閑話2-2 料理研究会:ペペロンチーノ九十点
「今日はパスタを食べるわ」
食べるわ。作るわ、ではなく、食べるわ。
お嬢様がそう言った日の台所は、いつもより穏やかだった。お嬢様は作らない。料理長が作る。それだけで全員の心拍数が下がる。
料理長がパスタを茹でた。大きな鍋に湯を沸かし、塩を入れ、小麦粉の麺を投入する。別の鍋でオリーブオイルを温めて、薄切りのニンニクを入れた。ニンニクがきつね色になるまで、弱火でじっくり。
オリーブオイルの中で、薄切りのニンニクがゆっくりと色づいていく。白から淡い黄へ、黄から金へ。火が強すぎれば焦げる。弱すぎれば香りが立たない。その境目を見極める料理長の目は、いつもより真剣だった。お嬢様の前でパスタを出すというのは、それだけで試験のようなものなのだろう。
やがて台所にニンニクの香りが広がり、副料理人たちの手が自然と止まった。甘く、香ばしく、どこか体の奥を温めるような香り。
シンプルな料理だ。パスタとオリーブオイルとニンニクと塩。それだけ。お嬢様は「シンプルなほど美味しい」と言う。ならこれは美味しいはずだ。
茹で上がったパスタをオリーブオイルに和える。塩で味を調える。皿に盛る。湯気と共に、金色のオイルをまとった麺が、白い磁器の上に艶やかに横たわった。
お嬢様が一口、フォークにパスタを絡めた。口に運ぶ。咀嚼する。
──止まった。
フォークを持ったまま、何かを考えている。美味しいはずだ。眉をひそめてはいない。でも、目が、ほんの一瞬だけ、遠くを見た。口の中の何かを、確かめているのではなく、口の中に「ないもの」を探している顔だった。
「美味しいわ。でも足りないの」
「何が足りないんですか」
「赤くて辛い実よ。これを薄切りにしてオリーブオイルに入れると、ピリッとした辛味が出るの。それがあると全体が引き締まるの」
「赤くて辛い実……」
聞いたことがない。赤い実ならいくつか知っている。りんご、さくらんぼ、いちご。でも「辛い」実は知らない。
「唐辛子というの」
「帝国にはないのですか」
「ないわ」
「他の国には? ソラーレとか、シミアとか」
お嬢様が少し間を置いた。
「──あるのかしら。新婚旅行で出会えたらいいわね」
「胡椒ではだめなんですか?」
胡椒は、帝国でも舶来の高級香辛料である。日常の料理には滅多に使わないが、皇后陛下の厨房ならば、まあ手に入る。辛さが欲しいのなら、一番近いのは胡椒のはず──と、メイドなりに考えてみた。
「違うのよ。──胡椒の辛さは、ピペリンという物質が舌をぴりっと刺す辛さ。唐辛子の辛さは、カプサイシン。痛みを感じる神経に直接作用するから、辛さの質がまるで違うの。口の中に熱が広がって、喉の奥まで通って、汗まで引き出すの」
「ピペリン……カプサイシン……」
「成分の作用する受容体が違うのよ。胡椒はぱっと咲いて消える辛さ、カプサイシンは体の奥まで届いて長く残る辛さ。──それに、胡椒はお金を積めば手に入る。カプサイシンの赤い実は、お金を積んでも手に入らない。そもそも、この世界に存在するかどうかも、分からないのだから」
お嬢様はそう言って、なお言葉を探した。──でも、結局伝わらない。成分の名前を正確に知っていても、その味を食べたことがない私には、どれだけ正確に重ねられた言葉も、結局はピンとこない。存在しないものの味は、食べたことがない人間には、どんな科学用語を並べても、ついに届かないのだ。
お嬢様は、私の知らない味を知っている。食べたことがない。見たこともない。でも知っている。
食べたことがないはずなのに、お嬢様の舌は「足りない」と分かる。知らないはずの味が、口の奥に薄く焼き付いていて、その不在を感じ取っている。──そういう人なのだ。最近の私は、そう諦めつつある。諦めて、ただ横で見ていることに決めつつある。
「──パスタがあるのは、素晴らしいのよ。本当に、素晴らしいの」
お嬢様がぽつりと呟いた。
「でも、色々と足りないわ。ナポリタンが食べたい。ミートソーススパゲティが食べたい。──でも、トマトがないんだもの」
「なぽりたん……みーとそーすすぱげってぃ……」
また知らない料理名が二つ、一気に増えた。お嬢様の口は今、料理の名前を並べているのに、その料理の素材さえ、この世界にはないのだ。
「トマトとは何ですか?」
「……赤い実よ。唐辛子とは違う、甘くて、酸っぱくて、水分の多い実。熱を通すと甘みが濃くなって、ソースに溶けて、肉と麺の橋渡しをするの」
また、赤い実だった。お嬢様がご存知の赤い実は、何種類あるのだろう。辛い赤い実、甘くて酸っぱい赤い実──私の知っているりんごも、さくらんぼも、いちごも、たぶんその一覧の端の方に載っている程度なのだ。
「……和風パスタも食べたいわ」
「わふうぱすた……」
また新しい言葉が増えた。
「オリーブオイルじゃなくて、醤油で和えるパスタ。きのこと、バターと、刻んだ青いものを散らして。和風というのは、とても遠い土地の味付けの名前よ」
「その、しょうゆ、というものも──」
「ないの。この帝国に大豆がないから、醤油が作れないのよ」
大豆。聞いたことがある。遠い南の国の豆だと、以前お嬢様が仰っていた気がする。帝国には、ない。ゆえに醤油は、作れない。すると和風パスタも、作れない。──「ない」が連鎖している。お嬢様がご存知の料理から、ひとつ、またひとつと素材が抜けて、この世界のお嬢様の食卓には、いくつもの穴が空いている。
「──あの、お嬢様」
私はおずおずと口を開いた。
「カルボナーラ、というお料理は……作れませんか?」
聞きかじりだった。いつだったか、お嬢様がヨハン様相手にパスタの話をしていた時に、その名前を耳にした。卵とチーズと豚と黒胡椒、とか、そんな説明をされていた気がする。──帝国には、卵もチーズも豚も黒胡椒も、ある。だったら。
お嬢様が顔を上げた。目が、ほんの少しだけ明るくなった。
「……作れるわね」
静かな声だった。
「パンチェッタは豚の塩漬けで代用できるし、卵もチーズもある。黒胡椒もある。──近い味は、作れるわ」
料理長の肩が、ほんの少しだけ浮いたように見えた。この長い「ない」の連鎖の中で、ようやく「作れる」という言葉が出てきたのだ。
「では、次はカルボナーラを──」
「……でも、今日はペペロンチーノだもの。カルボナーラはまた今度ね」
お嬢様が微笑んだ。遠い目の奥に、ほんの少しだけ、近い目が混ざった気がした。
「九十点」
お嬢様が言った。
「十分美味しいですが」
「十分美味しい。でも足りないの。辛味がないと締まらない」
料理長が皿を横目で見て、わずかに肩を落としたのが視界の端に映った。料理長の腕は間違っていない。足りないのは料理ではなく、この世界のほうだ。──それを料理長に伝える言葉を、私はまだ持っていなかった。
九十点のパスタを食べながら、お嬢様がひとつだけため息をついた。そして、その後は、残すわけにはいかないという顔で、最後まで綺麗に食べた。作ってくれた人への敬意なのか、九十点でも美味しいものは美味しいという矜持なのか。──たぶん、両方なのだろう。
十分美味しい九十点。永遠に百点にならない九十点。足りない十点は、この世界のどこにもないかもしれない赤い実の分だ。
──お嬢様にとって、九十点の料理は「美味しい失敗」なのだろうか。それとも「惜しい成功」なのだろうか。
私には分からなかった。ただ、お嬢様が「この世界のどこにもない」と言った時の声の静かさが、胸に残った。
いつかこの十点が埋まる日が来るのだろうか。この世界のどこかに、お嬢様の求める赤い実が本当に実っていてくれたらいい。そしていつか、お嬢様のパスタが、百点になる日が来るといい。
──新婚旅行が、そのきっかけになれば、メイドとしてはいちばん嬉しい。




