第72話 【物理回】電気との出会い〜ヨハン視点〜
※作者の趣味で物理蘊蓄が延々と続きます。興味ない方は遠慮なく飛ばしてください。
翌日。
俺は研究室に呼び出された。机の上には、銅の棒と亜鉛の棒が並んでいる。
「今日は電気を体験してもらうわ」
「電気……雷のことだよな」
「そう。あの雷を、人の手で作り出す」
俺は首を傾げた。雷は空から落ちてくるものだ。どうやって作るというのか。
師匠が扉の方を向いた。
「エマ、オレンジを持ってきて」
「はい、お嬢様」
エマが一礼して出ていき、すぐに戻ってきた。手には瑞々しいオレンジが一つ。
「お持ちしました。……これは何に使うのですか?」
「見ていれば分かるわ」
師匠がオレンジを受け取った。
「このオレンジに、銅の棒と亜鉛の棒を刺して」
俺は言われた通りにする。オレンジに二本の金属棒が刺さった。奇妙な光景だ。
「エマ、両方の棒を同時に舌で舐めてみなさい」
「え? 私がですか?」
エマが戸惑った顔をした。そりゃそうだ。いきなりオレンジに突き刺した金属棒を舐めろと言われても。
「いいから」
「は、はい……」
エマが恐る恐る近づき、二本の棒に舌を伸ばした。
舐めた瞬間──
「──ひゃあああっ!?」
エマの体がビクンと跳ねた。そのまま後ろによろめいて──尻もちをついた。
「ななな、なんですか今のっ……! ビリッて……! 舌がっ……!」
涙目になりながら、舌を押さえてパタパタと手を振っている。完全にパニックだった。
「あはははっ!」
師匠が爆笑していた。お腹を抱えて、涙を浮かべながら笑っている。
「お、お嬢様……!?」
「ごめん、ごめんなさい……あはは……顔が……顔が面白すぎて……」
エマが真っ赤になった。俺も思わず笑いそうになるのを堪えた。
「ひどいです、お嬢様……!」
「ふふ……ごめんなさい。でも、いい反応だったわ」
師匠がようやく笑いを収めた。目尻に涙が残っている。
俺は興味を惹かれた。エマがあんなに驚くなんて、一体何が起きたんだ?
「俺も舐めていいか?」
「どうぞ」
身を屈めて、二本の棒に舌を近づけた。
「──ッ!?」
ビリッとした。舌の上で、何かが走った。
「な、なんだこれ……!」
確かに何かを感じた。痛みとも違う、不思議な刺激。
「それが電気よ」
「電気……?」
俺はもう一度舐めてみた。やはりビリッとくる。
「すげえ……」
目に見えない。でも確かに存在している。
「果物から……電気が?」
エマもまだ信じられないという顔でオレンジを見つめていた。
「正確には、異なる金属と酸っぱい液体の組み合わせね」
「異なる金属……銅と亜鉛……」
昨日、俺が取り出したばかりの亜鉛。それがもう、こんなことに使われている。
「でも、なんで電気が起きるんだ?」
「いい質問ね。原子の構造、覚えてる?」
「真ん中に核があって、周りを電子が回ってる……だよな」
「そう。電子はマイナスの性質を持っていて、核のプラスに引きつけられて回っている」
俺は頭の中で原子を思い浮かべた。小さな粒が、もっと小さな粒の周りを回っている。
「ところで金属を触るとどう感じる?」
「金属……冷たいな。あと、熱が伝わりやすい」
「それは金属の中で『何か』が動きやすいから」
「何か?」
「電子よ。金属の中では、電子が原子から離れて自由に動き回っている」
「自由に動く電子……」
俺は目を見開いた。電子が原子から離れる?
「普通、電子は核に引きつけられて離れない。でも金属は特別なの。電子が原子の間を自由に泳ぎ回れる」
「だから熱が伝わりやすい……電子が熱を運ぶから?」
「正解。飲み込みが早いわね」
ふと横を見ると、エマが完全に置いてけぼりの顔をしていた。
「エマ、大丈夫か?」
「は、はい……電子が泳いでいるのは分かりました……クロールしてるんでしょうね」
「してねえよ」
師匠が気にせず話を続ける。
「自由電子が移動すること。すなわち流れ。これを電流というわ」
「電子を……流す?」
「水は高いところから低いところに流れるでしょう? 電子も同じ。電位という──電子にとっての高さがあって、高いところから低いところに流れるの」
俺は川を思い浮かべた。山から海へ、水は自然と流れていく。
「高さの差があれば流れる……」
「そう。その電位の差──落差のことを電圧というの」
「電圧……」
「亜鉛は電位が低い。銅は電位が高い。だから亜鉛と銅の間には電位差──電圧があるの」
「なんで金属によって電位が違うんだ?」
「金属によって、電子を手放しやすさが違うの。亜鉛は電子を手放しやすい。銅は手放しにくい」
「手放しやすいほうが……低い?」
「そう。だから電子は亜鉛から銅へ流れるわ」
「異なる金属を液体で繋ぐと、この『落差』で電子が流れる。だから果物で電気が起きたの」
「なるほど……!」
俺は興奮した。あのビリッとした感覚。あれは電子が流れていたのか。
「じゃあ俺の体を電子が流れたのか? 俺、電気人間?」
「流れたけど電気人間ではないわ」
「ちぇ」
「つまり、銅と亜鉛の間に落差があって……でも、なんでオレンジが必要だったんだ?」
「酸が必要なの。亜鉛は酸に溶けてイオンになる。そのときに電子を放出するわ」
「イオン?」
「原子が電子を失った状態をイオンというの。亜鉛がイオン状態になって酸の中に溶け出し、残った電子があなたたちの舌を通じて、銅のほうへ流れる。それを舌で感じたの」
「なるほど……! だから両方同時に舐めないとダメだったのか」
「そう。回路が繋がらないと電子は流れないわ」
師匠が満足げに頷いた。
「つまり……金属の中には自由に動ける電子がいて、それを押してやれば流れる。押す力を作るのが電池……」
「その通り」
俺は天井を見上げた。
電子。自由電子。電流。電圧。
目に見えないものが、確かに存在している。それを理解できた。
「世界の見え方が、また変わった……」
「これからもっと変わるわよ」
師匠の言葉が、胸に響いた。
もっと知りたい。もっと理解したい。
この世界には、まだまだ知らないことがある。
「師匠」
「何?」
「もっともっと電気について教えてくれ」
師匠が小さく笑った。
「当然よ。まだまだ、これからなんだから」
エマがまだ不思議そうな顔でオレンジを見ていた。
「あの……お嬢様」
「何?」
「これ、食べられますか……?」
俺は吹き出した。師匠も小さく笑う。
「食いしん坊ねえ」
「でも師匠、さっきの話だと亜鉛が溶け出してるんだろ? 大丈夫なのか?」
「少量なら大丈夫よ。亜鉛は体に必要な元素だから」
「銅も溶けてるんだろ」
「……やめておきなさい」
エマは残念そうにオレンジを見つめていた。




