第67話 農業指導官リーゼ
秋。
私たちは再び農村を訪れていた。
リーゼさんの試験畑。彼女が四圃制と化学肥料を試した、あの小さな畑だ。
「……どうかしら」
お嬢様が呟いた。珍しく、少しだけ緊張しているように見えた。
リーゼさんは畑の前に立っていた。背中が強張っている。
私も、息を詰めて見守った。
これは試験だ。お嬢様が教えた知識が、本当に結果を出すのか。リーゼさんが学んだことが、形になるのか。
その答えが、今、目の前にある。
「……できた」
リーゼさんが呟いた。
小さな試験畑に、麦がたわわに実っていた。隣の畑と比べるまでもない。穂は重く垂れ下がり、金色に輝いている。
「本当に……できたんだ」
リーゼさんの目に涙が光った。
「どうだった?」
お嬢様が聞いた。声は平静だったが、口元がわずかに緩んでいた。
「2倍以上です! 同じ広さなのに!」
リーゼさんは振り返り、興奮して報告した。
「四圃制、鉄の鋤、化学肥料。全部合わせた結果ね」
「はい!」
リーゼさんは満面の笑みを浮かべた。
学んだことが、形になった。知識が、収穫になった。
その喜びが、私にも伝わってきた。
でも、ここに至るまでの道のりは、決して平坦ではなかった。
◆
数ヶ月前のことだ。
「おじさん、この肥料を使ってみてください」
リーゼさんは村を回り始めていた。袋を抱えて、農民たちに声をかける。
「……なんだこれ」
「過リン酸石灰です。土に撒くと──」
「女の子に何が分かる」
農民の言葉に、リーゼさんは言葉を詰まらせた。
「でも、結果が──」
「嬢ちゃん、畑仕事は男の仕事だ」
別の農民も口を挟む。
「学校で字を習ったくらいで、偉そうにするんじゃねえ」
「……っ」
「帰れ帰れ」
リーゼさんは追い払われた。
◆
夕暮れ時。
リーゼさんは畑の端に座り込んでいた。
「……どうすればいいんですか」
私に向かって、リーゼさんは言った。
「結果は出てるのに、誰も聞いてくれない」
その声は震えていた。
「……辛いですね」
私は隣に座った。
「正しいことを言っているのに、聞いてもらえないのは」
「……はい」
リーゼさんは俯いた。
「でも、リーゼさんは間違っていません」
「……」
そのとき、声がした。
「なんだ、暗い顔して」
ギュンターさんだった。農具の調子を見に来たらしい。
「ギュンターさん……」
リーゼさんが顔を上げた。
「鋤の調子はどうだ」
「あ、はい。深く耕せるようになって、全然違います」
リーゼさんは少し元気を取り戻した。
「種まき機も、すごく便利で。間隔が揃うから、発芽した後の世話もしやすくて」
「そうか」
ギュンターさんは満足そうに頷いた。
「やっぱり道具は大事なんですね。木の鋤じゃ、こんなに深く掘れなかった」
「当たり前だ。鉄の道具は人の力を何倍にもする」
「……でも」
リーゼさんの声が沈んだ。
「でも?」
「他の人に勧めても、聞いてもらえなくて」
ギュンターさんは腕を組んだ。
「ああ、そういうことか」
「……」
「俺も昔はそうだった」
「え?」
「新しい鍛冶の技を持ち込んでも、誰も信じねえ。『昔からこうやってる』の一点張りだ」
リーゼさんは驚いた顔でギュンターさんを見た。
「じゃあ、どうしたんですか」
「簡単だ。動くもんを見せりゃいい」
ギュンターさんは言い切った。
「口で言っても無駄だ。目の前で結果を出す。そうすりゃ誰も文句は言えねえ」
「結果を……」
「隣の畑でも借りて、お前のやり方でやってみろ。同じ条件で違う結果が出りゃ、認めざるを得なくなる」
リーゼさんの目に光が戻った。
「……やってみます!」
◆
リーゼさんは何も言わなかった。
農民たちに宣言することもなく、隣の空き地を黙々と耕し始めた。
「また何かやってるぞ、あの嬢ちゃん」
「放っておけ。どうせすぐ飽きる」
農民たちは遠巻きに見ていたが、やがて興味を失った。
リーゼさんは気にしなかった。
まず、四圃制に基づいて畑を四つに区切った。麦、蕪、大麦、クローバー。休ませる区画を作らず、すべてを活かす。
次に、牛にギュンターさんの鉄の鋤を繋いだ。
ザクッ、ザクッ、ザクッ。
土が深く掘り返されていく。木の鋤では絶対にできない深さだ。隣で見ていた農民が、一瞬だけ足を止めた。
「……ふん」
でも、すぐに歩き去った。
種まきの時期が来ると、リーゼさんは種まき機を使った。牛に引かせて畑を進むと、種が均等な間隔で落ちていく。
「真っ直ぐだ……」
遠くから見ていた子供が呟いた。
リーゼさんは過リン酸石灰を撒き、丁寧に水をやった。
毎日、黙々と。
私も時々様子を見に行った。リーゼさんはいつも畑にいた。汗を流しながら、ひたすら作業を続けていた。
「……大丈夫ですか」
「大丈夫です。ギュンターさんの道具があれば、一人でもできます」
リーゼさんは鉄の鋤を見つめた。
「結果を出せば、わかってもらえますから」
その目は真っ直ぐだった。
◆
数ヶ月後。
収穫の時期が来た。
「……なんだありゃ」
最初に気づいたのは、隣の畑の農民だった。
「おい、見ろよ」
「嬢ちゃんの畑……」
リーゼさんの畑は、麦が高く伸び、穂が重く垂れていた。金色に輝いている。
隣の畑は、例年通り。
その差は、誰の目にも明らかだった。
「収穫量が……倍近くあるんじゃねえか」
「馬鹿な。同じ土地で、同じ季節に……」
ざわめきが広がった。
「……なあ、嬢ちゃん」
あの日、リーゼさんを追い払った農民が声をかけてきた。
「はい」
「その……」
農民は気まずそうに頭を掻いた。
「教えてくれ」
「……!」
「教えてくれ、先生」
その言葉に、リーゼさんの目から涙が溢れた。
「……はい! もちろんです!」
涙をこらえながら、リーゼさんは話し始めた。
「えっと、まず四圃制というのがあって……」
農民たちは、今度はちゃんと耳を傾けていた。
◆
「リーゼ」
お嬢様が呼んだ。
「は、はい!」
「あなたを農業指導官に任命するわ」
リーゼさんは目を丸くした。
「わ、私がですか!?」
「学んだことを広める。それがあなたの仕事よ」
「でも……私はただの農家の娘で……」
「読み書きができて、科学を学んで、結果を出した。それで十分」
お嬢様は淡々と言った。
リーゼさんは言葉を失っていた。
「……私にできることは、学んだことを広めることです」
やがて、リーゼさんは静かに言った。
「そうよ。それが教育の成果」
「はい! 頑張ります!」
リーゼさんは深く頭を下げた。
「女の子に何が分かる」
その言葉を、リーゼさんは結果で覆した。
読み書きを学んだ。科学を学んだ。実践した。結果を出した。
そして今、彼女は「先生」と呼ばれている。
教育とは何か。
それは、人生を変える力。
お嬢様が蒔いた種は、こうして実を結んでいく。
リーゼさんという少女は、その証拠だ。
農家の娘が、農業指導官になった。
字も読めなかった少女が、村人たちに科学を教えている。
……私も、少しだけ誇らしかった。
お嬢様のそばで、この変化を見届けてきた者として。
そして、リーゼさんの成長を見守ってきた者として。




