第71話 ブランデーと亜鉛〜ヨハン視点〜
「ヨハン、そろそろ電気関係に取り掛かりたいわね」
師匠が唐突に言った。
研究室に呼び出されて何事かと思えば、また新しいことを始めるらしい。
「電気?」
「雷のことよ。あれを人の手で作り出す」
「雷を……!?」
思わず声が裏返った。
雷といえば、神々の怒りだ。天から降り注ぐ光と轟音。人が触れれば即死する恐ろしい力。
それを、人の手で作る?
「無理だろ、そんなの……」
「無理じゃないわ。でも、その前に準備が必要なの」
師匠は机の上に何かを置いた。
金色に輝く金属の塊。見覚えがある。
「これ、真鍮だよな」
「ええ。この金色の金属、何でできてると思う?」
「銅……だよな。金色の銅」
「違うわ」
師匠が首を横に振った。
「グラファイトとダイヤモンドは、同じ炭素でも構造が違うから色が違う。同素体というの。でも銅には同素体がない。銅は銅の色しかありえないわ」
「……つまり?」
「『金色の銅』なんてものは存在しないの。銅は銅の色しかありえない。金色になっているなら、銅以外の何かが混ざっている」
「銅と、もう一つの金属が混ざっている」
「もう一つ?」
俺は真鍮を手に取った。ずっしりと重い。確かに銅とは色が違う。銅は赤みがかっているが、真鍮は黄金色だ。
でも、真鍮は真鍮だ。銅の一種だと思っていた。
「誰も取り出したことがない。あなたが世界で最初になるのよ」
師匠が不敵に笑った。
世界で最初。その言葉に、胸が高鳴る。
「……どうやって取り出すんだ?」
「蒸留よ」
「蒸留?」
聞いたことのない言葉だ。
その時、扉が開いた。
「お嬢様、依頼のもの、できたぞ」
ギュンターのおっさんが、奇妙な装置を抱えて入ってきた。銅製の壺に蓋がついていて、そこから細い管が伸びている。管の先は水桶の中を通って、別の容器に繋がる構造だ。
「ちょうどいいタイミングね。ありがとうギュンター。これが蒸留器よ」
師匠が装置を受け取った。
「おっさん、これ何に使うんだ?」
「知らん。お嬢様に頼まれて作っただけだ」
「説明するから、ギュンターも聞いていきなさい」
師匠は蒸留器を机の上に置いた。
「まず基礎から。ヨハン、物質の三態って知ってる?」
「三態?」
「固体、液体、気体。物質はこの三つの状態を取るの」
「ああ、それは分かる。氷と水と湯気だろ」
「湯気は厳密には気体じゃないわ。水蒸気が空気中で冷えて、小さな水滴になったもの。つまり液体よ」
「え、そうなのか」
「本当の気体は目に見えないの。まあでもそれはいいわ、話を進めましょう。なぜ状態が変わるか分かる?」
「……熱?」
「正解。でも、なぜ熱を加えると状態が変わるの?」
俺は黙った。考えたこともなかった。
「原子の話を思い出して。原子は常に動いている。熱を加えると?」
「激しく動く」
「そう。固体は原子が規則正しく並んでいて、その場で振動するだけの状態。熱を加えると振動が激しくなって、規則正しい並びが崩れる。互いにすり抜けながら動けるようになる。それが液体」
「へえ……」
「ちなみに、固体と液体で密度が違う理由は覚えてる? 活版印刷の時に教えたけど」
「ああ。分子が規則正しく並ぶと隙間ができるから、氷は水より体積がでかくなるんだろ?」
「よく覚えてるわね」
師匠が少し嬉しそうに言った。あの授業は面白かった。当たり前だと思っていたことに全部理由がある。一度知ったら忘れられない。
「──話を戻すわ」
師匠が蒸留器の壺を指さした。
「さらに熱を加えると、原子がもっと激しく動いて、結びつきを振りほどいて飛び出していく。それが気体」
「原子が飛び出す……」
俺は水が沸騰する様子を思い浮かべた。ボコボコと泡が立ち、湯気が上がる。あれは原子が結びつきを振りほどいて飛び出していく瞬間だったのか。
「液体が気体になる温度を沸点というの。物質によって沸点は違う。水は100度、アルコールは78度」
「沸点が違うから……混ぜても分けられる?」
「そう。蒸発した気体を集めて、冷やして液体に戻す。それが蒸留」
師匠が蒸留器の管を指でなぞった。
「この管を通って蒸気が移動して、水桶で冷やされて液体に戻り、こっちの容器に溜まる」
「なるほど……」
おっさんが腕を組んで唸った。
「で、これで何を分けるんだ?」
「葡萄酒よ」
「葡萄酒?」
「葡萄酒には水とアルコールが混ざっている。アルコールの沸点は78度、水は100度。だから78度以上で熱すれば、アルコールだけが先に蒸発する」
「アルコールだけ取り出せる……ってことは」
俺は気づいた。
「もっと強い酒ができる!」
おっさんの目の色が変わった。
「……詳しく聞かせてもらおうか」
俺たちは葡萄酒を蒸留器に入れ、火にかけた。
しばらくすると、管の先から透明な液体が滴り始めた。
「出てきた……」
俺は息を呑んだ。
琥珀色の葡萄酒から、透明な液体が生まれている。
「これがアルコールか」
「正確には、アルコールと少量の水ね。でも葡萄酒よりずっと濃いわ」
溜まった液体を小さな杯に注ぐ。おっさんが真っ先に手を伸ばした。
「俺が毒見してやる」
「どうぞ」
師匠が微笑んだ。
おっさんは杯を一気に煽り──
「っ!?」
目を見開いた。
「なんだこれは……」
「どうだ、おっさん」
「……火だ」
おっさんが呻いた。
「喉を火が通っていきやがる。こんな酒、飲んだことねえ」
「ブランデーというの」
師匠が言った。
「葡萄酒を蒸留した酒という意味よ」
おっさんは杯をじっと見つめていた。そして、もう一杯注いだ。
「師匠、これ、量産できるか?」
「蒸留器を増やせばね」
「……俺の工房に一台欲しい」
「自分で作れるでしょう」
「作る。今すぐ作る」
おっさんの目が爛々と輝いていた。俺は初めて見た。ギュンターのおっさんが、こんなに嬉しそうな顔をしているのを。
「何やら盛り上がっておりますな」
いつの間にか、クラウス大臣が部屋にいた。
「酒だ。新しい酒だ」
おっさんが杯を差し出す。クラウス大臣は無言でそれを受け取り、一口含んだ。
「……これは」
大臣の目が見開かれた。
「素晴らしい。実に素晴らしい」
そう言いながら、二口目、三口目と飲み進めていく。
「大臣、勤務中では?」
俺が言うと、クラウス大臣は涼しい顔で答えた。
「今は深夜34時ですぞ」
「いや意味わかんねえよ」
「つまり仕事は昨日終わっておるのです。今飲んでいるのは昨日の私」
何を言っているんだこの人は。
師匠が小さくため息をついた。
◆
「話がそれたわね」
師匠が言った。おっさんは蒸留器をもう一台作ると言って工房に戻っていった。
「本題に戻るわよ。金属も同じなの。銅と亜鉛が混ざった金属も、お酒と同じように蒸留して分けることができるわ」
「金属が……沸騰!?」
声が裏返った。二回目だ。
金属が沸騰する? そんな馬鹿な。金属は熱すれば溶けて液体になる。それは分かる。でも、蒸発する?
「驚いた? この世の全てのものには沸点があるの。金属も例外じゃない」
師匠が真鍮を指で弾いた。カン、と澄んだ音が鳴る。
「真鍮に含まれている未知の金属──仮に亜鉛と呼ぶわね──の沸点は907度。銅の沸点は2500度以上」
「907度……」
高炉なら出せる温度だ。俺たちが作った高炉は、1500度以上の温度を出せる。
「つまり、900度を超えれば亜鉛だけが蒸発する。銅は残る」
「金属を蒸発させて分ける……すげえ」
沸点の差を使って金属を分離する。さっきのブランデーと同じ原理だ。
理屈は分かった。でも、実際にどうやって?
「高炉の技術を応用するわ」
師匠が羊皮紙を広げた。設計図だ。
「レトルトと呼ばれる蒸留器を作る。真鍮を入れて強く加熱すると、亜鉛だけが蒸発して管を通り、先端で冷やされて固まる」
「なるほど……」
俺は設計図を食い入るように見つめた。
密閉された容器。そこから伸びる管。管の先は外気で冷やされる構造になっている。
「これなら……できる」
「当然よ」
師匠が微笑んだ。
◆
それから数日。
俺はギュンターのおっさんと一緒に、レトルトを作り上げた。
「よし、いけるな」
おっさんが完成したレトルトを叩く。頑丈な鉄製の容器だ。
「じゃあ、やってみるか」
俺は真鍮の塊をレトルトに入れた。蓋を閉め、炉に火を入れる。
温度が上がっていく。
800度。
850度。
900度を超えた。
「……来た」
管の先端から、何かが滴り落ち始めた。
銀色の液体。それが冷えて固まっていく。
「すげえ……」
俺は息を呑んだ。
本当に出てきた。真鍮の中に隠れていた、もう一つの金属。
作業が終わる頃には、銀色の金属塊ができていた。
「これが……亜鉛」
俺は手に取った。ずしりと重い。銀色だが、銀とは違う。もっと青みがかった、見たことのない金属。
「すげえ……身近にあったのに、誰も気づかなかった」
真鍮は昔から使われている。装飾品や金具に。でも、その中に別の金属が混ざっているなんて、誰も知らなかった。
いや、知らなかったんじゃない。取り出す方法がなかったんだ。
「沸点を使えば、分けられる……」
原子の理論。沸点の知識。高炉の技術。
全てが繋がって、新しい金属が生まれた。
俺は研究室に戻り、師匠に報告した。
「師匠、できたぜ」
亜鉛の塊を差し出す。師匠はそれを手に取り、じっと見つめた。
「よくやったわね、ヨハン」
「これが電気と何の関係があるんだ?」
「これが電池の材料になるわ」
「電池?」
聞いたことのない言葉だ。
「雷を作り出し、貯めておく装置よ」
「雷を……貯める?」
また声が裏返りそうになった。
雷を人の手で作るだけでも信じられないのに、貯めておく?
「詳しくは次に教えるわ。今日はよく休みなさい」
師匠は亜鉛を机の上に置いた。銀色の金属が、窓から差し込む光を反射している。
電池。雷を貯める装置。
一体どんなものなんだろう。
俺は興奮を抑えきれないまま、研究室を後にした。




