第69話 特許制度
リーゼさんが「先生」と呼ばれるようになってから、二ヶ月が経った。
噂は、私の想像よりもずっと早く広まった。
「あの村、収穫が倍になったらしいぞ」
「嘘だろ。同じ土地で?」
「本当だ。見てきた奴がいる」
市場で、酒場で、農民たちが話している。鉄の鋤のこと、種まき機のこと、そして「女の子の先生」のこと。
「お嬢様、また手紙です」
私が差し出すと、お嬢様は机の上を見た。すでに何通もの手紙が積まれている。
「また農具の注文ね」
「はい。今度は北部の三つの村からです」
どの手紙も同じだった。「うちの村にも鉄の鋤を」「種まき機が欲しい」「あの女の子を派遣してくれ」。
リーゼさんの成功が、波紋のように広がっていく。
そこへ、扉が開いた。
「お嬢様、ギュンターさんがお見えです」
「通して」
ギュンターさんが入ってきた。珍しく、困った顔をしている。いや、困っているというより──疲れている。
「……お嬢様」
「どうしたの?」
「農具の注文が、多すぎる」
ギュンターさんは持ってきた書類を机に置いた。いや、叩きつけた。注文書の山だ。
「鉄の鋤が50本、種まき機が30台、脱穀機が20基……これ、今月だけだぞ」
「すごい反響ね。いいことじゃない」
「すごいじゃねえ」
ギュンターさんは首を振った。
「俺の工場だけじゃ、何年かかるか分からねえ。職人も足りねえ、鉄も足りねえ。受けきれねぇよ」
「あらそう。なら、他の鍛冶屋に作らせればいいわ」
お嬢様があっさり言った。
ギュンターさんの表情が、一瞬だけ歪んだ。
「……そうだな」
「何? 何か不満でもあるの?」
「不満っつうか……」
ギュンターさんは窓の外を見た。遠くに、工場の煙突が見える。
「……最初の鋤を作った時のことを覚えてるか」
「ええ」
「刃の角度を何度も変えた。柄の長さも試した。牛に引かせた時に、土がちゃんと返るようにな」
ギュンターさんは自分の手を見つめた。
「10本は失敗した。刃が欠けたり、柄が折れたり。鉄も時間も、全部無駄になった」
「……」
「種まき機はもっとひどかった。歯車の間隔を何度調整したか分からねえ。種が詰まったり、一度に落ちすぎたり」
ギュンターさんの声に、熱がこもっていた。
「でも、俺は諦めなかった。何度も作り直して、やっと今の形になった」
「……」
「それを、他の奴らにタダで渡すってのか?」
ギュンターさんは顔を上げた。その目には、怒りではなく──悔しさがあった。
「俺は金が欲しいわけじゃねえ。ただ……」
「発明した人間が報われるべき、ということでしょ?」
お嬢様は静かに言った。
「……ああ」
ギュンターさんは深く頷いた。
「俺の失敗も、試行錯誤も、全部含めての設計図だ。それを何の苦労もなしに使われるのは……」
「分かるわ」
お嬢様は立ち上がった。
「分かったわ。ギュンター、いい方法があるの。特許というんだけど……」
「トッキョ?」
「発明者の権利を国が保護する制度よ。ただ、この国にはまだ法整備がされていないわ。まずはそこからね」
お嬢様は私を見た。
「エマ、クラウスを呼んで」
◆
クラウス様が到着した。
お嬢様は早速、制度の相談を始めた。
「特許制度……前例のない仕組みでございますな」
クラウス様が眉をひそめた。
「だからこそ作るのよ。発明者が報われなければ、誰も新しいものを作らなくなる」
「わからなくはないのですが──そもそもなぜそのような制度が必要なのです?」
お嬢様は少し考え込むような顔をした。何かを思い出しているようだった。
「ねえクラウス。職人が新しい技術を生み出したとき、どうすると思う?」
「どう、とは?」
「秘密にするのよ。弟子にだけ伝えて、他の誰にも教えない」
「……なるほど」
「そうすると何が起こると思う? その職人が死んだら、技術も一緒に消える」
クラウス様の表情が変わった。
「せっかくの発明が、一代限りで失われてしまう。だから、発明を公開させる仕組みが必要なの」
お嬢様は指を立てた。
「発明者には一定期間、独占的な権利を与える。その代わり、設計図は公開させる。そうすれば、技術が蓄積されていく」
「蓄積……」
「次の発明者は、先人の技術を参考にできる。車輪の再発明をしなくていい。その分、もっと先に進める」
お嬢様は微笑んだ。
「これが特許制度の本質よ。発明者を守りながら、技術を社会全体の財産にする仕組み」
クラウス様は深く頷いた。
「……なるほど。単に発明者に金を払う制度ではないのですな」
「ええ。国全体の技術力を上げるための仕組みよ」
「では、具体的にはどのような仕組みに?」
「まず、発明者が設計図を国に登録する。登録された設計は、他の職人も使っていい」
「誰でも使えるのですか?」
「ただし条件がある。作ったものを売るたびに、発明者に使用料を払う。ロイヤリティと呼ぶわ」
「使用料……」
「鉄の鋤1本につき、売価の1割をギュンターに。種まき機は1割5分、脱穀機は2割」
「複雑なものほど高いのですな」
「ええ。設計の価値が高いから。考えて、試行錯誤して作り上げたものへの正当な対価よ」
クラウス様は書類をじっと見つめた。
「……理にかなっておりますな。これなら発明者も納得するでしょう」
「早速、法整備を進めましょう」
「承知いたしました」
◆
翌週、職人たちを集めた説明会が開かれた。
広間には、領内の鍛冶屋が20人ほど集まっていた。腕に自信のある職人たちだ。腕組みをして、疑わしげにお嬢様を見ている者もいる。
「皆さんに、ギュンターの設計図を公開します」
お嬢様が言うと、鍛冶屋たちがざわめいた。
「本当ですか!」
「あの鉄の鋤の?」
「種まき機も?」
興奮した声が上がる。噂の農具を自分たちも作れる。そう思ったのだろう。
「ただし条件がある」
お嬢様の声に、場が静まった。
「作ったものを売るたびに、売価の一部をギュンターに払うこと」
一瞬の沈黙。
そして、不満の声が上がった。
「……なんでそんなことを」
「俺たちが汗水流して作るんだぞ」
「設計図見せてもらうだけで金取られるのか?」
年配の鍛冶屋が声を荒げた。
「彼が発明したから。考え出した人間には、正当な報酬を」
「でも俺たちが作るのに……」
「俺が何度失敗したと思ってる」
ギュンターさんが前に出た。設計図を広げる。
「この鋤の刃の角度、見ろ。15度だ。なんで15度か分かるか?」
鍛冶屋たちは黙った。
「10度だと土が返らねえ。20度だと抵抗が大きすぎて牛がバテる。俺は10本作って、やっとこの角度に辿り着いた」
ギュンターさんは指で設計図をなぞった。
「種まき機の歯車、この間隔も同じだ。広すぎると種がまとめて落ちる。狭すぎると詰まる。20回は作り直した」
「……」
「お前らは、この設計図を見れば一発で作れる。俺の失敗を、全部スキップできるんだ」
ギュンターさんは設計図を叩いた。
「それに対する対価だと思え」
鍛冶屋たちは顔を見合わせた。
「……確かに、そう言われると」
「角度とか間隔とか、自分で試したら何ヶ月かかるか分からねえもんな」
「設計図があれば、明日から作れる」
さっき声を荒げた年配の鍛冶屋が、腕を組み直した。
「……まあ、理屈は分かる」
少しずつ、納得の表情が広がっていった。
「それから」
お嬢様が続けた。
「この制度は、ギュンターだけのものじゃないわ」
「え?」
「あなたたちも何か新しいものを考えたら、特許を申請できる。そうすれば、他の職人があなたの設計を使うたびに、あなたに使用料が入る」
鍛冶屋たちの目が変わった。
「俺たちも……?」
「ええ。あなたたちにもチャンスがあるのよ。頭を使って、工夫しなさい」
ギュンターさんがニヤリと笑った。
「聞いたか。お前らも発明者になれるんだ。俺から金を取り返したきゃ、頭を使え」
鍛冶屋たちから、どっと笑いが起きた。
◆
そして、特許制度が正式に発布された。
クラウス様が布告を読み上げる。
「発明者は設計図を国に登録し、保護を受ける。他者がその設計を使用する場合、発明者に使用料を支払う」
この国で初めての、発明者を守る法律だった。
◆
数ヶ月後。
ギュンターさんが工場に現れた。いつもと様子が違う。
「……お嬢様」
「どうしたの?」
「金が届いた」
「ロイヤリティね」
ギュンターさんは袋を見せた。ずしりと重い。
「……こんなに貰っていいのか」
「あなたの発明が、30の村で使われているの。当然よ」
「30……」
ギュンターさんは呆然と呟いた。
「これからもっと増えるわ。もっと良いものを考えなさい」
お嬢様は微笑んだ。
「……ああ」
ギュンターさんは袋を握りしめた。その目には、これまで見たことのない光があった。
発明者が報われる仕組み。
お嬢様は「特許」と呼んだ。
ギュンターさんは、ただ作るだけの職人ではなくなった。考え、試行錯誤し、新しいものを生み出す──発明者になった。
そしてその発明が広まるほど、彼に報酬が届く。
「頭を使った者が報われる社会」
お嬢様がよく口にする言葉の意味が、少しだけ分かった気がする。
汗を流すことも大切だ。でも、考えることにも価値がある。
その両方を正当に評価する。
それが、お嬢様の目指す国の形なのだろう。
ギュンターさんの背中を見ながら、私は思った。
この国は、少しずつ変わっていく。
お嬢様の手によって。




