第59話 水車と歯車
農村視察から戻って数日後。
お嬢様が突然立ち上がった。
「水車よ」
「……はい?」
私は思わず聞き返した。今、何の話をしていたのだろう。確か、農村視察の報告書をまとめていたはずだ。
「水車を作るの」
「水車……ですか」
「そう。水車」
お嬢様は満足そうに頷いた。説明する気は全くないらしい。
「あの、お嬢様。水車で何を……」
「ギュンターを呼びなさい」
私の質問は華麗に無視された。
◆
「……で、俺は何しに呼ばれたんだ?」
ギュンターさんは困惑した顔で立っていた。工場から急に呼び出されたのだから、無理もない。
「水車を作って」
「水車? 粉挽きに使うやつか」
「そう」
「……なんで俺が? 水車なら大工の仕事だろ」
「ギュンターに頼みたいの」
お嬢様は真剣な顔で言った。
「……」
ギュンターさんは腕を組んだ。水車自体は珍しいものではない。川沿いの製粉所などで使われている。わざわざ鉄の専門家を呼ぶ必要があるとは思えない。
「嬢ちゃん、水車くらいならそこらの職人でも──」
「普通の水車じゃないの」
お嬢様の目が光った。
「……なんだって?」
「私が作りたいのは、ただの水車じゃないわ」
お嬢様は地図を広げた。先日訪れた農村の周辺図だ。
「農民たちは脱穀に何日もかかっている。女性たちは川で何時間も洗濯している。腰を曲げて、何時間も」
「……ああ、見たな」
「あれを見て、何も思わなかった?」
ギュンターさんは黙った。
「私は思ったわ。──水に働かせればいいのよ」
「水に働かせる?」
「川はずっと流れているでしょう? 昼も夜も、休まずに。その力を借りれば、人間は楽になる」
ギュンターさんの目が、少し変わった。
「……それで水車か」
「そう。水車で回転を作って、その力で脱穀する。洗濯する」
「待て待て。水車で粉を挽くのは分かる。でも脱穀や洗濯は動きが違うだろ」
「だからギュンターを呼んだの」
お嬢様は楽しそうに言った。
「回転を、別の動きに変える方法があるのよ」
「……なんだそりゃ」
「それは後で教えるわ。まずは水車を作って」
「おい、説明しろよ」
「作ってから」
「……」
ギュンターさんは深く溜め息をついた。
「……分かった。大工に作らせりゃいいんだな」
「ええ。設計と監督はギュンターがやって」
「俺は鉄屋だぞ」
「だから機械のこと、分かるでしょう?」
「……」
ギュンターさんは何か言いたそうだったが、結局溜め息をついた。
「分かった。やりゃいいんだろ」
お嬢様は満面の笑みを浮かべた。
私は心の中で呟いた。──また始まった、と。
それからの数週間、お嬢様は上機嫌だった。
朝起きれば「水車」、昼食時には「水車」、夜寝る前も「水車」。
「お嬢様、そんなに水車が楽しみですか」
「ええ。だって水車よ?」
何がそんなに楽しいのか、私にはさっぱり分からなかった。
◆
そして──私たちは再び農村を訪れた。
川沿いに、大きな水車が建っていた。
木製の巨大な車輪が、川の流れを受けてゆっくりと回転している。ぎい、ぎい、と軋む音が響く。
「おお……回ってる」
農民たちが、呆然と水車を見上げていた。
「当たり前だ。水が流れりゃ回る」
ギュンターさんは当然のように言った。
「ギュンター。この水車の回転を、別の動きに変えたいの」
お嬢様が言った。
「別の動き?」
「歯車を使うのよ」
「歯車……?」
ギュンターさんが眉を寄せる。聞いたことのない言葉だったようだ。
お嬢様は地面に棒で図を描き始めた。
「歯車というのは、縁に歯がついた円盤よ。こう……」
丸い円を描き、その周囲にギザギザの歯を描く。そしてもう一つ、同じものを隣に描いた。二つの円盤の歯が噛み合うように。
「二つ噛み合わせると……」
「片方が回れば、もう片方も回る……?」
ギュンターさんが身を乗り出した。
「そう。しかも回転の向きを変えられる。大きさを変えれば速度も変えられるわ」
「……なるほど」
ギュンターさんの目が輝き始めた。職人としての好奇心に火がついたようだ。
「大工に作らせてみる」
数日後、ギュンターさんが木製の歯車を持ってきた。二つの円盤に、丁寧に歯が刻まれている。
「できた。こうか?」
二つの歯車を噛み合わせ、片方を回す。すると、もう片方も連動して回り始めた。
「そうよ。上手にできたわね」
お嬢様が頷く。
ギュンターさんは歯車をじっと見つめていた。回転が伝わっていく様子を、食い入るように観察している。
「待てよ……これ……」
突然、ギュンターさんが声を上げた。
「歯車すげえ!!」
「気づいた?」
「水車の回転を、どこにでも伝えられるじゃねえか!」
ギュンターさんは興奮していた。いつもは無口な職人が、珍しく声を荒げている。
「その通りよ」
お嬢様は満足そうに微笑んだ。
「木の歯車で十分なの?」
私は思わず聞いた。ギュンターさんは鉄の専門家だ。鉄で作った方がいいのではないか。
「今回はこれでいいわ。ゆっくり回すだけだから」
お嬢様が答えた。
「速く回したり、もっと強い力をかけるなら、鉄の歯車が必要になる。でも水車で脱穀や洗濯をするくらいなら、木で十分よ」
「なるほど……」
「いずれ鉄の歯車が必要になる時が来る。その時はギュンターの出番ね」
「……そういうことか」
ギュンターさんは納得したように頷いた。
「この回転で、脱穀機を動かすのよ」
お嬢様が図を描きながら説明する。
「棒を振り下ろす動きに変えればいいんだな」
「ええ。歯車とカムを組み合わせて」
カムというのは、回転運動を上下運動に変える仕組みだと、お嬢様は説明した。正直、私にはよく分からない。
ギュンターさんは図面を睨みつけ、何度も頷いていた。
◆
そうして──脱穀機が完成した。
水車の横に、新しい機械が設置されていた。
水車の回転が、歯車を通じて伝わっていく。そして──
ガタン、ガタン、ガタン。
棒が自動的に振り下ろされ、台の上の麦を叩いていく。
「……勝手に動いてる」
農民たちが呆然と見つめていた。
「俺たちが叩かなくていいのか……?」
「水が働いてくれるんだ」
ギュンターさんが腕を組んで言った。
「次は洗濯よ」
お嬢様が言った。
「洗濯? どうやって?」
「樽の中で布を叩く動きを、歯車で作れない?」
ギュンターさんは少し考え込んだ。
「……やってみる」
そして完成した洗濯機は、大きな樽のような形をしていた。
中に布を入れ、水車の力で樽が回転する。中の突起が布を叩き、汚れを落としていく仕組みだ。
「……川で何時間も屈まなくていいの?」
村の女性が、信じられないという顔で聞いた。
「ええ。水がやってくれるわ」
女性の目に、涙が浮かんでいた。
「……ありがとうございます……」
毎日、川で腰を曲げて洗濯をしていた苦労。それが、この機械で解消される。
私も思わず目頭が熱くなった。
ギュンターさんがお嬢様に話しかけた。
「なあ、嬢ちゃん」
「何?」
「歯車を使えば、他にも色々できるんじゃねえか?」
「例えば?」
「種を撒く機械とか……畑を耕す機械とか……」
ギュンターさんの目は、まだ興奮に輝いていた。歯車という仕組みの可能性に、完全に魅了されているようだった。
「いい発想ね。考えてみて」
お嬢様は楽しそうに言った。
水車が回る。
歯車が噛み合う。
人の手を借りずに、仕事が進んでいく。
お嬢様は「水に働いてもらう」と言った。
その言葉の意味が、今なら分かる。
人間の力には限界がある。一日中働いても、できることには限りがある。
でも、自然の力を借りれば──その限界を超えられる。
川は昼も夜も流れ続ける。その力を借りれば、人間が寝ている間も仕事が進む。
歯車という小さな発明が、農村の暮らしを変えようとしていた。
脱穀も洗濯も、もう人間が何時間もかけてやる必要はない。その分、子供たちは学校に通える。大人たちは他の仕事ができる。
お嬢様のやることは、いつもスケールが大きすぎて、私にはよく分からない。
でも、あの女性の涙を見た時──
少しだけ、お嬢様の見ている未来が見えた気がした。




