第140話 結婚式の裏側:熱で測る〜ヨハン視点〜
※作者の趣味で科学蘊蓄が延々と続きます。興味ない方は遠慮なく飛ばしてください。
※本作に登場する科学技術は実際の科学に基づいています。
「──素材を変えるわよ」
あの夜、師匠はそう言った。
炭素フィラメントは五分で切れた。数分の光では、夜通しの祝宴には足りない。もっと高温に耐える素材が要る。
「タングステンよ」
師匠が俺の鉱物標本から一つを取り上げた。黒っぽい、地味な石。鉄マンガン重石。俺が十年前に拾った石の一つだ。
「この中にタングステンという元素が含まれているの。融点は3400度。あらゆる金属の中で最も高い」
「3400度……鉄の倍以上じゃないか」
「ええ。だからフィラメントに使えば、炭素よりずっと明るく、ずっと長く光るわ」
すげえ。3400度で融ける糸。そんなものが光ったら、あの炭素の橙色とは比べものにならないだろう。
「でも師匠、そんな温度のもの、どうやって加工するんだ」
「加工するには1700度くらいまで加熱する必要があるわ」
1700度。途方もない数字だ。だが加工はできるということだ。問題は──
「──今、炉の温度をどうやって測っている?」
師匠が聞いた。
「おっさんが色で見てる。赤ならまだ、白に近づいたら頃合いだって」
「それは何度?」
「……正確にはわかんねえ」
「1680度と1720度の違いを、目で見分けられる?」
「……無理だ」
俺は即答した。おっさんの目は確かだ。だが40度の差を、目の色だけで見分けるのは人間の限界を超えている。
「タングステンは温度が少しでもずれると脆くなって折れるわ。高すぎても低すぎてもダメ。目ではなく、数字で温度を測る道具が要る」
師匠は本番の前に必ず道具を整える。電球の前に真空ポンプを作ったように──今度は、タングステンの前に温度計を作るということか。
「1700度を測れる温度計を、まず作りなさい」
師匠はそう言って、紅茶を一口飲んだ。
◆
実験台に二種類の金属線を並べた。銅と鉄だ。
師匠の指示はこうだった。二本の線を、両端でねじって繋ぎ合わせる。閉じた輪にする。電池は繋がない。
「片方の接合点を加熱しなさい」
俺は蝋燭を持ってきて、片方の接合部に炎を当てた。
もう片方の接合部の近くに、電流計を繋いである。電池は繋いでいない。電流が流れるはずがない。
──針が振れた。
「……は?」
目を疑った。電流計の針が、わずかだが確かに振れている。
電池は繋いでいない。電解液もない。金属線を二本ねじっただけだ。なのに電流が流れている。
「し、師匠! 電池がないのに電流が流れてる!」
「そう。それがゼーベック効果よ」
師匠は驚きもしなかった。知っていたのだ。最初から。
「二種類の金属を繋いで温度差をつけると、電圧が生まれるの」
「温度差が……電圧に?」
「金属の中には自由電子がいるでしょう? 温かい側では電子が活発に動いて、冷たい側に移動しようとする。その移動の度合いが金属の種類によって違うの」
「種類によって違う……」
「銅の電子と鉄の電子では、温度に対する反応が違う。二つを繋ぐと、差し引きでネットの電流が流れるのよ」
師匠が紙を取り出して、式を書いた。
「Vが起電力。Sᴀ(T)とSʙ(T)がそれぞれの金属のゼーベック係数──電子の散らばりやすさを表す数値よ。これが温度によって変わるから、T₁からT₂まで足し合わせるの」
俺は式を見つめた。SとかTとかは分かる。だがこの長いSの字みたいな記号は何だ。
「……師匠、この、にょろっとしたやつは何だ」
「積分よ。足し算の親戚だと思えばいいわ。──いずれ教えるから、今は結論だけ覚えなさい」
結論だけ、と言われると悔しいが、分からないものは分からない。
「要するに──SᴀとSʙが違えば電圧が出る。同じなら出ない。温度差がなくても出ない。合ってるか?」
「合っているわ。二種類の金属と温度差、両方揃って初めて電圧が生まれるの」
式の全部は読めない。だが言いたいことは分かった。同じ金属同士では差がゼロだから電圧が出ない。温度差がなければやっぱり出ない。
俺は電流計を見つめた。蝋燭の炎が揺れるたびに、針も僅かに揺れる。温度が変わると、電圧が変わる。
「ボルタ電池みたいなもんか?」
「似て非なるもの。電池は化学反応──イオン化傾向の差で電流を生むでしょう? これは温度差。電解液もいらないし、原理的には消耗もしないわ」
電池は酸と金属の化学反応だ。亜鉛が溶けて、電流が生まれる。使えば減る。
こっちは熱だ。金属は溶けない。温度差がある限り、ずっと電圧が出る。
同じ「電流が流れる」でも、原因がまるで違う。師匠はいつも「なぜ起きるのか」を分けて考える。俺はまだ、その癖が身についていない。
「そして──温度が上がれば電圧も変わる。つまり?」
「……電圧を測れば、温度がわかる」
「そういうこと。温度を電気に変換するの。これが高温温度計の原理よ」
温度を、電気に変換する。
目に見えない熱を、電流計の針の振れに変える。数字にする。
これなら、1680度と1720度の違いが見える。
◆
問題は素材だった。
「銅と鉄の組み合わせでは、せいぜい数百度までしか測れないわ」
師匠が言った。
「1700度に耐えるには、その温度で融けない金属が要る。白金の合金を使うわよ」
「白金……あの、融点が1768度の」
「そう。ただし純白金では1768度で融けるから、1700度の炉に入れたらぎりぎりで危ない。だから融点を上げるの」
師匠が俺を見た。
「──ギュンター、白金を精錬したときの残渣、まだある?」
おっさんの工房に来ていた。おっさんが棚の奥から木箱を引っ張り出す。
「捨てるなって言われたから取ってあるが……このカスに何かあるのか」
「宝が眠っているのよ」
師匠が木箱の中を覗いた。灰色の粉末。王水にも溶けなかった、白金精錬の残りカスだ。
「ロジウムという元素が含まれているわ。白金鉱石に少量含まれていて、白金を精錬するときに残渣として残るの」
「ロジウム……聞いたことねえな」
「当然よ。まだ誰も単離したことがないもの」
師匠がさらりと言った。おっさんが眉を上げた。
「このロジウムを白金に混ぜると、融点が上がるの。白金単体では1768度。でもロジウムを30%混ぜれば1900度以上になるわ」
「1900度……それなら1700度の炉に入れても平気だ」
「そういうこと」
師匠の指示に従い、俺はロジウムの分離に取りかかった。
師匠が手順を紙に書いた。四段階ある。
まず第一段階。残渣をアルカリで融かす。苛性ソーダと過酸化ナトリウムの混合物に残渣を加えて、高温で融解する。
ロジウムの酸化物が、ナトリウムと結びついて水に溶ける形に変わる。王水に溶けなかった頑固な金属が、アルカリの力で開く。
第二段階。冷めたら塩酸で処理する。
塩化ロジウムという形で溶液に溶け出す。ここまで来れば、溶液の中にロジウムがいる。
第三段階。塩化アンモニウムを加える。
ロジウムだけがアンモニウム塩として沈殿する。他の不純物は溶液に残る。沈殿を濾し取れば、ロジウムの化合物だけが手に入る。
最後に第四段階。水素で還元する。
電気分解で出てくる水素を使って、塩化物から金属に戻す。
工程は多いが、一つ一つの操作は基礎化学の延長だ。アルカリ融解、塩酸処理、沈殿分離、水素還元──全て師匠に教わった技術の組み合わせでしかない。
それでも三日かかった。
最後の還元が終わったとき、るつぼの底に小さな塊が残っていた。
銀白色の、親指の爪ほどの金属片。
「これが……ロジウム」
「ええ。白金鉱石の中にほんの数%しか含まれていないから、この量でも十分よ。大事に使いなさい」
おっさんが覗き込んだ。
「……あのカスの中に、こんなもんが入ってたのか」
「科学では、残りカスの中に宝が眠っていることがあるのよ」
師匠がそう言った。おっさんが苦笑した。
「……捨てなくてよかったな」
◆
ロジウムと白金を合金にする。
師匠の指示で、二種類の合金線を作った。
一つはロジウムを30%含む白金-ロジウム合金。もう一つはロジウムを6%だけ含む白金-ロジウム合金。
「なんで両方とも合金なんだ? 片方は純白金でいいんじゃ」
「純白金は1768度で融けるでしょう。1700度の炉に入れたら融ける寸前よ。危なくて使えないわ。両方ともロジウム入りにすれば、どちらの線も融点が上がる」
「でも、両方とも同じ合金だったら──同じ金属同士だと電圧が出ないんじゃないのか?」
「よく分かってるわね。だからロジウムの含有率を変えるの。30%と6%。含有率が違えば電子の挙動も違うから、ゼーベック係数に差が出る」
同じ白金-ロジウム合金でも、混ぜる比率を変えるだけで別物になる。しかも同系統の合金だから、高温で長時間使っても接合部が壊れにくい。
「よく考えてあるんだな……」
「当然よ」
師匠はそれだけ言って、次の指示に移った。
「校正するわよ」
校正。つまり、電圧と温度の対応表を作ることだ。
まず沸騰する水に熱電対の先端を入れた。100度だ。電流計の値を読む。
「0.03ミリボルト……ほとんどゼロに近いな」
「ええ。この合金の組み合わせは、低温域ではほとんど電圧が出ないの。高温で真価を発揮するのよ」
次に錫を融かした。融ける瞬間の温度は決まっている。232度。電圧を読む。
鉛の融点、327度。電圧を読む。
銀の融点、962度。電圧を読む。
金の融点、1064度。電圧を読む。
融点が分かっている金属を一つずつ融かして、その瞬間の電圧を記録していく。地味な作業だった。だが一点ずつ、表が埋まっていく。
「師匠、この電圧と温度の関係って数式にできないのか? 他の物理量みたいに、きれいな式があるんじゃ」
「ないわ」
師匠が即答した。
「きれいな式にはならないの。実測値を表にして、間を補間するしかない」
「……理論式がない科学なんてあるのか」
師匠がこちらを見た。
「あるわよ。自然は人間の数式に合わせてくれないの」
少し間があった。
「──だから測るのよ。理論が届かない場所は、実測で埋める。それも科学よ」
師匠がそう言うのは珍しかった。
いつもは理論で全部説明できるような顔をしている人だ。「なぜ」を問えば必ず答えが返ってくる。それが師匠だった。
でも今日は違った。「きれいな式にはならない」と、はっきり言った。
分からないことを分からないと言う。それも師匠が教えてくれた科学の姿勢だった。
◆
完成した熱電対を、おっさんの工房に持ち込んだ。
細い合金線が二本、先端で接合されている。見た目は何の変哲もない金属線だ。だがこの先端を炉に入れれば、反対側の電流計が温度を示す。
「実際の炉で試すわよ」
師匠が言った。
おっさんが炉に火を入れた。工房に慣れた熱気が広がる。
俺は熱電対の先端を炉の中に差し込み、反対側の電流計を見た。校正表を手元に広げる。
針が動き始めた。
「400……600……800……」
校正表の電圧と照らし合わせ、温度を読んでいく。
おっさんがちらりと炉の中を見た。
「色からすると、まだ橙だな。もう少しだ」
「1000……1200……1400……」
炉の中が白く輝き始めた。おっさんが目を細めた。
「白くなってきた。そろそろだろう」
「1500……1600……」
針の動きが緩やかになった。温度の上昇が鈍る。
「1680……」
おっさんが炉を覗き込んだ。
「1700」
「──ここだ」
おっさんが言った。
俺は電流計を見た。校正表の値と一致している。おっさんの目が「ここだ」と言い、俺の数字が「1700」と言った。
同じ瞬間に、同じ答えに辿り着いた。
しばらく、誰も喋らなかった。
おっさんが腕を組んで、電流計を見つめている。
「……なるほどな」
低い声だった。
「俺は目で見る。お前は数字で見ろ」
「……おう」
「目は騙される。数字は嘘をつかねえ」
おっさんが一拍置いた。
「──だが数字だけじゃ、炉の機嫌はわからねえぞ」
炉の機嫌。
多分、温度だけでは測れない何かだ。空気の流れ。燃料の状態。金属の色の、ほんのわずかな揺らぎ。職人が長年の経験で感じ取るもの。
数字はその一部を正確にしてくれる。だが全部じゃない。
おっさんの目と、俺の数字。両方あって初めて、1700度を正確に扱える。
「これで1700度を管理できるわ」
師匠が言った。
「道具は揃った。──次はタングステンよ」
師匠の目は、もう次を見ていた。いつもそうだ。一つ終わると、もう次の壁に向かっている。
だが今回は、俺も同じ方向を見ていた。
1700度が数字で見える。おっさんの目がそれを裏打ちする。あとは──あのタングステンを、糸のように細く引き延ばすだけだ。
「やるぞ」
俺は立ち上がった。




