第139話 結婚式の裏側:光と真空〜ヨハン視点〜
※作者の趣味で科学蘊蓄が延々と続きます。興味ない方は遠慮なく飛ばしてください。
※本作に登場する科学技術は実際の科学に基づいています。
師匠の執務室に呼ばれた。エマさんもいた。
何の話かと思えば、結婚式の準備だった。
「各国の来賓が来るわ。帝国の力を印象づけたいの」
師匠がそう切り出した。
「──何かいい演出はないかしら」
俺は少し考えた。
「ダイナマイトで花火とか……」
「いやいや火事になったらどうするの」
即座に却下された。まあ、そうだろうな。火薬を祝いの場で使うのは流石にまずいか。
しばらく沈黙が続いた。師匠が紅茶を飲み、俺が腕を組み、エマさんがぼんやりと窓の外を見ている。
「……お嬢様、祝宴のあと、夜まで続きますよね」
エマさんが言った。
「ええ。各国の来賓を夜通しもてなすつもりよ」
「夜の帝都って、お月様が綺麗な日は通りが銀色に光って、とても素敵なんです。──あれが街中ぜんぶだったら、各国のお客様も驚くと思いません? 通りという通りが全部光って、まるでお伽話の……光の国みたいな」
一瞬の沈黙が落ちた。
師匠の目が変わった。
「──エマ、それよ」
「え?」
「帝都を光の国にするわ。目抜き通りを全部、光で満たす。夜なのに昼間のように明るい街。来賓が馬車の窓から見たら、帝都が光に包まれている」
エマさんが目を瞬かせた。
師匠は止まらなかった。
「──それだけじゃない。光が炊かれた山車で、大通りを練り歩くの」
「えれ……?」
「光るだけじゃない!電気の光で飾った山車が、楽しい音楽と一緒に通りを進むの。通りは一本ずつ光っていって、街全体が光に包まれる。──光のパレードよ! お伽話の国の住人もびっくりするくらいの!……ふふ、前にどこかで見た気がする」
「いえあの、私はただ素敵だなと……」
エマさんが困惑した顔で俺を見た。俺も同じ顔をしていたと思う。
前にどこかで見た。何を言っているんだ。この世界に電気の光なんてまだないのに。師匠がたまにこういうことを言う。ここではないどこかの記憶を、ぽろっと漏らすことがある。いつものことだ。
エマさんと目が合った。お互い、さっぱり分からないという顔だった。だが師匠の目はすでに別のところを見ている。こうなると止まらない。俺はよく知っている。
「ヨハン、電球──火を使わない光を作りなさい」
「火を使わない……?」
俺は首を傾げた。
「光って火じゃないのか?」
松明、蝋燭、ランプ。俺が知っている光は、全部火だった。火が燃えて、明るくなる。それ以外に光を作る方法があるのか。
「松明は煙が出るし、風で消える。火ではダメよ」
師匠がきっぱり言った。
「──火は酸化反応。光は別にもあるの」
師匠が机の上に銅線を置いた。細い銅線だ。
「電流を流しなさい」
俺は電池に繋いだ。銅線に電流が流れる。
「触ってみて」
「……熱い」
銅線が熱くなっていた。
「電流が流れると、金属の中の原子が振動するの。原子同士がぶつかって、エネルギーが熱に変わる。これを抵抗加熱というわ」
「抵抗加熱……」
「ここで三つの量を整理しましょう」
師匠が黒板に書き始めた。
「電圧は、電気を押す力。単位はボルト(V)。水路で言えば水面の高さの差ね。高いところから低いところへ水が流れるように、電圧が高いほど電気は強く押し出される」
「電流は、流れる電気の量。単位はアンペア(A)。水路を流れる水の量に当たるわ」
「抵抗は、流れにくさ。単位はオーム(Ω)。水路が細ければ水は流れにくい。銅線が細ければ電気も流れにくい」
「この三つには、単純な関係があるの。オームの法則というわ」
「電圧は、電流と抵抗の掛け算。抵抗が大きいほど、同じ電流を流すのに大きな電圧が要る。──逆に言えば、同じ電圧なら、抵抗が大きいほど電流は小さくなる」
俺は銅線を見た。さっき熱くなったのは、銅線に抵抗があって、そこを電流が通ったからだ。式にすると単純だが、指先の熱さと繋がると、すとんと腑に落ちた。
「では、さっきの熱はどれくらいの大きさかしら。──電力という量を定義するわ。Pで表す。一秒あたりに電気がする仕事の量で、単位はワット(W)よ。機械の仕事率と同じ単位なの」
「電気の力も、水車の力も、同じワットで測れるわ」
「力こそパワーだな」
「何を言っているの。──それはともかくとして、電圧と電流の掛け算になるの」
「ここにオームの法則を入れると──」
「電流の二乗かける抵抗。電流が大きいほど、抵抗が大きいほど、熱は強くなるわ」
俺はもう一度銅線を見た。さっきの熱さが、今は式で読める。電流が二倍になれば、熱は四倍になる。
「もっと細い線に、もっと強い電流を流したら?」
俺は想像した。細い線に大きな電流。抵抗が大きくなり、熱が集中する。もっと熱くなる。もっともっと熱くなれば──
「光る……のか?」
「そう。金属は高温になると光を放つ。赤く光り、もっと温度を上げれば白く光る。火を使わなくても、電気だけで光るわ」
すげえ。
電気で光を作る。松明もランプも要らない。風に消えない光。煙のない光。
「すげえ……電気でも光らせることができるのか」
「ただし、問題があるわ」
師匠がいつものやつを言った。この一言が来ると、たいてい厄介な話になる。
「空気中で金属を高温にすると、どうなる?」
「……酸素と反応する。燃える」
「そう。フィラメント──光る糸のことよ──が酸素に触れると、燃えて切れてしまう。一瞬で終わり」
せっかくの光が一瞬で消える。それでは意味がない。
「密封空間で空気を抜くの」
師匠がさらりと言った。
「空気を……抜く?」
俺は聞き返した。空気を抜く。その言葉の意味が、すぐには飲み込めなかった。
「容器の中の空気を全部抜き出す。何もない状態──真空よ」
真空。
何もない状態。
「何もない状態を作る……? それは──」
「酸素がなければ燃えない。燃えなければ、光り続ける」
師匠の理屈はいつも単純だ。だが単純なことほど、衝撃が大きい。
俺は黙り込んだ。
師匠は「ないもの」すら使う。
ダイナマイトでは化学反応を使った。テルミットでは酸素の奪い合いを使った。今度は──「何もないこと」を使う。
あるものを組み合わせるだけじゃない。ないものを作り出して、それを利用する。
「……すげえな、師匠」
「何が?」
「いや……何もないってことを武器にするのかって思って」
「武器じゃないわ。道具よ」
師匠は紅茶を一口飲んだ。
「さて、問題は真空をどうやって作るか。ギュンターのところへ行くわよ」
◆
おっさんの工房に着くと、いつものように炉の火が赤く燃えていた。
「何だ小僧、また何か──」
おっさんが俺の後ろを見て、口調を変えた。
「嬢ちゃんも一緒か。ってことは大きい仕事だな」
「ええ。あなたに直接説明したほうが早いと思って」
師匠が図面を広げた。
「空気を全部抜いた状態──真空を作りたいの」
「真空? 何だそりゃ」
おっさんが怪訝な顔をした。
「密封した容器の中から、空気を全部抜くの。中には何もない──空気すらない空間ができる。それが真空よ」
「何もねえ空間……? そんなもん作ってどうするんだ」
「電気で金属の糸を光らせたいの。でも空気の中だと酸素と反応して燃えてしまう。だから酸素のない空間──真空が要るのよ」
おっさんが腕を組んだ。
「理屈はよくわからんが必要そうなのはよくわかった。で、どうやって抜くんだ」
「スプレンゲルポンプというの。ガラス管の中に水銀を一滴ずつ落とす」
「水銀を?」
「水銀は重いでしょう? 管の中を落ちるとき、間に挟まった空気を一緒に押し出すの。一滴ずつ、一滴ずつ。何百回、何千回と繰り返すと、管の中の空気がどんどん減っていく」
「それで真空になるのか」
「完全な真空ではないけれど、十分に空気が薄い状態にはなるわ」
おっさんが図を覗き込んだ。
「ガラス管か。──細い管の中に水銀を落とす仕掛け。繊細な仕事だな」
「ガラス管なら俺の領分だ」
おっさんが腕まくりをした。工房の奥からガラスの素材を引っ張り出す。
炉の火にガラスを翳し、柔らかくなったところを吹いて、延ばして、曲げる。おっさんの手つきは正確だった。太さが均一な細い管。分岐点。水銀を溜める球。全てが図面通りに形になっていく。
おっさんがガラスを吹くところを見るたびに思う。師匠の理論を形にできるのは、この人しかいない。
俺が理屈を理解しても、おっさんの手がなければ何も作れない。設計図は紙の上にしかない。それを現実に引っ張り出すのは、いつもこの人の腕だ。
「……できたぞ」
おっさんが完成したポンプを机に置いた。透明なガラスの管が複雑に組み合わさった、繊細な装置だった。
「ありがとう、おっさん」
「礼はいい。動くかどうかはこれからだろ」
水銀を入れて試す。一滴、二滴、三滴。管の中を銀色の滴が落ちていくたびに、小さな空気の泡が押し出されていく。
地味な作業だった。だが、確実に何かが起きている。一滴落とすたびに、泡が一つ抜ける。
「──どうやって確かめるんだ? 空気が抜けたかどうか」
おっさんが聞いた。もっともな疑問だ。空気は目に見えない。抜けたかどうかも見えない。
師匠がU字型のガラス管を持ってきた。中に水銀が入っている。U字の底に水銀が溜まり、左右の管で同じ高さになっている。
「気球のとき、空気には重さがあるって話をしたでしょう?」
「ああ。空気の重さが気圧になるんだって」
「そう。この管の片方を真空容器に繋ぐの。もう片方はそのまま、大気に開放しておく」
師匠が管の片方を真空容器に繋いだ。
「開放されている側には大気圧がかかっている。空気の重さが水銀の表面を押す。でも容器側は? 空気を抜いたのだから、押す力が弱い」
「……片方だけ押されるから、水銀が動く」
俺は気づいた。
「そう。大気側の水銀が押し下げられて、容器側にせり上がる。この左右の高さの差が、そのまま『どれだけ空気が抜けたか』を示すの」
見ていると、本当にそうなった。ポンプで空気を抜くたびに、開放側の水銀がじわりと下がり、容器側が少しずつ上がっていく。
「大気圧のとき水銀柱の差はおよそ760ミリメートル。これが最大よ。容器の中が完全な真空なら、760ミリメートルの差になる。今は──」
師匠が目盛りを読んだ。
「──720。まだ足りないわ。続けなさい」
俺は水銀を落とし続けた。一滴、また一滴。泡が減っていく。水銀柱の差が、少しずつ760に近づいていく。
目に見えないものが、銀色の柱の高さになって現れている。
何もない空間が、一滴ずつ作られていく。水銀の柱が、それを静かに証明している。
◆
真空の容器ができた。次はフィラメントだ。
真空の中で光る「糸」を探す。
最初に金属線を試した。細い鉄線をガラス球に封入し、真空に引いて電流を流す。光った。だがすぐに切れた。
「温度が高すぎるのよ。鉄では融点が足りないわ」
次に白金を試した。高い融点を持つ金属だ。光った。前より長く持った。だがやはり切れた。
「白金でも足りない?」
「足りないわね。もっと別のアプローチが要るわ」
師匠が言った。
「植物の繊維を炭にしてみなさい」
「炭?」
「炭素は融点が極めて高い。金属よりずっと高いの。植物の繊維を高温で焼いて、炭素だけを残す。それをフィラメントにする」
俺は竹を切ってきた。竹の繊維は細くて丈夫だ。
繊維を削り出し、密閉した容器に入れて加熱する。空気を遮断して焼くことで、炭素以外の成分が飛ぶ。残るのは、真っ黒で細い炭の糸だ。
「折れやすいな……」
少し力を入れると、すぐに折れた。炭化した竹の繊維は脆い。何本も何本も作った。太すぎるものは抵抗が低くて光らない。細すぎるものは折れる。長すぎるものはガラス球に入らない。短すぎるものは電流の経路が足りない。
一本目。折れた。
五本目。太すぎて光らなかった。
十本目。封入中にひびが入った。
十五本目。光ったが、三秒で切れた。
二十本目。封入に成功。電流を流す。光った。十秒で切れた。
「師匠、二十三本目も切れました」
「二十四本目を作りなさい」
師匠は紅茶を飲みながら言った。表情一つ変えない。
俺は竹を削った。おっさんがガラス球を吹いた。師匠がマノメーターの水銀柱を確認した。
三人で黙々と作業を繰り返した。
二十四本目。二十五本目。二十六本目。
竹を焼く匂いが研究室に染みついた。
◆
三十一本目だった。
炭化させた竹の繊維を、慎重にガラス球の中に封入する。スプレンゲルポンプで空気を抜く。水銀の滴が落ちる音だけが、静かな研究室に響いている。
夜だった。窓の外は暗い。
「──760に近いわ。十分ね」
師匠が言った。
俺は電線を繋いだ。手が少し震えていた。三十回の失敗が、体に染み付いている。
電流を流す。
──光った。
ガラス球の中で、細い糸が橙色に輝いている。
揺れない。
煙がない。
音がない。
静かな光だった。
松明のように揺らめかない。蝋燭のように風に怯えない。ただ静かに、ガラスの中で光っている。
「……すげえ」
声が出た。
おっさんも黙って見つめていた。腕を組んだまま、一言も発しない。
光は消えなかった。一分。二分。三分。
俺たちは三人とも、その小さな光を見つめていた。誰も口を開かなかった。
何もない空間の中で、炭の糸が光っている。
真空が酸素を遠ざけ、炭素が高温に耐え、電気が熱を生み続ける。三つの条件が揃って初めて、この光は存在する。
──五分が過ぎた頃、フィラメントがふっと暗くなり、消えた。
静かだった。燃え尽きる音すらしない。ただ消えた。
「数分ね」
師匠が言った。
「結婚式は夜通し続くわ」
「……もっと長く持たせないといけないのか」
「そう。そしてもっと明るく」
師匠がガラス球を手に取った。中には切れたフィラメントの残骸が見える。
「──素材を変えるわよ」
師匠の目は、もう次を見ていた。
数分で消えた。だがあの光は、俺の目に焼き付いている。
火のない光。風に揺れない光。煙のない、静かな光。
あの光が夜通し灯ったら──帝都の通りという通りが、あの光で満たされたら──
それはきっと、本当に光の国だ。
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