第145話 遠い田舎〜ナタン視点〜
いつもの席が空いていた。
カウンターの端。壁際の、少し暗い場所。俺がここに座るようになったのは、あの夜からだ。戦勝祝いで酒がタダだった夜。壁際のテーブルで一人で飲んでいた男の向かいに、勝手に座った夜。
あれから三ヶ月くらいになる。
約束はしていない。週に三回くらい、この酒場に来る。レオがいる日もあれば、いない日もある。だがだいたいいる。
最初は「隣いいか」と聞いていた。いつからか聞かなくなった。座れば杯が一つ置いてある。レオが頼んだものだ。「余った」と言う。余るわけがない。一杯分だ。
俺がよく喋って、レオが短く返す。いつものパターンだ。
今日の話題は、帝国学院の農学の授業で出た豆の話だ。窒素を根に蓄える豆があるらしい。教授がその仕組みを説明していたのだが、正直よく分からなかった。だが面白いことは分かった。
「——で、その豆を植えた畑は肥料がいらないんだってよ。すごくないか」
「……ああ」
「お前、聞いてる?」
「聞いてる」
「聞いてるなら何か言えよ」
「……すごいな」
短い。でも聞いている。目を逸らさない。相槌を打つ。「ああ」「そうか」「……で?」。それだけなのに、俺は喋り続けてしまう。
レオは不思議なやつだ。こっちがどれだけ喋っても、うるさいとは言わない。かといって楽しそうでもない。ただ聞いている。それだけなのに、なぜか心地よい。
昼間、市場でレオを見かけた。
大根を真剣に見比べていた。二本の大根を交互に持ち上げて、重さを確かめている。
「お前、自炊してるのか」
声をかけたら、レオが固まった。酒場の外で会うのは初めてだった。
「……悪いか」
「いや。意外だっただけだ」
レオの買い物かごを覗き込んだ。質素だ。野菜と穀物と塩漬け肉。彩りがない。
「魚は買わないのか」
「……高い」
「おごるよ」
「いらん」
「まあまあ。ほら、この干し魚美味そうだぞ」
勝手に干し魚を買って押しつけた。レオは渋い顔をしたまま受け取った。何か言ったが、小さすぎて聞こえなかった。
「ん? なんか言った?」
「……何も言ってない」
嘘だ。「ありがとう」と言った。聞こえていたが、聞こえなかったことにした。そのほうがあいつは楽だろう。
酒場の外で会ったのは初めてだった。生活している。当たり前だ。俺と同じように、この帝都で暮らしている。飯を食って、仕事をして、家に帰って、また朝が来る。
当たり前のことが、なぜか新鮮だった。
その夜も酒場にいた。いつもの席で、いつもの杯を傾けていた。
隣のテーブルで商人たちが喋っている。大きな声だ。聞くつもりはなかったが、聞こえてしまった。
「南のほうでまた戦があったらしいぞ。カニスとシミアだ」
杯を持つ手が止まった。
「ああ、あの犬猿の戦争か。百年やってるやつだろ。まだやってんのか」
「国境の砦が落ちたとか。シミアが攻めて、カニスが押し返して。まあいつものことだ」
「可哀想にな、向こうの民は」
「まあ俺らには関係ないがな」
笑い声が上がった。次の話題に移った。
俺は杯を見つめていた。レオも動かなかった。
どっちの砦だ。誰が死んだ。俺が知っている人間が、あの砦にいたかもしれない。
──関係ない。この国の人間には関係ない話だ。
俺には、関係がある。
砦が落ちた。どっちの砦だ。俺が知っている顔が、あの砦にいたかもしれない。
レオを見た。レオは杯を見つめている。表情は変わらない。だが、杯を握る指が白い。
──こいつも、何か思うところがあるのか。
「……もう一杯飲むか」
「……ああ」
それ以上は何も言わなかった。レオが何を考えていたのか、聞かなかった。聞かないのが俺たちのやり方だ。
そんなある日、レオが酒場に来なくなった。
一日目は気にしなかった。来ない日もある。
二日目。来ない。
三日目。来ない。
三日連続は初めてだった。別に約束してるわけじゃない。だが三日は初めてだ。
四日目。俺は酒場に行かなかった。代わりに、レオの下宿を探した。市場の方角から辿って、それっぽい安宿を見つけた。大家に「金髪の無口な男」と言ったら、一発で分かった。
「ああ、あの子か。最近出てこないけど、大丈夫かね」
大丈夫じゃなかった。
部屋の扉を叩いた。返事がない。鍵はかかっていなかった。開けた。
レオが寝ていた。毛布に包まって、汗をかいている。額に手を当てた。熱い。水も食べ物も見当たらない。
「……お前、何日こうしてるんだ」
「……なんで来た」
「杯が余ったから持ってきた」
嘘だ。杯は持ってきていない。でもレオは突っ込まなかった。
台所を借りた。米と塩があった。水を沸かして、雑に粥を作った。自分で味見して顔をしかめた。不味い。米が硬いし、塩が足りない。
レオの枕元に持っていった。
「食え」
レオは体を起こして、粥を一口食べた。何も言わない。もう一口。また何も言わない。
「……不味いだろ」
「……ああ」
「正直かよ」
「……でも、温かい」
不味い粥を、レオは全部食った。文句も言わず、残しもせず。
しばらく黙っていた。窓の外で風が鳴っている。
「……ナタン」
「なんだ」
「……あの夜の話。酒場で聞いた戦の話」
手が止まった。
「俺は──」
レオが何かを言おうとしている。口が動いて、止まって、また動く。
「……いや。なんでもない」
「……ああ」
言わなかった。言えなかった。でも、言おうとした。
放っておけなかったのだ、と自分に言い訳した。でも本当は、三日会わなかっただけで落ち着かなくなった自分が怖かった。
翌朝、レオの熱は下がっていた。
俺は帰らずに床で寝ていた。背中が痛い。レオの部屋は狭くて、床も硬い。
残りの粥を温め直して、二人で食べた。まだ不味い。
窓から帝都の朝が見える。屋根の向こうに帝国の旗が揺れている。朝日が石畳を照らしている。いい天気だった。
「……なあ、レオ」
「……なんだ」
「お前、帰りたいか。故郷に」
窓の外を見たまま聞いた。レオの顔は見なかった。
長い沈黙だった。
「俺の田舎では今、誰かが死んでるかもしれない。俺がここで粥を食ってる間に」
長い沈黙だった。
「……帰っても、俺の居場所はない。だが帰らなければ──忘れられる」
「忘れられた方が楽か」
「……楽じゃない」
「……だよな」
「じゃあ、ここが居場所か」
「……ここは借り物だ」
「借り物でも、いいじゃねえか。居心地は悪くない」
レオが何か言おうとして、やめた。代わりに粥を一口食べた。
「……まだ不味いな」
「……ああ」
互いに嘘をついている。出身地も、本名かどうかも、なぜ帰れないのかも。全部、濁したままだ。
でもあの朝、「帰れない」という一点だけは、嘘じゃなかった。
それで十分だった。




