第66話 農具の革新
数日後。
執務室で書類を整理していると、リーゼさんから手紙が届いた。
「お嬢様、リーゼさんからです」
「あら」
お嬢様は書類を置いて、手紙を受け取った。封を開け、中を読み始める。
その表情が、少しずつ変わっていく。
最初は真剣な顔。次に、眉が少し上がる。そして──
「……ふふっ」
お嬢様が笑った。
小さく、でも確かに。口元が緩んで、目が細くなる。
──お嬢様が笑っている。
私は思わず見とれた。普段は完璧な摂政殿下の顔しか見せないお嬢様が、こんなに柔らかい表情をしている。
「お嬢様、何が書いてあるんですか?」
「ん? ああ、これ」
お嬢様は手紙を私に見せた。
『四圃制を試すために畑を区切り始めました。化学肥料も少しずつ使っています。最初は村の人に「女の子が何を」と言われましたが、「摂政殿下に教わった」と言ったら黙りました』
「……黙りました、って」
「権威の正しい使い方ね」
お嬢様はくすくす笑っている。本当に楽しそうだ。
手紙には続きがあった。
『でも、困っていることがあります。畑を深く耕したいのですが、うちの鋤では浅くしか掘れません。種まきも手作業で、腰が痛くなります。何か良い方法はないでしょうか』
「農具か」
お嬢様の表情が、いつもの真剣なものに戻った。
「お嬢様、なぜ深く耕す必要があるんですか?」
「土が固いと、根が深く張れないの。根が浅いと、吸える水や養分も少なくなる」
「なるほど……」
「それに、化学肥料を撒いても土が固ければ表面にしか行き渡らない。せっかくの肥料が、半分も活かせないわ」
お嬢様は立ち上がった。
「ギュンターを呼んで。農具を見に行くわ」
「ギュンターさんを? 農具なら大工では……」
「鉄よ、鉄。農具を鉄で作り直すの」
「なるほど……」
私は伝令を呼びに行った。
──さっきの笑顔、もう一度見たいな。
そんなことを考えながら。
◆
農村に着くと、ギュンターさんは早速農民たちの道具を見て回った。
そして、ある道具の前で足を止めた。
「……なんだこれ」
「えっと……鋤ですけど」
リーゼさんが答えた。
「木じゃねえか」
ギュンターさんの声には、驚きと呆れが混じっていた。
見れば確かに、鋤は木製だった。刃の部分まで木でできている。
「これでは浅くしか耕せないわね」
お嬢様が言った。
「はい……でも鉄は高くて」
農民が俯く。
「今はね。でも高炉のおかげで、鉄の値段は以前の半分以下よ」
「半分……」
農民の顔が少し上がった。でも、まだ不安そうだ。半分でも、農民にとっては大金なのだろう。
「……この村に限り、国の費用で農具を用意するわ」
お嬢様が言った。
「国の……費用?」
農民が目を見開いた。
「試験的にね。新しい農法と農具の効果を確かめたいの。成功すれば、他の村にも広げられる」
「そんな……私たちなんかに」
「あなたたちが実験台よ。失敗したら責任を取ってもらうわ」
お嬢様は農民を見つめた。
「それでもやる?」
農民は驚いた顔をしていた。でも、すぐに表情が変わった。
「……やらせてください」
「本当に? 失敗したら、村の名前が残るわよ」
「構いません。必ず成果を出してみせます」
農民は深く頭を下げた。
その声には、強い決意が込められていた。施しではない。挑戦だ。
お嬢様はギュンターさんに向き直った。
「ギュンター。鉄製の鋤を作れる?」
「鋤? 刃の部分を鉄にすりゃいいのか?」
「ええ。刃だけでいいわ」
ギュンターさんは少し考え込んだ。
「……分かった。作ってやる」
◆
数日後。
ギュンターさんが工場から鉄製の鋤を持ってきた。
「ほら。これが鉄の鋤だ」
刃の部分が鉄で作られている。木製のものとは比べ物にならない鋭さだ。
「……重そうですね」
リーゼさんが言った。
「牛に引かせるのよ。人力でやる必要はないわ」
お嬢様が答えた。
畑の脇には、荷運びや耕作に使う牛が繋がれていた。ギュンターさんはその牛に鋤を繋いだ。
「見てろ」
牛が歩き出す。鋤が土に食い込む。
ザクッ、ザクッ、ザクッ。
土が深く掘り返されていく。木製の鋤では絶対にできなかった深さだ。
「……深い。こんなに深く耕せるのか」
農民が呆然と呟いた。
「これが鉄の力だ」
ギュンターさんは腕を組んで言った。
「他に困っていることは?」
お嬢様がリーゼさんに聞いた。
「えっと……種まきですね。手でやるしかないので……」
リーゼさんがため息をついた。種まきの季節は、畑を歩き回って手で種を撒く。腰を曲げて、一日中。
「そうとは限らないわ」
お嬢様が言った。
「え?」
「手で撒くと、密になりすぎたり、疎らになったりする。間隔が一定なら、全部の苗が十分な栄養を吸えるのよ」
お嬢様は地面に図を描き始めた。車輪のついた箱型の機械。
「ギュンター。こういう機械を作れる?」
「……」
ギュンターさんは図をじっと見つめた。
「車輪が回ると、等間隔で種が落ちる仕組みよ」
「……なるほど。仕組みは分かった。作れる」
ギュンターさんは頷いた。水車の時に学んだ歯車の技術が、ここで活きるのだろう。
◆
数週間後。
種まき機が完成した。
牛に引かせて畑を進むと、機械から種が落ちていく。均等な間隔で、まっすぐに。
「すごい……畝が真っ直ぐ!」
リーゼさんが歓声を上げた。
「機械ってのはこういうもんだ。人間より正確にやる」
ギュンターさんは満足そうに言った。
「発芽率が上がる……」
リーゼさんが呟いた。
「そういうこと。よく分かったわね」
お嬢様が頷いた。
「そういえば、脱穀機はどうですか?」
リーゼさんが聞いた。
「ああ、隣村に作った水車動力のやつか」
ギュンターさんが答えた。以前、お嬢様の指示で作った脱穀機のことだ。
「この村にも欲しいんですけど……」
「川が近いからな。水車を建てりゃ、同じもんが作れる」
「本当ですか!」
リーゼさんの目が輝いた。
「ギュンター、この村にも水車と脱穀機を」
お嬢様が言った。
「分かった。大工と相談して建てる」
農繁期の労働が減れば、子供を学校に出す余裕もできる。リーゼさんはそれを誰よりも分かっているのだろう。
◆
帰り道。
ギュンターさんがお嬢様に話しかけた。
「……なあ、お嬢様」
「何?」
「農業も工業なんだな」
お嬢様は微笑んだ。
「そうよ。だから工場長のあなたを呼んだの」
ギュンターさんは畑を振り返った。
「鉄を作るだけが仕事じゃねえってことか」
「鉄は道具よ。それをどう使うかが大事」
「……俺は戦いのために鍛冶をしてきた」
ギュンターさんはぽつりと言った。
「剣、槍、鎧。人を殺すための道具ばかりだ」
「……」
「でも、こうやってみんなの暮らしを楽にするために鍛冶をするのも……悪くねえな」
お嬢様は何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。
「……分かった。お前が設計したら、俺が作る」
「頼りにしてるわ」
お嬢様は珍しく素直に言った。
鉄の力。機械の力。
それは、人間を楽にするためにある。
ギュンターさんの作った鋤は、農民の背中を曲げずに済むようにした。
種まき機は、腰を屈める時間を減らした。
脱穀機は、腕が上がらなくなるまで叩く必要をなくした。
技術とは、そういうものなのだ。
お嬢様が「工業の次は農業だ」と言った意味が、ようやく分かった気がする。
鉄は、武器だけのものじゃない。
人々の暮らしを楽にするものでもある。
農民たちの表情が、少しずつ明るくなっていく。
重労働から解放された時間で、何ができるだろう。
子供たちは学校に通える。
大人たちは他のことを学べる。
水車と歯車、そして鉄の農具。
小さな革命が、農村で始まろうとしていた。




