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私はメイドです!〜お嬢様の世界征服に巻き込まれた哀れな日々〜  作者: ほしみん
第二章 大陸征服

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第138話 屋根の上〜ナタン視点〜

帝都中が騒いでいた。


結婚式だ。皇帝カール陛下と皇后シャルロッテ殿下の結婚式。帝都の大通りが人で埋まっている。宮殿の方角から音楽が聞こえる。太鼓と笛。祝いの曲だ。


俺は屋根の上にいた。


祝いの席というのは疲れる。笑顔でいるのは、思ったより体力を使う。夜風が、首の後ろを冷ましてくれた。


酒場の裏手から外壁を登って、瓦屋根の上に出た。学院の近くの三階建ての建物だ。ここからなら大通りが見渡せる。人混みに入るのは好きじゃない。高いところから眺めるほうが性に合っている。


それに、酒場が休みだ。今日は帝都中の店が早じまいしている。結婚式のパレードを見るために、店主も客も通りに出てしまった。俺のいつもの席は空っぽだ。


いつもの席が空っぽだと、なんとなく落ち着かない。


月が出ていた。空が澄んでいる。春の夜だ。


屋根の上に、先客がいた。


「……お前かよ」


レオだった。


壁に背を預けて座っている。膝を抱えて、大通りの方角を見ていた。


「……」


こっちを見もしない。いつもなら「勝手にしろ」くらいは言うのだが、今日は無言だった。


俺は隣に座った。瓦が冷たい。尻が痛い。


「お前も見に来たのか。皇帝陛下の結婚式」


「……たまたまだ」


嘘だ。この屋根に「たまたま」登る人間はいない。外壁のどこに足をかければいいか、知っていなければ登れない場所だ。


「俺もたまたまだ」


俺も嘘をついた。レオは何も言わなかった。


「……酒場、休みだったな」


「……ああ」


「お前も行ったのか」


「……閉まっていた」


「だよな。俺も行った。閉まってた」


二人とも、結婚式の日に酒場に行っていた。帝都中が祝いムードの中、いつもの席に座ろうとして、閉まっていた。


「……お前、酒場が閉まってて、それで屋根に来たのか」


「……違う」


「じゃあなんで来たんだよ」


「……たまたまだと言った」


「お前さ、嘘つくの下手だよな」


「……お前もだ」


それは否定できなかった。





宮殿の方角が明るかった。窓から漏れる光が夜空に滲んでいる。


「……豪勢だな」


「ああ」


「あの光、何だろうな。蝋燭じゃないだろ。明るすぎる」


「……分からん」


結婚式の晩餐が終わったのだろう。宮殿の光が動いた。バルコニーの方角が明るくなった。来賓が外に出たのかもしれない。


遠くて見えない。ここからでは宮殿の影しか分からない。だが音は聞こえる。人の声。ざわめき。何かを待っているような空気。


「なあ、結婚式って行ったことあるか」


「……ない」


「俺もない。故郷じゃ結婚式は三日三晩やるんだけどな。踊って、歌って、食って」


「……三日は長いな」


「そうか? 楽しいぞ。酒が飲み放題だし。花嫁の親が全部出すんだ」


「……それは花嫁の親が気の毒だな」


「はは、まあな」


レオが少しだけ口元を緩めた。笑ったのだと思う。この男の笑いは小さすぎて、よく見ていないと見逃す。


「お前の故郷の結婚式はどうなんだ」


「……質素だ。誓いの言葉を交わして、剣を交差させて、終わりだ」


「剣? 結婚式に剣を持ち込むのか」


「……武人の国だから」


「物騒だな」


「……お前の国の三日三晩の宴の方が胃に悪い」


「それは否定できない」


故郷の話をしている。いつもはしない話だ。出身地は「遠い田舎」で止めている。それ以上は聞かない。聞かないのが俺たちのルールだ。


でも今日は少しだけ、境界線がにじんでいた。祝いの夜だからかもしれない。屋根の上だからかもしれない。酒場が閉まっていたからかもしれない。


「……お前、結婚とかするのか。いつか」


「……考えたことがない」


「俺もだ。故郷に帰れないのに、誰と結婚するんだって話だよな」


「…………」


「あ、いや。変な意味じゃなくて」


「……何が変な意味だ」


「いや、だから——」


「……別に変な意味には取っていない」


「そうか。よかった」


よかったのか? 何がよかったのか自分でも分からなかった。


レオが杯を——いや、今日は杯がない。酒場が閉まっているから。代わりに水筒を持ってきていた。水筒の蓋を開けて、一口飲んだ。


「……飲むか」


水筒を差し出された。レオから何かを差し出されたのは初めてだった。酒場ではいつもレオが杯を用意しているが、あれは「余った」という体だ。今回は違う。はっきりと「飲むか」と聞いている。


「……ああ。もらう」


水筒を受け取った。口をつけた。ただの水だった。


同じ水筒で水を飲んでいることに、後から気づいた。気づいてしまったら妙に意識してしまって、水の味が分からなくなった。


レオは何も気にしていないようだった。……本当に気にしていないのか、気にしていないふりをしているのか、この男は分からない。




俺たちは待っていた。何を待っているのかは分からないまま。


音楽が変わった。太鼓のリズムが速くなった。


大通りに、光が灯った。


一つ。二つ。三つ。


等間隔に並んだ鉄の柱の先端が、白く輝き始めた。火ではない。炎の揺れがない。風が吹いても消えない。まっすぐな白い光が、大通りを端から端まで照らしていく。


一本ずつではなかった。一斉に灯った。大通り全体が、一瞬で昼のように明るくなった。


沿道から歓声が上がった。悲鳴に近い声もあった。笑い声もあった。子供が泣いている声も。光を見て泣いているのだ。


俺は動けなかった。


見たことがない。こんなものは。火でも魔法でもない。何なのか分からない。だがこの光は——


レオも動かなかった。隣で、膝を抱えたまま、光を見ていた。


光の中を、馬車が通った。馬車自体にも電灯が取り付けられている。光を纏った馬車だ。闇の中を、光の塊が進んでいく。沿道の人々が手を振っている。花びらが舞っている。光と花と音楽。まるで夢の中の行列だった。


綺麗だった。


綺麗だった。


だが——


「……すごい国だな」


レオが呟いた。あの夜と同じ言葉だった。初めて会った酒場で、戦勝の話を聞いた時と同じ。


「……ああ」


今度は俺が短く返す番だった。


城壁が溶けた。見えない矢で敵を倒した。死者ゼロで戦争を終わらせた。——あの時は、噂だった。酒場の噂話だった。


今、目の前にある。


この光は噂ではない。帝都の大通りを埋め尽くしている。何千人もの人間が見ている。技術だ。帝国が作った技術だ。火でも魔法でもない、新しい何かだ。


これが——祖国に向いたら。


あの夜と同じ恐怖が、同じ場所に戻ってきた。




光のパレードは続いていた。


馬車が遠ざかっていく。大通りの光は灯ったままだ。消えない。風が吹いても、時間が経っても。あの光はずっとそこにある。


「……綺麗だな」


言ったのは俺だった。


レオは何も言わなかった。


「……なあ、レオ」


「……なんだ」


「あの光がさ、自分の国に向いたら——どうなると思う」


長い沈黙だった。屋根の上に風が吹いて、瓦がかすかに鳴った。


「……終わるだろうな」


短かった。だが正直な答えだった。レオが故郷の話を自分からしたのは、初めてだった。


「……だよな」


「……でもこれを国の人間に伝えても、分かってもらえないだろうな」


「……分かる」


レオが杯でも——いや、水筒でもなく、ただ膝を抱えたまま言った。


「……これはその場にいないと伝わらないものだ」


そうだ。この光を見ていない人間に、この恐怖は伝わらない。言葉で説明しても、数字を並べても。「城壁が溶けた」と聞くのと、目の前で光が灯るのとでは、まるで違う。


俺たちは見てしまった。見たから分かる。分かるから怖い。


そして——それを共有できる相手が、隣にいる。


屋根の上で、二人で光を見ていた。綺麗で、怖い光だ。あの光を作った国に、俺たちは住んでいる。あの光の恩恵を受けている。留学生として。役人として。


だが俺たちの故郷には、この光はない。


もし帝国がこの光を——この技術を——他国に向けたら。城壁を溶かした力と同じだ。抵抗できない。故郷が、どうなる。


考えたくなかった。でも考えてしまった。レオも同じことを考えている。隣に座っていれば分かる。


「……帰ったほうがいいのかな」


「……帰って、何をする」


「分かんねえ。でも——」


「……俺はきっと──帰っても、何もできないだろう」


それは——俺もたぶん同じだ。


帰っても何もできない。この光に対抗する手段を、俺たちは持っていない。故郷に帰って「帝国はすごいぞ」と言ったところで、何も変わらない。


「……じゃあ、ここにいるしかないか」


「……ああ」


ここにいるしかない。借り物の居場所で、借り物の名前で。帰れない故郷のことを考えながら。


光のパレードが終わった。大通りの光はまだ灯っている。消えない光だ。


「……寒くないか」


「……別に」


嘘だ。レオの肩が少し震えている。春の夜とはいえ、屋根の上は風が吹く。


上着を脱いで、レオの肩にかけた。


「……何をしている」


「お前、震えてるだろ」


「……震えてない」


「嘘つくの下手だって言っただろ」


レオは上着を返さなかった。小さく「……ありがとう」と言った。今度は聞こえた。


レオが立ち上がった。屋根の端に立って、帝都を見下ろしている。風が金髪を揺らしていた。月明かりと電灯の光が混じって、不思議な色をしていた。


俺の上着を羽織ったまま、帝都を見下ろすレオの背中を見ていた。


「……降りるか」


「ああ」


屋根を降りた。裏路地に着地する。レオが上着を返そうとした。


「明日返せよ。酒場で」


「……酒場で」


「明日は開いてるだろ」


「……ああ」


レオは反対方向に歩いていった。俺の上着を着たまま。振り返らなかった。


明日、酒場に行く。レオが上着を返しに来る。杯が一つ余っている。今日のことには触れないだろう。触れなくていい。


屋根の上で、隣にいた。同じ光を見た。同じことを考えた。同じ水筒で水を飲んだ。


それだけで十分だ。


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