として、肌を滑らかにする効果があるの」
「肌に……?」
「ええ。美肌の湯、と呼ばれることもあるわ。それに、疲労回復、神経痛、筋肉痛にも効くと言われているの」
「へぇ……」
「それだけじゃないわ」
お嬢様の目が輝いた。
「温かい湯に浸かると、体内でエンドルフィンという物質が分泌されるの。これが幸福感をもたらすのよ」
「えんどる……ふぃん?」
聞いたこともない言葉だった。
「脳内で作られる、気持ちを良くする物質よ。だから温泉に入ると『あ゛〜』となるの」
「はあ……」
「さらに、温熱効果で血行が促進されて、副交感神経が優位になることでリラックス効果が得られるの。自律神経のバランスを整える効果もあるわ」
「ふくこうかん……しんけい……?」
「要するに、体も心も癒されるということよ」
「……なるほど」
全く分からなかったが、とにかくすごいことは伝わった。
「定期的に通えば、健康にとても良い影響を与えるわ。ストレス解消にも最適よ」
誰に教わったのだろう。
私には分からなかった。でも、いつものことだ。お嬢様は、誰にも教わっていないはずのことを知っている。
……というか、さっきの言葉は一体何語だったのだろう。
しばらく湯に浸かっていると、体が熱くなってきた。
「お嬢様、少し……頭がぼんやりしてきました」
「のぼせてきたわね。一度上がりましょう」
お嬢様が湯から上がった。私も続く。
岩の上に腰を下ろす。山から吹き下ろす風が、火照った体に心地よかった。
「はぁ……」
思わず息が漏れる。
「これが温泉の正しい入り方よ。湯に浸かって、上がって涼んで、また浸かる。これを繰り返すと、体の芯まで温まるわ」
お嬢様は、風に髪をなびかせながら目を閉じていた。
白い肌が、湯上がりでほんのり赤く染まっている。水滴が、肩から腕へと流れ落ちていく。
……お嬢様は、本当にお美しい。
「何?」
「い、いえ……」
見惚れていたことを悟られたようで、私は慌てて目を逸らした。
「さあ、涼んだところで髪を洗いましょう」
「髪を……?」
「ええ。温泉で髪を洗うと、しっとりするのよ」
お嬢様は湯の流れ落ちる場所へ移動した。私も付いていく。
「エマ、髪を洗ってちょうだい」
「はい」
私はお嬢様の後ろに回り、その銀に近い金髪に湯をかけた。
さらさらと流れるプラチナブロンド。指を通すと、絹のような手触りだった。
「んっ……」
お嬢様が小さく声を上げた。
「お、お嬢様? 痛かったですか?」
「いえ……気持ちが良くて」
そう言うお嬢様の耳が、少し赤くなっていた。
私は丁寧に髪を洗っていく。普段は触れることのない、お嬢様の髪。
「……エマ」
「はい」
「あなたの髪も洗ってあげるわ」
「え? そんな、お嬢様に……」
「良いから。今日くらい、主従関係は忘れなさい」
「で、でも……」
「これは命令よ」
「……はい」
私は観念して、お嬢様の前に座った。
お嬢様の指が、私の髪に触れる。
「……っ」
思わず体が震えた。お嬢様の指が、優しく頭皮をマッサージしていく。
「どう?」
「……気持ち、良いです……」
「ふふ」
お嬢様が小さく笑った。
なんだか、不思議な気分だった。お嬢様に髪を洗ってもらうなんて、普通ではありえない。
でも、今日は特別な日だ。
髪を洗い終え、私たちは再び湯に浸かった。
しばらくして、ヘレーネ様が入浴に加わった。
「あら、気持ちの良いお湯ですわね」
ヘレーネ様は優雅に湯に身を沈めた。
「ええ」
お嬢様は頷いた。
「シャル、最近忙しそうね」
「……まあ、それなりに」
「無理はしないでね。あなたはまだ子供なのだから」
「子供……」
お嬢様が複雑な表情をした。
「いつも報告書を読んでいますわ。領地経営に制度改革、軍の訓練……本当に、よくやっているわね」
「……」
「でも、たまにはこうして休むことも大切よ」
ヘレーネ様は目を閉じて、湯の温かさを楽しんでいるようだった。
「お母様」
「何?」
「……ありがとうございます」
「ふふ。珍しいわね、素直に言うなんて」
お嬢様は少し照れたように視線を逸らした。
「今日は特別よ」
「そう。特別な日ね」
ヘレーネ様は微笑んだ。
「エマさん」
「は、はい」
突然名前を呼ばれて、私は慌てて返事をした。
「いつもシャルを支えてくれてありがとう」
「い、いえ、そんな……私はただ、お傍にいるだけで……」
「それが大切なのよ」
ヘレーネ様は優しく言った。
「この子は強がりだから。でも、あなたがいてくれるから、安心していられるの」
「お母様、余計なことを……」
お嬢様が頬を膨らませた。
「あら、本当のことよ」
ヘレーネ様はくすくすと笑った。
母娘の会話。私は少し離れた場所で、その光景を眺めていた。
普段は見られない、お嬢様の素の表情。お母様の前では、少しだけ年相応の女の子に見える。
……良い光景だ。
そして──
お嬢様の視線が、ヘレーネ様の胸元に向けられた。
「……!」
希望に満ちた目。
次に、お嬢様は自分の胸を見下ろした。
「……」
そして、お嬢様の視線が私の胸元に向けられた。
「?」
絶望したような表情。
「お嬢様……?」
「いえ、何でもないわ」
「シャルロッテ? どうかしたの?」
ヘレーネ様が首を傾げた。
「……何でもないわ、お母様」
「……ふふ」
ヘレーネ様は微笑んだ。
「?」
「大丈夫よ。私もあなたくらいの頃は、そうだったもの」
「っ……!」
お嬢様の顔が赤くなった。
……何の話だろう。
私には、よく分からなかった。
湯上がり。
「風呂文化も改善が必要ね」
お嬢様は下着を身につけながら唐突に言った。
「はい?」
「お風呂上がりには、牛乳やフルーツ牛乳、コーヒー牛乳が鉄板ですもの」
「フルーツ牛乳……? コーヒー……?」
私は首を傾げた。牛乳は分かる。でも、フルーツ牛乳とは? コーヒーを牛乳に入れるの?
「……いずれ、対応していくわ」
お嬢様は遠い目をしていた。何か懐かしいものを思い出しているような、そんな表情だった。
……本当に作る気だ。
「とりあえず、牛の乳が欲しいわ……」
「は、はあ……」
お嬢様の顔は、まだ湯上がりで上気していた。その表情は、どこか穏やかだった。
「お嬢様」
「何?」
「今日一日、とても……その、人間らしい顔をしていらっしゃいました」
言ってから、しまったと思った。
「……人間らしい?」
「あ、いえ、失礼なことを……」
「……ふふ」
お嬢様は、小さく笑った。
「そうね。今日は良い日だったわ」
私も、少し笑ってしまった。
温泉に浸かって「あ゛〜」と声を上げるお嬢様。それは、ただの女の子の姿だった。
「……良い一日でした」
私たちは着替えを終え、脱衣所を後にした。




