第143話 結婚式の裏側:音を刻む〜ヨハン視点〜
※作者の趣味で科学蘊蓄が延々と続きます。興味ない方は遠慮なく飛ばしてください。
※本作に登場する科学技術は実際の科学に基づいています。
「結婚式で、遠くにいる人の声を流したいの」
師匠がそう言い出したのは、電球の量産が軌道に乗り始めた頃だった。
遠くにいる人の声。
「遠くにいる人の声……電話じゃ駄目なんすか?」
電話なら、もうある。執務室と研究室を繋いだあの装置。声を電気に変えて、電線で送って、向こう側で音に戻す。リアルタイムで声が届く。
「電話は他国に対しては秘密よ。軍事機密」
師匠がきっぱり言った。
「結婚式には各国の要人が来るでしょう? 電話の存在が知られたらどうなると思う?」
離れた場所からリアルタイムで命令を出せる──戦場でそれができる国と、できない国。その差がどれほどか、俺でもわかる。
「自分から軍事的に有利な技術をネタバラシして、不利になるなんて愚か者のすることだわ」
……確かに。それは切り札だ。見せていい技術じゃない。
「──それに、電話では『保存された声』にならない。保存を見せるの」
「保存……音を、保存する?」
保存。声を保存するなんて、考えたこともなかった。
声は口から出たら消える。当たり前のことだと思っていた。手紙は文字で残る。絵は紙に残る。だが声は、空気に溶けて消える。それが声というものだろう。
「音は振動でしょう?」
師匠の言葉に、俺は頷いた。音は空気の振動だ。それは前に教わった。太鼓の革が震えて、砂が跳ねて──あの授業を、俺は忘れていない。
「振動を形にして残せば、もう一度鳴らせる」
形にして残す。
振動を。
俺は一瞬黙って、それから頭の中で繋がった。
振動には形がある。速いか遅いか。大きいか小さいか。それが音の高さと大きさを決めている。なら──その形を、何かに写し取れば。
「……なるほど。振動のパターンを、物に刻めってことすか」
「そうよ。やり方を教えるわ」
◆
師匠が紙に図を描いた。
「まず、声を出す。声は空気の振動。振動が薄い膜を震わせる。ここまではマイクと同じ」
マイクの原理は知っている。薄い板が声の振動を受けて震える。
「膜に針を付けるの。膜が震えれば、針も一緒に動く」
「針……」
「針の先に、蝋の円盤を回しておく」
師匠が描いた図は単純だった。回転する円盤。その上に乗った針。針は膜に繋がっていて、声の振動に合わせて上下に動く。円盤が回っている間に針が動けば、蝋の表面が削れる──振動が、溝として記録される。
「円盤が回る。針が動く。蝋に溝が刻まれる。──溝の形が、振動のパターンそのものよ」
俺は図を見つめた。
声が膜を揺らし、膜が針を揺らし、針が蝋を削る。蝋に残った溝の凹凸が、振動の形。速い振動なら細かい波。遅い振動なら緩やかな波。大きい声なら深い溝。小さい声なら浅い溝。
全部が、溝に残る。
「音の形を、溝として残す……!」
声が出た。
「再生は逆の手順よ」
師匠が図に矢印を書き足した。逆向きの矢印。
「溝に針を落とす。円盤を回す。針が溝の凹凸に沿って動く。針が膜を揺らす。膜が空気を揺らす。──音が鳴る」
録音と再生。逆にするだけ。同じ仕掛けで、入力と出力が入れ替わる。
「マイクとスピーカーと同じ原理っすね。電気を使わないだけで」
「そう。一つの原理で十に応用が効く」
「また言ってる」
師匠が少しだけ口角を上げた。何度聞いても、この人は嬉しそうにこれを言う。
◆
おっさんの工房に図面を持ち込んだ。
蝋の円盤。振動膜。針。回転機構。部品の一覧を渡すと、おっさんは渋い顔で図面を睨んだ。
「……小僧、この円盤ってのは手で回すのか」
「最初はそれでいいと思う。速度が一定なら問題ない」
「手回しで一定なんて無理に決まってんだろ」
「まあ、まず試作っすよ。動くかどうかが先だ」
おっさんは鼻を鳴らしたが、手は動き始めていた。蝋を型に流して円盤を作り、薄い革で膜を張り、針を研いで取り付ける。回転の軸は木と金属で組んだ。
半日で、試作機ができた。
見た目は素朴なもんだった。木の台座に蝋の円盤が乗っていて、横にラッパ型の集音器。その奥に膜と針がある。ハンドルを回すと円盤が回る。
「やってみるか」
俺はハンドルを回し始めた。おっさんがハンドルを引き継いだ。
「一定に回せよ」
「わかってるよ」
俺は集音器に顔を近づけた。
「あー──」
間の抜けた声だった。針が蝋の上を滑り、かすかに音を立てている。円盤が一周。二周。三周。
「よし、止めろ」
おっさんがハンドルを止めた。
蝋の円盤を覗き込む。表面に細い溝が刻まれていた。螺旋状に、一本の線が走っている。
「再生してみる」
針を溝の始まりに戻した。ハンドルを回す。
──ノイズだらけの、割れた音が膜から漏れた。
ざらざらと擦れるような雑音の向こうに、かすかに聞こえる。
「あー──」
俺の声だ。
歪んでいる。割れている。ノイズまみれだ。でも確かに「あー」と聞こえる。蝋の溝から、俺の声が出てきている。
「すげえ……俺の声が、残ってる」
鳥肌が立った。声は消えるものだ。口から出た瞬間に空気に溶けて、二度と戻らない。それが──蝋に刻まれて、もう一度鳴っている。
「……気味が悪いな」
おっさんが呟いた。腕を組んで、渋い顔をしている。
まあ、わからんでもない。声が蝋から出てくるなんて、初めて見たら不気味だろう。
「おっさんも何か言ってみてくださいよ」
「はあ?」
「いいから、ここに向かって喋ってください」
新しい円盤を載せた。おっさんは面倒そうに集音器に近づいた。
「……何を言やあいいんだ」
「何でもいいっすよ」
おっさんが黙った。しばらく考えて──
「うるせえ」
それだけ言った。
俺は笑いを堪えながら円盤を止め、針を戻し、ハンドルを回した。
ノイズの向こうから──
「うるせえ」
おっさんの声だ。あの低くて太い、ぶっきらぼうな声が、蝋の溝から蘇った。
「ガハハ! おっさんの声だ!」
「……」
おっさんが黙った。だがその耳が、わずかに赤くなっていた。
「もう一回聞きます?」
「聞かねえよ」
音は出た。だが品質は散々だった。
問題点を洗い出す。師匠が指を折った。
「一つ目。蝋が柔らかすぎる。針が深く食い込みすぎて、再生時に溝が潰れている」
「硬い蝋に変えればいいんすか」
「ええ、蜜蝋にパラフィンを混ぜなさい。硬くて滑らかな表面になるわ」
おっさんが配合を変えた。何度か試して、針が滑らかに走る硬さを見つけた。
「二つ目。回転速度がバラつく。手回しでは一定にならない」
これは致命的だった。録音時と再生時で回転速度が違えば、音の高さが変わってしまう。速く回せば甲高くなり、遅く回せば低くなる。
「ゼンマイだな」
おっさんが即答した。
「巻いたバネが戻る力で軸を回す。速度を一定にする調速機もつける」
時計と同じ原理だ。おっさんは時計の機構にも詳しい。以前も師匠の無茶振りでゼンマイ機構を作ったことがある。今回も歯車と調速機を組み合わせた駆動装置を、二日で仕上げた。
ハンドルを回してゼンマイを巻く。手を離すと、円盤が一定の速度で回り始めた。滑らかに、淀みなく。
「三つ目。針が太すぎる。細かい振動を拾えていない」
おっさんが針を研ぎ直した。何度も研いで、先端を限界まで細くした。
改良するたびに、音が変わった。
一回目の改良。ノイズが減った。
二回目の改良。音程がぶれなくなった。
三回目の改良。言葉がはっきり聞き取れるようになった。
最終版。俺は何を録音しようか考えて──歌を歌うことにした。
酒場で覚えた歌だ。調子っぱずれなのは自覚している。だが声が大きいのだけが取り柄だ。
「あー──」
おっさんが露骨に顔を歪めた。師匠は無表情のままだった。
録音を終え、針を戻し、再生した。
部屋に俺の歌声が響いた。はっきりと。歌詞が聞き取れる。音程も──まあ、元が狂っているので再現も忠実に狂っているが──ちゃんと録れている。
「歌はともかく、音質は十分ね」
師匠が言った。
「歌はともかくって何すか!」
「事実を述べただけよ」
おっさんが横で肩を震わせていた。笑いを堪えているのがバレバレだった。
音は録れるようになった。だがまだ問題がある。
「音が小さいっす」
蝋の溝から出る音は、膜の振動だけだ。耳を近づければ聞こえるが、部屋の隅までは届かない。結婚式の大広間で使うなら、まるで足りない。
「スピーカーに繋ぐわよ」
師匠が言った。
スピーカー。電話の時に作った、電気を音に変える装置だ。
「レコードの針が膜を揺らすでしょう? その振動をマイクで拾って電気信号に変える。電気信号を増幅して、スピーカーに送る。スピーカーが大きな音を出す」
レコードからマイクへ。マイクからスピーカーへ。全部、振動を受け渡しているだけだ。最初は蝋の溝。次は膜。次は電気。最後にまた膜。媒体が変わるだけで、やっていることは同じだ。
おっさんがスピーカーを持ってきた。電話用に作った試作品だ。レコードの膜にマイクを近づけ、電線でスピーカーに繋ぐ。
「いくぞ」
ゼンマイを巻いて、針を落とした。
──キィィィン、と耳障りな音が部屋を突き刺した。
「うおっ!?」
俺とおっさんが同時に耳を塞いだ。スピーカーが拾った音をマイクがまた拾って、それをまたスピーカーが鳴らして──音がぐるぐる回って増幅されている。
「マイクとスピーカーが近すぎるのよ。離しなさい」
師匠が冷静に指示した。おっさんがスピーカーを部屋の隅に移し、マイクとの距離を取った。
もう一度。ゼンマイを巻き直して、針を落とす。
──部屋に、俺の歌声が響いた。
さっきまで耳を近づけなければ聞こえなかった音が、部屋全体に広がっている。壁に反響して、研究室の隅々まで届いている。
「おお……部屋全体に聞こえる」
「これで大広間でも十分よ」
師匠が満足げに頷いた。
俺は少し感動していた。音が振動で、振動が溝になって、溝が針を動かして、針が膜を揺らして、膜が電気になって、電気がスピーカーを鳴らす。一本の線のように、全部が繋がっている。
「パレードでは、これをもっと大きくして山車に載せるわ」
「山車って……祭りみたいっすね」
「祭りよ」
師匠がさらりと言った。
結婚式は祭り。電球で街を照らして、山車でレコードの音楽を流して、光と音のパレード。
なるほど。だからレコードが要るのか。生演奏では山車に楽団を乗せなければならない。レコードなら円盤を回すだけでいい。
「師匠、さっき電話は秘密って言ったじゃないですか」
「ええ」
「レコードは見せるんすか」
「見せるわよ。保存された音なら、電話の存在を疑われない。声を残せる装置があると知れば、人はそれ以上を想像しない」
持っているものを見せることで、持っていないように見せる。レコードを派手に披露すれば、誰も電話のことを考えない。保存を見せて、リアルタイムを隠す。
師匠は技術を見せる時でさえ、何を見せて何を隠すかを計算している。
「……師匠って、怖い人っすよね」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
師匠は紅茶を飲んだ。
俺はレコードの円盤を眺めた。蝋に刻まれた細い溝。この中に、俺の声が入っている。おっさんの「うるせえ」も入っている。
声が残る。消えずに、ここにある。
これを結婚式で使うのだと師匠は言った。遠くにいる人の声を流す。誰の声なのかは、まだ聞いていない。
だがこの装置で誰かの声を届けるのだと思うと、少しだけ楽しみだった。
レコード。音を刻む装置。
俺の歌はともかくとして──もっといい声を、録音しなければ。




