第58話 農村視察
帝国学院の開設式から数日後。
執務室で書類の山と格闘していたお嬢様が、突然ペンを置いた。
「……飽きたわ」
「お嬢様?」
「書類、飽きた。外に出る」
お嬢様は椅子から降りると、窓際に歩いていった。8歳の小さな背中が、珍しくぐったりしている。
「まだ午前中ですが……」
「知ってる」
「本日の予定は──」
「キャンセル」
「明日の会議の資料が──」
「クラウスに任せる」
「ですが──」
「エマ」
お嬢様が振り返った。普段の冷静な表情が、少しだけ崩れている。
「気分転換よ。いいでしょう?」
私は思わず口を噤んだ。
お嬢様は5歳で王城に上がってから、ずっと働き詰めだ。国政を動かし、教育を整え、帝国学院を立ち上げた。8歳の子供が、大人でも音を上げるような仕事量をこなしてきた。
たまには息抜きも必要だろう。
「……かしこまりました。どちらへ?」
「知らないわよ」
「知らない……」
「そうね、南がいいわ。南」
お嬢様は窓の外を見ながら、適当に言った。完全に思いつきだ。
「南、ですか。理由は?」
「理由は、えーっと……」
お嬢様が言葉に詰まる。珍しい光景だった。
「んーっと……」
考え込むように首を傾げる。その仕草が、年相応に見えて少し可愛らしい。
「の、農村視察よ、農村視察!」
「農村視察……ですか」
「そう! 農村視察! 初等教育の成果を確認するの!」
急に真面目な顔を作る。でも、さっきまでの「えーっと」が台無しにしている。
「……それ、今考えましたよね」
「考えてないわよ。前から予定してたの。ええ」
「予定表には──」
「……何その目は」
お嬢様が私を睨んだ。
「何か文句あるの?」
「いいえ、何も」
「あるでしょ、その顔」
「ございません」
「嘘ね」
「嘘ではございません」
私は必死に笑いをこらえた。普段は完璧なお嬢様が、こんなに分かりやすく言い訳している。
「……いいから準備して」
「かしこまりました」
……要するに、外に出たいだけなのでは。
でも、そういうところも含めて、お嬢様はお嬢様なのだ。普段は完璧すぎて近寄りがたいけれど、こうして子供らしい一面を見せてくれると、少しだけ安心する。
「お供します」
「当然よ。メイドでしょう?」
私はため息をつきながら、旅支度を始めた。
──まあ、たまにはいいか。お嬢様が楽しそうなら。
◆
馬車に揺られること丸一日。王都から南へ、農村地帯に到着した。
以前なら3日はかかる距離だ。でも、マカダム舗装の国道が整備されてからは、1日で着けるようになった。
お嬢様が進めた道路整備事業。その成果を、こうして実感する。
「摂政殿下、ようこそおいでくださいました」
村長が深々と頭を下げる。初老の男性で、日に焼けた顔には深い皺が刻まれていた。
「学校の様子を見せて」
お嬢様は挨拶もそこそこに、用件を切り出した。
村の小さな学校では、子供たちが板に向かって文字を書いていた。先生が黒板に書いた文字を、一生懸命に真似ている。
「あ、い、う、え、お……」
元気な声を上げて読み上げる子供達の声が聞こえる。
お嬢様は満足そうに頷いたが、それだけでは物足りないような顔をしていた。読み書きを学んだ子供たちが、その先に何を見るのか──それを確かめたいのかもしれない。
学校を出ると、村の様子が目に入った。
川辺では、女性たちが腰を曲げて洗濯をしている。何時間も同じ姿勢で、布を叩き、すすぎ、絞る。その繰り返し。
畑の脇では、男たちが棒で麦の束を叩いていた。脱穀だ。汗だくになりながら、一心不乱に棒を振り下ろしている。
「……皆さん、とても忙しそうですね」
私が言うと、村長が苦笑した。
「ええ。収穫の時期は特に。子供たちも手伝わないと間に合いませんで」
学校に通っている子供たちも、農繁期には休んで手伝うのだという。
お嬢様は何も言わなかった。ただ、疲弊した農民たちの姿を、じっと見つめていた。
畑の端を歩いていると、一人の少女が目に入った。
農作業の合間だろうか。地面に座り込んで、何かを熱心に読んでいる。
本だ。
農村で、本を読んでいる少女。それだけで珍しい光景だった。
少女は本と畑を交互に見比べている。本に書いてあることと、目の前の植物を照らし合わせているようだった。
「……あなた、字が読めるの?」
お嬢様が声をかけた。
少女が顔を上げる。編んだ茶色の髪が揺れ、日焼けした頬についた土を慌てて払った。緑がかった茶色の目が、驚きで大きく見開かれる。
「あ、は、はい! 学校で習いました」
慌てて立ち上がり、深く頭を下げる。
「何を読んでいるの?」
「えっと……植物の本です。摂政殿下が学校に寄贈してくださった……」
お嬢様が各地の学校に本を送っていることは知っていた。識字率を上げるため、読み物が必要だと。
「その本で何を調べているの?」
「あの……分からないことがあって。この本で調べようとしたんですけど、書いてなくて……」
「他の本は?」
「私が知りたいことがかいてある本は、見つからなかったんです」
少女は困ったように眉を下げた。
お嬢様は少女をじっと見つめた。
「言ってみなさい。何が知りたいの?」
その言葉に、少女の目が輝いた。待っていましたとばかりに、言葉が溢れ出す。
「あの、なぜ麦は毎年同じ場所に植えちゃダメなんですか?」
「……」
「なぜマメを植えると土が良くなるんですか?」
「……」
「なぜ休耕地が必要なんですか? 何も植えない土地があるのは、もったいないと思うんです」
少女は一気にまくし立てた。そして、はっと我に返ったように俯く。
「おばあちゃんに聞いたら、『昔からそうだから』って。お父さんに聞いても、『おばあちゃんに習った通りにやれ』って。でも、それじゃ納得できなくて……。だって、理由が分かれば、もっと良いやり方が見つかるかもしれないじゃないですか」
「……」
「す、すみません。生意気なこと言って……」
少女は申し訳なさそうに縮こまった。
お嬢様は、珍しく口元を緩めた。
「いいえ。いい質問よ」
お嬢様はしげしげと少女の顔を覗き込んだ。
「あなた、名前は?」
「リーゼです」
「リーゼ……」
お嬢様は何か考え込むように、その名前を繰り返した。
「また来るわ」
「え?」
「その時、あなたの疑問に答えてあげる」
リーゼは呆然としていた。何が起きているのか、理解が追いついていないようだった。
◆
帰りの馬車の中で、お嬢様はずっと黙っていた。
窓の外を見つめながら、何かを考えている。
「お嬢様」
「……」
「お嬢様?」
「ん? 何?」
珍しく、ぼんやりしていたようだ。
「いえ……何をお考えですか?」
「色々とね」
お嬢様は窓の外に目を戻した。
「あの村の人たちは、朝から晩まで働いていたわね」
「はい。収穫期は特に大変だと」
「脱穀に何日も。洗濯に何時間も。子供たちも手伝わないと回らない」
「……はい」
「もったいないわ」
「もったいない……ですか?」
「人の手は限られている。その手を、もっと別のことに使えたら」
お嬢様は何かを思いついたようだった。目に、あの光が宿っている。何か新しいことを始める時の光だ。
また何か始まる。私はそう確信した。
──そして、リーゼという少女のことも、きっと忘れていないのだろう。
お嬢様が蒔いた種は、確かに芽吹いていた。「なぜ」と問う力を持った少女という形で。
その芽が、どんな花を咲かせるのか。
私にはまだ分からない。でも、きっとお嬢様には見えているのだろう。




