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私はメイドです!〜お嬢様の世界征服に巻き込まれた哀れな日々〜  作者: ほしみん
第二章 大陸征服

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第144話 結婚式の裏側:父の声

「エマ、頼みたいことがあるの」


執務室でお嬢様がそう言った時、私はいつもの覚悟をした。お嬢様の「頼みたいこと」は、だいたい私の胃に悪い。


「何でございましょう」


「ヴィルヘルム前陛下のところに行って、声を録ってきて」


「声を……録る?」


意味がわからなかった。声を録る。声は空気に消えるものだ。手紙なら文字として残るが、声はそうはいかない。


お嬢様は机の上に置かれた木箱を示した。蓋を開けると、中には蝋で作られた薄い円盤と、腕木に取り付けられた細い針が見えた。


「声を出すと空気が震えるでしょう。この針がその震えを拾って、蝋の板に溝を刻むの。溝をなぞれば、同じ震えが再現される。つまり声が戻る」


お嬢様の説明はいつも簡潔だった。原理を一言で片づけて、あとは「やりなさい」と言う。理解が追いつかなくても、お嬢様は待たない。


「なぜ私が?」


「あなたが行くのが一番自然だからよ。摂政の使いとして祝辞をお願いに行く──その体裁で」


なるほど。確かに、結婚式の祝辞を頂戴したいという名目なら不自然ではない。メイドが使いに出るのも、この宮殿では珍しくない。私がいろいろやらされすぎたせいで。


「アルブレヒト様は……」


「アルブレヒトには録音技術の存在を知らせたくないの。当日まで秘密よ」


お嬢様がアルブレヒト様に何かを隠す。珍しいことだった。


お嬢様は基本的に、知らせるべきことは知らせ、知らせなくてよいことは初めから存在しないかのように振る舞う。わざわざ「秘密」にするのは、相手に「知らなかった」という瞬間を作りたいからだ。


驚かせたいのだ、と私は最初に思った。


でも、すぐに違うと気づいた。驚かせたいのではない。「父の声」を不意に聞かせたいのだ。事前に知らせれば、アルブレヒト様は心の準備をするだろう。覚悟を決めて聞くだろう。それでは駄目なのだ。準備された感動ではなく、不意打ちでなければ。


お嬢様は、そういうことをする人だった。


ヴィルヘルム前陛下の隠居先は、帝都から馬車で半日ほどの田舎にあった。帝国が用意した屋敷だと聞いている。旧ノルデン領ではなく、帝国の内地。それが本人の希望なのか、お嬢様の配慮なのか、私にはわからなかった。


馬車の中で、私は録音機を膝の上に抱えていた。振動で蝋の板が傷つかないよう、布で包んで箱ごと抱いている。大事な荷物だった。まだ何も録られていない、空白の円盤。これからここに、誰かの声が刻まれる。


窓の外を田園風景が流れていく。麦畑の向こうに低い丘が連なり、冬枯れの木立が灰色の空に線を引いている。穏やかな風景だった。


ヴィルヘルム前陛下には、数えるほどしかお会いしたことがない。


併合の時に一度。あとは書類の受け渡しで二度ほど。いずれも短い時間だった。記憶に残っているのは、大きな体と、疲れきった目だった。あの頃のヴィルヘルム前陛下は、壊れかけていた。お嬢様に二度敗れ、自ら国を差し出した王。あの人の目には、もう何も映っていないように見えた。


あの人は、何を思って王冠を手放したのだろう。


馬車が揺れるたびに、膝の上の箱が微かに動いた。私はそれをそっと押さえた。




前陛下の屋敷は、思っていたよりずっと小さかった。


元王の住まいとは思えないほど質素な石造りの家。壁を這う蔦が冬枯れで茶色くなっている。門も柵もない。庭先に広がっているのは、花壇ではなく菜園だった。


畝が整然と並んでいる。大根の葉が青々と伸び、豆の支柱が等間隔に立っている。丁寧な仕事だった。これを耕しているのが、かつて五万の軍を率いた王だとは、知らなければ誰も思わないだろう。


庭の奥で、一人の老人が膝をついて土を掘り返していた。


「ヴィルヘルム前陛下」


私が声をかけると、老人はゆっくりと顔を上げた。


「おお、シャルロッテ殿下の使いか。遠いところをご苦労さま」


立ち上がったヴィルヘルム前陛下は、記憶の中の人とはまるで別人だった。


背中が少し丸くなっている。手は土で汚れ、膝の布が擦り切れている。声も変わっていた。あの頃の張り詰めた低音ではなく、穏やかで、少し掠れた、枯れた声だった。王の威厳はもうどこにもない。なのに、不思議と品があった。土に塗れていても、所作のどこかにその品が残っている。染み付いた品というものは、そう簡単には消えないものらしい。


「結婚式のお祝いの言葉をいただきたく参りました」


「祝いの言葉か」


ヴィルヘルム前陛下は、少しだけ目を伏せた。


「──旧敵の王が祝辞を述べれば、対外的に示しがつく。そういうことだろう」


見抜かれていた。いや、見抜くも何もない。元王なのだ。政治の意図を読めない方がおかしい。


「……はい。お嬢様の狙いは、おそらくその通りかと」


嘘をついても仕方がなかった。この人を騙せるとは思わないし、騙す必要もないだろう。


ヴィルヘルム前陛下は小さく笑った。


「正直なメイドだな」


それから少し間を置いて尋ねた。


「アルブレヒトは元気にしておるか」


声が変わった。さっきまでの穏やかな老人の声ではなかった。ほんの少しだけ低く、ほんの少しだけ硬く。──父親の声だった。


「はい。帝国の役人として立派にお務めです」


「……そうか」


ヴィルヘルム前陛下は目を閉じた。


長い沈黙だった。風が菜園の葉を揺らす音だけが聞こえた。あの人は何を考えているのだろう。息子のことを。手放した王冠のことを。それとも、もっと遠い昔のことを。


私にはわからなかった。ただ、その沈黙が重いということだけは、わかった。



屋敷の中に通された。書斎と呼ぶには質素すぎる部屋だった。木の机と椅子が一つずつ。棚には数冊の本。窓から差し込む冬の光が、白い壁を柔らかく照らしている。


私は録音機を机の上に置いた。


「お言葉を、この装置に録らせていただけますか」


蝋の円盤と針の仕組みを、お嬢様に教わった通りに説明した。ヴィルヘルム前陛下は、不思議そうに箱を覗き込んだ。


「声を……残す? 不思議なものだな」


「はい。針を落としますので、お好きなようにお話しください」


ヴィルヘルム前陛下は椅子に座り、両手を膝の上に置いた。そのまま、しばらく動かなかった。


前陛下は、何を言えばいいのかわからない──そういう顔をしていた。


「……俺は、もう王ではない。祝辞を述べる資格があるのかも分からん」


「殿下にお伺いしましたら、『ヴィルヘルム前陛下の言葉が聞きたい』と仰っておりました」


嘘ではなかった。お嬢様は確かにそう言った。ただ、あの時のお嬢様の声に感情があったかどうかは、私にもわからない。お嬢様のことは、五年仕えてもわからないことばかりだ。


「……あの娘がそう言ったか」


ヴィルヘルム前陛下の口元が、かすかに緩んだ。笑みとは呼べないほど小さな変化だった。


しばらくの沈黙があった。


やがて、ヴィルヘルム前陛下が静かに頷いた。


「わかった」


私は針を蝋の円盤の端に下ろした。微かな音がして、針が溝を刻み始める。


ヴィルヘルム前陛下が、息を吸った。


「カール陛下、シャルロッテ殿下。ご成婚おめでとうございます」


低くて、少し掠れた声だった。


「老いぼれの隠居者が、こうして祝辞を述べる機会を頂戴したこと、まず感謝を申し上げます」


ヴィルヘルム前陛下は言葉を選びながら、ゆっくりと話している。原稿はない。頭の中で、一語一語を探しているのだ。


「今、私は帝国の片隅で隠居の身を送らせていただいております。非常に──非常に、快適な暮らしでして」


そこで声が詰まった。ほんの一瞬。すぐに持ち直したが、私は聞き逃さなかった。


「畑を耕し、日が昇れば起き、日が沈めば眠る。王であった頃よりも、よほど人らしい生活です。これもひとえに、お二人のご温情と、受け入れてくださった帝国の民のおかげと思っております。感謝の念に堪えません」


窓の外で鳥が鳴いた。ヴィルヘルム前陛下は少し間を置いた。


「そして──今はなきノルデンの民も、不遇な扱いを受けることなく暮らしていると聞いております」


今はなきノルデン。自分の国の名を、自分で口にした。滅んだ国を。自分が手放した国を。


「旧敵の民を分け隔てなく遇してくださっていること、元国王として、これ以上の喜びはございません。今はただ、お二人と道をともにできたことを嬉しく思っております」


声が一拍、途切れた。


「最後に一言だけ。──どうか、民を大切に。それだけで国は続きます。お二人の行く先に、穏やかな日々がありますように」


声が止まった。


私は針を上げた。


短い祝辞だった。王の祝辞としては格式が足りない。形式も整っていない。練られた美辞麗句もない。ただ素朴な言葉が、不器用に並んでいるだけだった。


だが──声が震えていた。


「民を大切に」のところで、ほんの少しだけ。聞き逃してしまいそうなほど微かに。


あの人は、あの言葉を息子にも言いたかったのだと、私は思った。



録音が終わった後、ヴィルヘルム前陛下は私を庭に案内してくださった。


「見てくれ。今年は大根がよく育った」


菜園の畝を歩きながら、ヴィルヘルム前陛下は嬉しそうに言った。大根の葉が冬の光を受けて青々と輝いている。隣の畝には豆が支柱に巻きついて伸び、その先には麦の若芽が低く地面を覆っていた。


「王をやめたら、やることがなくなるかと思ったが……土をいじっていると、案外飽きん」


ヴィルヘルム前陛下は畝の端にしゃがみ、大根の葉をそっと撫でた。


「……帝国の農政は大したものだな」


唐突だった。だが、その声には畑仕事の感想以上の重さがあった。


「この辺りの農家にも、帝国の肥料が出回っておる。窒素、リン、カリウム──俺が王だった頃には聞いたこともない言葉だが、あれを撒くと作物の出来がまるで違うんだ。ノルデンにはそんなものはなかった」


前陛下は立ち上がり、菜園の向こうに広がる丘陵地帯を見渡した。


「旧ノルデン領の話も聞いておる。学校が増えた。道が整った。飢える者が減った」


前陛下は指を折った。


「通貨統一の交換比率も適切だった。旧ノルデンの民が損をしないよう配慮されておった。あれで恨みを買わずに済んだ。──俺なら、ああはできん」


声に恨みはなかった。悔しさも、妬みも。


「百年だ」


ヴィルヘルム前陛下は静かに言った。


「帝国とノルデンは百年戦い続けた。祖父の代から、父の代、俺の代。終わらせたかった。だが、俺にはできなかった」


風が菜園の葉を揺らした。


「あの娘は、それをたった五年で成し遂げた」


ただ事実を事実として述べている。それが却って重かった。


「──シャルロッテ殿下にノルデンを託してよかったと、本当に思っておる。これならもう、二国の戦は二度と起きまい」


そう言ったヴィルヘルム前陛下の表情を、私は読み切れなかった。悔しさなのか。寂しさなのか。それとも──安堵なのか。たぶん、その全部だった。百年の宿敵に国を預けて、その判断が正しかったと認めること。王としてこれほど複雑な感情はないだろう。


ヴィルヘルム前陛下の声が、少し沈んだ。


「──だが、俺は逃げたんだ。アルブレヒトに全てを押し付けて」


私は何も言えなかった。


風が吹いた。菜園の葉がざわざわと鳴った。ヴィルヘルム前陛下は畝の端に立って、遠くの丘を見ていた。


「あいつは俺より強い」


静かな声だった。


「俺が王冠を捨てられたのは、あいつなら王冠がなくてもやっていけると分かっていたからだ」


その横顔を見て、私は思った。


この人は、自分を卑怯者だと思っている。国を売り、息子に重荷を押し付けた臆病者だと。きっと毎日、この菜園を耕しながら考えているのだろう。あの時の選択は正しかったのか。もっと別のやり方はなかったのか。


でも──民のために王冠を降ろした人を、卑怯とは言わない。


少なくとも、お嬢様はそう思っていないはずだ。だからこそ、この人の声を録りに来た。この人の言葉を、結婚式の場に届けようとした。


私はそう思いたかった。



帰りの馬車の中で、私は録音機を膝の上に抱えていた。


行きと同じように布で包み、揺れから守るように両手で押さえている。だが今は、中の円盤に声が刻まれている。空白ではない。あの人の声が、溝の中に眠っている。


我慢できなかった。


ゼンマイを静かに巻き、針をそっと溝に落とした。小さな箱から、あの掠れた声が流れ出す。


『──どうか、民を大切に。それだけで国は続きます』


馬車の揺れに混じって、ヴィルヘルム前陛下の声が響いた。


民を、大切に。


ふと、思い出した。


アルブレヒト様がよく言う言葉がある。旧ノルデン領の行政を任され、地方官として働く中で、彼が口癖のように繰り返す一言。


「民が笑ってればいいんです」


同じだ。


父と子で、同じことを言っている。


「民を大切に」と「民が笑ってればいいんです」。言い回しは違う。だが、その奥にあるものは同じだ。国とは何か。王とは何か。──その問いに対する、同じ答え。


息子は知っているのだろうか。自分が父と同じ言葉を使っていることを。


たぶん知らない。


アルブレヒト様は父を「臆病者」だと恨んだ時期がある。帝国に入り、自分の目で見て、やがて許した。和解もした。だが、自分の口癖が父の言葉と重なっていることには、おそらく気づいていない。


教えられたのではない。真似たのでもない。父の背中を見て育ち、父を恨み、父を許し──その全部をくぐり抜けた先で、自分の言葉として辿り着いた答えが、父と同じだった。


だからこそ本物なのだ。


「お嬢様は……これを、知っていたのでしょうか」


声に出して呟いた。答える人はいない。馬車の中には私一人だった。


お嬢様は、知っていたのだろうか。ヴィルヘルム前陛下の祝辞に「民を大切に」という言葉が入ることを。アルブレヒト様の口癖と重なることを。二つの言葉が結婚式の場で交差することを。


知っていたとしたら、恐ろしい人だ。知らなかったとしたら、美しい偶然だ。


どちらであっても、私には確かめようがなかった。お嬢様のことは、五年仕えてもわからないことばかりだ。


窓の外に目をやった。


夕暮れの空の下に、帝都の輪郭が見え始めていた。城壁の向こうに、宮殿の尖塔が夕日を受けて光っている。街道沿いには、等間隔に街路灯の柱が立っていた。まだ灯りは入っていない。でも柱はもう立っている。結婚式の夜を照らすために。


膝の上の箱を、そっと抱き直した。


結婚式まで、あと少し。


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