第63話 三大栄養素
最近、お嬢様の周りが騒がしい。
工場の方から、また歓声が聞こえてきた。
「すげえ!!」
ギュンターさんの声だ。普段は無口な職人さんなのに、ここ数日は子供みたいに興奮している。
「機械が機械を生む……」
「そういうこと」
お嬢様とギュンターさんが、何やら難しい話をしている。旋盤とか、フライス盤とか、ベアリングとか──私には何のことだかさっぱり分からない。
ヨハン様まで工場に入り浸って、三人で図面を囲んでいる。時々、ギュンターさんが「すげえ」と叫び、ヨハン様が「なるほど」と唸り、お嬢様が淡々と説明を続ける。
私はその様子を、少し離れた場所から眺めていた。
難しいことは分からない。でも、三人の目が輝いているのは分かる。
お嬢様の周りには、いつもああいう輝きが生まれる。
先日、お嬢様が工場から不思議なものを持ち帰ってきた。
三枚の金属の羽がついた、手のひらに収まる小さな道具。真ん中を指で挟んで、くるっと回すと──
回る。
回り続ける。
いつまでも、いつまでも回り続ける。
「これがベアリングの力よ」
お嬢様は淡々と言ったが、王城ではひと騒ぎになった。
侍女たちが「まあ」「不思議」と声を上げ、騎士たちが「どういう仕組みだ」と首を傾げ──
あのクラウス様までが、じっと羽の回転を見つめていた。
「……止まらんな」
「摩擦が小さいから」
「ほう」
クラウス様の目が、子供のように輝いていた。普段は厳格な大臣様なのに。
お嬢様の発明は、いつも人の目を輝かせる。
そして、ベアリングの恩恵は私にも分かる形で現れた。
お嬢様の馬車が、改良されたのだ。
走り出した馬車の中で、私は思わず声を上げた。
「……え?」
静かだ。以前は車輪がギシギシと軋んで、御者の声も聞き取りづらいほどだった。それが──ほとんど音がしない。
そして、揺れない。
石畳の継ぎ目も、道の窪みも──まるで雲の上を走っているようだ。
「ベアリングとサスペンションを入れたの」
お嬢様は当然のように言った。
「サスペンション……?」
「ベアリングは摩擦を減らすもの。車軸がスムーズに回るから、音が静かになるわ」
なるほど。あの回り続ける金属の羽と同じ仕組みだ。
「サスペンションは衝撃を吸収するもの。バネを使うの」
「バネ?」
「金属を螺旋状に巻いたものよ。押すと縮んで、離すと戻る」
お嬢様が指で螺旋の形を描いた。
「車体と車軸の間にバネを入れると、道の凹凸をバネが吸収してくれる。これが緩衝──衝撃を和らげる仕組みよ」
私は座席の下を覗き込んだ。車軸と車体の間に、螺旋状の金属──バネが取り付けられていた。
道を走るたび、バネが小さく伸び縮みしている。凹凸のエネルギーを、バネが吸い込んでいく。
「すごい……」
ベアリングで摩擦を減らし、サスペンションで衝撃を吸収する。二つの技術が合わさって、馬車が別物になった。
しかも、速い。
同じ道のりなのに、以前より明らかに早く着く。馬の負担が減ったのか、御者も「こんなに楽なのは初めてだ」と驚いていた。
小さな金属の玉が、馬車を変えた。
難しい理屈は分からない。でも、これが「革新」というものなのだろう。
◆
そんな日々が続いたある日。
お嬢様がヨハン様を農村に呼んだ。
「リーゼの質問に答えてほしいの」
「農家の娘の? 俺は鉱物の専門だぞ」
「そのうち分かるわ」
そうして、ヨハン様が農村にやってきた。
「……すげえ広いな」
畑を見渡して、ヨハン様は呆然と呟いた。緑の麦畑が、地平線まで続いている。
「初めて見たの? 畑」
お嬢様が聞いた。
「鉱山ばっかりだったから……」
ヨハン様は鉱物の専門家だ。石や金属には詳しいが、植物のことはあまり知らないらしい。
リーゼの質問に答えるため──それは聞いた。でも、なぜ鉱物の専門家が農業の質問に答えられるのか、私にはまだ分からなかった。
畑の端で、リーゼが待っていた。
「この子がリーゼよ」
お嬢様が紹介すると、リーゼは緊張した面持ちで頭を下げた。
「よ、よろしくお願いします……」
「私が説明するわ。ヨハンは聞いていなさい」
「……やっぱり俺じゃなくていいんじゃねえか?」
ヨハン様が首を傾げる。農業の質問に、なぜ鉱物の専門家が呼ばれたのか。まだ腑に落ちていないようだ。
「いいから聞いてなさい」
お嬢様は意味ありげに微笑んだ。
「えっと……聞きたいことが3つあるんです」
リーゼがおずおずと切り出した。
「言ってみなさい」
「なぜ麦は毎年同じ場所に植えちゃダメなんですか?」
お嬢様は黙って聞いている。
「なぜマメを植えると土が良くなるんですか?」
「……」
「なぜ休耕地が必要なんですか? 何も植えない土地があるのは、もったいないと思うんです」
リーゼは一気に言い切った。
ヨハン様が首を傾げた。
「……全部バラバラの質問じゃねえか?」
お嬢様は満足そうに頷いた。
「全部つながっているわ」
「……え?」
「でもその前に──リーゼ、植物は生きていると思う?」
「……え?」
リーゼが戸惑った顔をした。ヨハン様も首を傾げている。
「生きてる……んですか?」
「植物は動かねえし、喋らねえし……生きてるっつっても、俺たちとは違うだろ」
ヨハン様が言った。私も同感だった。植物が「生きている」と言われても、ぴんとこない。
「違わないわ」
お嬢様は断言した。
「私たちの体は、小さな『生き物』が集まってできているの」
「小さな生き物……?」
「細胞と呼ぶわ。目に見えないほど小さいけれど、一つ一つが生きている」
お嬢様は地面に小さな丸をたくさん描いた。
「細胞は食べて、増えて、死ぬ。私たちと同じように生きているの」
リーゼが息を呑んだ。
「そして──植物も、この細胞でできているわ」
「植物も……?」
「ええ。根も、茎も、葉も、全部。小さな生き物の集まりなの」
ヨハン様が目を見開いた。
「待て……じゃあ植物も、俺たちと同じように……」
「そう。植物は生きている。私たちと同じようにね」
お嬢様はカラカラと笑った。
「まあ、『生きている』の定義にもよるけれど」
「定義……?」
「難しい話はまた今度。今日は農業の話よ」
お嬢様はリーゼを見た。
「生きているなら、何が必要だと思う?」
リーゼは少し考えて、答えた。
「……食べ物、ですか?」
「正解」
お嬢様が微笑んだ。
「植物も食事をする。土から栄養を吸い上げて──食べて、生きているのよ」
リーゼの目が大きく見開かれた。
「植物が……ご飯を食べる……」
「そう。人間と同じ。だから──」
お嬢様は地面に棒で図を描き始めた。
「植物が必要とする栄養は、主に3つあるわ」
お嬢様は地面に三つの円を描いた。
「窒素。葉緑素……葉っぱの緑の元になるものよ。これがないと葉が育たない」
一つ目の円に「N」と書く。
「待て」
ヨハン様が身を乗り出した。目が輝いている。
「窒素って……Nか? 周期表の? 空気に入ってるっていう?」
「そうよ」
「じゃあ次は──」
「リン。植物が動くためのエネルギーの材料。実や根を育てるのに必要なの」
二つ目の円に「P」と書く。
「P! やっぱりそうだ!」
ヨハン様が興奮気味に叫んだ。リーゼが驚いた顔でヨハン様を見ている。
「あの……何がそんなに……」
「いいから聞いてろ! 次は!?」
「カリウム。水分の調整をして、全体を丈夫にする。病気にも強くなるわ」
三つ目の円に「K」と書いた。
「Kだ……! 全部元素じゃねえか……!」
ヨハン様は頭を抱えた。嬉しそうに。
リーゼは何が起きているのか分からない様子で、私と顔を見合わせた。私にも分からない。
「じゃあ……麦を同じ場所に植えると、麦が必要な栄養だけ減っていく……?」
「そういうこと。よく分かったわね」
お嬢様が珍しく褒めた。
「じゃあ、マメを植えると土が良くなるのは……」
「マメは特別なの。根っこに、空気中の窒素を取り込む力があるのよ」
「空気から……!?」
リーゼが驚いた。ヨハン様も目を見開いている。
「だからマメを植えると、土に窒素が増える。他の作物を植える前に、土を回復させられるの」
「農業って……化学じゃねえか……!」
ヨハン様が呆然と呟いた。
「ようやく気づいた?」
お嬢様は楽しそうに言った。これが、ヨハン様を呼んだ理由だったのだ。
周期表とは、ヨハン様がまとめた元素の一覧表だ。世界を構成する基本的な物質の表。その表にある元素が、農業に直結している。
ヨハン様にとっては、衝撃だったのだろう。
リーゼが控えめに手を挙げた。
「あの……じゃあ、足りないものを足せばいいんですか?」
ヨハン様が振り返った。
「足りないものを足す……だよな? 師匠」
お嬢様が頷いた。
「正解よ、リーゼ」
ヨハン様がリーゼを見た。
「すげえな嬢ちゃん。よく気づいたな」
リーゼが照れたように俯く。
「どうやって足すんですか?」
「それは後で教えるわ。まずは──」
お嬢様がヨハン様を見た。
「ヨハン、この子に元素の話をしてあげて」
「元素?」
リーゼが首を傾げる。
「周期表の話だ。世界が何でできてるか、って話」
ヨハン様の目が輝いた。自分の専門分野だ。
「よし、じゃあ最初から説明するぞ──」
◆
私は少し離れた場所から、二人の様子を眺めていた。
ヨハン様が元素と周期表について熱心に語り、リーゼが質問する。
不思議な組み合わせだ。
お嬢様は説明を終えると、少し離れた木陰で休んでいた。あとはヨハン様とリーゼに任せるつもりらしい。
「分からない」が「分かる」に変わる瞬間。
疑問が知識になる瞬間。
リーゼの目は、さっきまでとは別人のように輝いていた。
あの輝きを、私は見たことがある。
──お嬢様が何かを「教えている」時の、相手の目だ。
ヨハン様も、ギュンターさんも、最初は戸惑っていた。でも、お嬢様の知識に触れるうちに、あの輝きを宿すようになった。
今、リーゼも同じ道を歩み始めている。
知識は、人を変える。
リーゼは、もう昨日までのリーゼではない。
「なぜ」という疑問に、「こうだから」という答えを得た。その答えは、新しい疑問を生む。そして、また答えを探す。
その繰り返しが、人を成長させるのだろう。
「エマ」
お嬢様に呼ばれて、私は我に返った。
「はい」
「お茶を淹れて」
「……はい」
私はメイドだ。難しいことは分からないけれど、お茶を淹れることならできる。
でも──
リーゼの輝く目を見ていると、少しだけ羨ましかった。




