第70話 皇帝陛下のいちにち
玉座の間で、謁見が行われていた。
私は壁際に控えて、その様子を見守っている。
玉座には、カール陛下が座っていた。5歳の皇帝陛下。小さな体で大きな玉座に腰掛け、足をぶらぶらさせている。床に届かないのだ。
「──肥料の生産について、ご報告いたします」
大臣が跪いて報告している。
「……ひりょう?」
カール陛下が首を傾げた。
「畑に撒くものでございます、陛下」
「ふーん」
カール陛下は興味なさそうに頷いた。5歳児に肥料の話をしても、分からないのは当然だ。
その隣で、お嬢様が大臣と言葉を交わしている。
「硫酸の生産量は予定通り?」
「はい、シャルロッテ様。月産で──」
実質的な報告は、全てお嬢様に向けられている。カール陛下は玉座に座っているだけだ。
「りゅうさん?」
カール陛下がまた首を傾げた。
「危ないものです、陛下。触ってはいけません」
お嬢様が簡潔に答えた。
「ふーん」
カール陛下は欠伸をかみ殺している。退屈なのだろう。謁見はまだ続く。
私は少し胸が痛んだ。
5歳で玉座に座らされ、分からない話を延々と聞かされる。遊びたい盛りなのに、お仕事ばかり。
……もっとも、実際のお仕事はお嬢様が全部やっているのだが。
謁見が終わりに近づいた頃だった。
「──以上で本日の報告は終わりでございます」
最後の大臣が頭を下げた。
その瞬間。
「つまんない!」
カール陛下が叫んだ。
「つまんない! つまんない! つまんないーーー!」
玉座の上で足をばたばたさせている。5歳児の癇癪だ。
大臣たちが凍りついた。
「か、陛下……」
「ずっと座ってるだけ! 難しい話ばっかり! つまんない!」
カール陛下は頬を膨らませ、目に涙を浮かべていた。
私は慌てた。どうしよう。皇帝陛下が癇癪を起こしている。
お嬢様が立ち上がった。
「……本日の謁見は終わりよ。下がりなさい」
「は、ははっ」
大臣たちが足早に退出していく。皆、見なかったことにしたい顔をしていた。
玉座の間に、お嬢様とカール陛下と私だけが残った。
「つまんなかった……」
カール陛下がしゃくり上げている。
「……そう」
お嬢様は冷静だった。
「じゃあ、面白いことをしましょうか」
「……ほんと?」
カール陛下が顔を上げた。涙で濡れた目が、きらりと光る。
「ええ。でも、お仕事中にわがまま言うのは駄目よ。皇帝なんだから」
「……うん」
「約束できる?」
「……やくそくする」
カール陛下が小さく頷いた。
お嬢様は軽くため息をついて、玉座の間を出た。
執務室に向かう廊下。
カール陛下はお嬢様の横を歩きながら、袖を引っ張っていた。
「ねえ、シャル。面白いことって何?」
「執務室に着いたら教えてあげる」
「はやくはやく!」
カール陛下が足を速める。さっきまで泣いていたのに、もう機嫌が直っている。子供は切り替えが早い。
私も後ろからついていった。
「ねえ、シャル」
「何?」
「なんでみんな、シャルにお話しするの?」
お嬢様の足が止まった。
私も思わず足を止めた。
「……どういう意味?」
「僕、皇帝でしょ? なのに、みんなシャルに報告するよね」
……核心を突いた。
5歳児の素朴な疑問。でも、これは答えにくい質問だ。
お嬢様が振り返った。少し困ったような顔をしている。珍しい表情だ。
「……まあ、そうね」
「なんで?」
「カールはまだ小さいでしょう?」
「小さい? でもシャルも小さいよ?」
お嬢様が一瞬、固まった。
……確かに。お嬢様も8歳だ。大人から見れば十分小さい。
「……私は小さくないわ。カールより大きいでしょ?」
「うん。でもクラウスより小さいよ?」
「…………」
お嬢様が黙った。反論できないらしい。
私は笑いをこらえるのに必死だった。
「……とにかく」
お嬢様が咳払いをした。
「私が代わりに聞いているの。カールが大きくなったら、カールに報告するようになるわ」
「……そうなの?」
「そうよ」
「そっか!」
カール陛下はあっさり納得した。
……それでいいんですか、陛下。
私は心の中でツッコんだ。お嬢様の説明は、嘘ではないが、全てでもない。でも、5歳児にはこれで十分なのだろう。
「じゃあ、あそぼ!」
「……はあ」
お嬢様がため息をついた。
◆
執務室。
私は紅茶を淹れて、お嬢様の傍らに立っている。
カール陛下は、執務机の横でそわそわしていた。
「シャル、面白いことって何?」
「待って。今考えてるから」
お嬢様は書類の山を眺めながら、何か考えているようだった。
「まだー?」
「……もう少し」
カール陛下が足をばたばたさせている。待ちきれないらしい。
やがて、お嬢様が顔を上げた。
「……ねえ、カール」
「なに?」
「皇帝のお仕事ごっこ、してみる?」
「お仕事ごっこ?」
私は首を傾げた。お仕事ごっこ?
「そう。私が大臣役をやるから、カールが皇帝役ね」
「僕、皇帝だよ?」
「そうね。だから練習」
カール陛下は一瞬きょとんとしたが、すぐに顔を輝かせた。
「いいよ!」
お嬢様が書類を一枚取り出した。
「では陛下、ご報告いたします」
急にかしこまった口調になった。大臣の真似だ。
「ある村で、井戸が壊れました」
「井戸?」
「水を汲むところよ。壊れたから、村人が水を飲めなくなったの」
「たいへんだ!」
カール陛下が目を見開いた。
「そこで陛下に決めていただきたいのです」
お嬢様が指を二本立てた。
「一つ目。お金を出して、すぐに直す」
「うん」
「二つ目。村人に自分たちで直させる」
「うん」
「どちらにしますか?」
カール陛下は少し考えた。
「……すぐ直す!」
「なぜですか?」
「だって、水が飲めないと、みんな困るでしょ?」
お嬢様が微笑んだ。
「……正解。カール、偉いわね。ちゃんと理由も言えた」
「えへへ」
カール陛下が嬉しそうに笑った。
私は少し驚いた。お嬢様がカール陛下を褒めている。それも、本心から。
「じゃあ次の問題」
お嬢様が別の書類を取り出した。
「ある町で、道が二つあります。どちらか一つだけ、石畳にできます」
「うん」
「一つは、お店がたくさんある道。もう一つは、お城に続く道」
「……」
「どちらを石畳にしますか?」
カール陛下は悩んでいた。小さな眉間にしわが寄っている。
「……お店の道!」
「なぜ?」
「えっと……お店の道は、たくさんの人が使うから?」
お嬢様が目を丸くした。
「……すごいわね、カール」
本当に驚いているようだった。私も驚いた。5歳児とは思えない答えだ。
「えへへ」
「じゃあ、もう一つ」
お嬢様が身を乗り出した。
「お城の食事を豪華にするのと、兵士の給料を上げるの、どっちがいい?」
「兵士!」
即答だった。
「なぜ?」
「だって、兵士さんがいないと、お城を守れないでしょ?」
「……正解。カール、すごいわね」
お嬢様の目に、不思議な光が宿っていた。
「……じゃあ、最後にもう一つ。難しい問題よ」
「むずかしいの?」
「ええ。よく考えてね」
カール陛下が背筋を伸ばした。
「ある村で、男がパンを盗みました」
「どろぼう? それは悪いことだよ」
「そうね。でも、その男には小さな子供がいて、お腹を空かせていたの」
「……」
カール陛下が黙った。
「男を牢屋に入れると、子供は一人ぼっちになる。でも許すと、他の人も盗んでいいと思うかもしれない」
「…………」
「どうしますか、陛下?」
カール陛下は考え込んでいた。
「んーと……」
首を傾げる。
「んーと、んーと……」
指を折ったり、天井を見上げたり。小さな眉間にしわが寄っている。
私は紅茶のカップを持ったまま、その様子を見守っていた。
幼い皇帝が一生懸命考えている。その姿は、なんだか微笑ましかった。
「んー……」
カール陛下は必死だった。
「牢屋に入れたら……子供が……でも許したら……んんー……」
お嬢様は急かさない。黙って待っている。
「……わかんない」
カール陛下がついに音を上げた。
「わからない?」
「だって……どっちも、誰かがかわいそうになる」
お嬢様が目を見開いた。
「……そうね。そういう問題もあるのよ」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「それを考えるのが、皇帝のお仕事」
「……むずかしい」
「ええ。だから練習するの」
お嬢様が優しく言った。
「正解がない問題もある。でも、決めなきゃいけない。それが皇帝よ」
カール陛下はまた考え始めた。
「んーと……んーと……」
眉間のしわが深くなる。頬を膨らませたり、唇を尖らせたり。
頑張れ、と私は心の中で呟いた。
「……あ」
カール陛下の目が光った。
「……じゃあ、パンを盗んだ男を許して、代わりにお仕事をさせる」
「お仕事?」
「パンの代金のぶん、働いてもらう。そうすれば、盗んだことにはならないでしょ?」
お嬢様が固まった。
「……シャル?」
「…………」
お嬢様がじっとカール陛下を見つめている。
「……カール」
「な、なに?」
「あなた、本当に5歳?」
「5歳だよ?」
「……そう」
お嬢様が小さく笑った。
私も、少し笑ってしまった。
労役による償還。それは実際に使われている制度だ。5歳児がそれを思いつくとは。
「……このお仕事ごっこ、毎日やりましょうか」
「やる!」
カール陛下が元気よく答えた。
お嬢様が遊んでくれるのが嬉しいのだろう。それが「お仕事」だとは気づいていない。
でも、いつか気づく日が来る。
自分が皇帝であること。そして、決断を下す責任があること。
その日のために、お嬢様は今から準備を始めているのだ。
私は紅茶を淹れ直しながら、二人の様子を見守った。
……カール陛下が立派な皇帝になる日は、そう遠くないのかもしれない。
◆
翌日。
お嬢様は執務室にメイドたちを集めた。クラウス様も同席している。
「これを毎日カールに出しなさい」
お嬢様が問題集を渡した。メイドたちは戸惑った顔で受け取る。
「答えたら『なぜ?』と聞いて、ちゃんと理由が言えたら褒めること」
「かしこまりました。……あの、お嬢様」
一人のメイドが恐る恐る手を挙げた。
「どのように考えればよいのでしょうか? 私たちには、陛下にお教えするなど……」
「教えるんじゃないわ」
お嬢様が首を横に振った。
「問いを投げかけて、自分で考えさせるの。問答法と言うわ」
「問答法……」
「古代三大哲学者の一人、ソクラテスが用いた方法よ。答えを与えるのではなく、問いを重ねることで相手自身に真理を発見させる」
「そ、そくらてす……?」
メイドたちが顔を見合わせた。聞いたことのない名前だ。クラウス様も眉をひそめている。
「ケースメソッドも有名ね。具体的な事例を使って考えさせる方法よ。ハーバードビジネススクールでも採用されていて──」
「はーばーど……?」
メイドたちの目が完全に泳いでいた。
「……まあ、要するに」
お嬢様が咳払いをした。
「問いを投げかける。相手が答える。その答えに『なぜ?』と問いかける。繰り返すうちに、相手は自分で答えにたどり着くわ」
「は、はあ……」
「それに、具体的な事例を使うの。『井戸が壊れました、どうしますか?』のように。『皇帝とは何か』なんて難しいことを教えるより分かりやすいでしょう?」
「……なるほど」
ようやくメイドたちの目に、理解の光が宿った。
「あなたたちは教師じゃないわ。質問を読み上げて、『なぜ?』と聞くだけでいい。難しく考えなくていいの」
「かしこまりました」
メイドたちが深く頭を下げた。
「せっかくだから、あなたたち自身も考えてみなさい。いい機会よ」
「私たちも……ですか?」
「そう。問いを投げかけて、答えを聞いて、また問いを投げかける。それを繰り返すうちに、あなたたちも考える力がつくわ」
メイドたちが目を丸くした。
クラウス様が感心したように頷いた。
「……問いで導き、事例で考えさせる。確かに理に適っている」
「でしょう?」
「それに、メイドたちにも学ぶ機会を与えるとは。一石二鳥ですな」
「遊びの形にすれば、勉強だと気づかないでしょう? 陛下も、メイドたちも」
「……恐れ入りました」
クラウス様が深く頭を下げた。
いつものお嬢様の謎理論で、理解が及ばないところがあるが、それでも言うことはいつも正しい。それだけは確かだ。
──こうして、「お仕事ごっこ」はメイドたちの日課になった。
カール陛下は毎日楽しみにしているらしい。廊下ですれ違うと、嬉しそうに報告してくれる。
「エマ! 今日ね、全部正解だったんだよ!」
「それはすごいですね、陛下」
「えへへ」
私もたまに手伝うことがある。お嬢様の作った問題集が尽きた時や、メイドたちが忙しい時。
「エマ、今日はエマがやって!」
「はい、陛下」
カール陛下が目を輝かせて待っている。
仕方ない。今日は私の番だ。
「では陛下、問題です──」
カール陛下が背筋を伸ばした。真剣な顔だ。
……この「遊び」が、いつか本当の「お仕事」になる日が来る。
その日のために、カール陛下は今日も練習している。本人は気づいていないけれど。




