第138話 屋根の上〜ナタン視点〜
帝都中が騒いでいた。
結婚式だ。皇帝カール陛下と皇后シャルロッテ殿下の結婚式。帝都の大通りが人で埋まっている。宮殿の方角から音楽が聞こえる。太鼓と笛。祝いの曲だ。
俺は屋根の上にいた。
祝いの席というのは疲れる。笑顔でいるのは、思ったより体力を使う。夜風が、首の後ろを冷ましてくれた。
酒場の裏手から外壁を登って、瓦屋根の上に出た。学院の近くの三階建ての建物だ。ここからなら大通りが見渡せる。人混みに入るのは好きじゃない。高いところから眺めるほうが性に合っている。
それに、酒場が休みだ。今日は帝都中の店が早じまいしている。結婚式のパレードを見るために、店主も客も通りに出てしまった。俺のいつもの席は空っぽだ。
いつもの席が空っぽだと、なんとなく落ち着かない。
月が出ていた。空が澄んでいる。春の夜だ。
屋根の上に、先客がいた。
「……お前かよ」
レオだった。
壁に背を預けて座っている。膝を抱えて、大通りの方角を見ていた。
「……」
こっちを見もしない。いつもなら「勝手にしろ」くらいは言うのだが、今日は無言だった。
俺は隣に座った。瓦が冷たい。尻が痛い。
「お前も見に来たのか。皇帝陛下の結婚式」
「……たまたまだ」
嘘だ。この屋根に「たまたま」登る人間はいない。外壁のどこに足をかければいいか、知っていなければ登れない場所だ。
「俺もたまたまだ」
俺も嘘をついた。レオは何も言わなかった。
「……酒場、休みだったな」
「……ああ」
「お前も行ったのか」
「……閉まっていた」
「だよな。俺も行った。閉まってた」
二人とも、結婚式の日に酒場に行っていた。帝都中が祝いムードの中、いつもの席に座ろうとして、閉まっていた。
「……お前、酒場が閉まってて、それで屋根に来たのか」
「……違う」
「じゃあなんで来たんだよ」
「……たまたまだと言った」
「お前さ、嘘つくの下手だよな」
「……お前もだ」
それは否定できなかった。
◆
宮殿の方角が明るかった。窓から漏れる光が夜空に滲んでいる。
「……豪勢だな」
「ああ」
「あの光、何だろうな。蝋燭じゃないだろ。明るすぎる」
「……分からん」
結婚式の晩餐が終わったのだろう。宮殿の光が動いた。バルコニーの方角が明るくなった。来賓が外に出たのかもしれない。
遠くて見えない。ここからでは宮殿の影しか分からない。だが音は聞こえる。人の声。ざわめき。何かを待っているような空気。
「なあ、結婚式って行ったことあるか」
「……ない」
「俺もない。故郷じゃ結婚式は三日三晩やるんだけどな。踊って、歌って、食って」
「……三日は長いな」
「そうか? 楽しいぞ。酒が飲み放題だし。花嫁の親が全部出すんだ」
「……それは花嫁の親が気の毒だな」
「はは、まあな」
レオが少しだけ口元を緩めた。笑ったのだと思う。この男の笑いは小さすぎて、よく見ていないと見逃す。
「お前の故郷の結婚式はどうなんだ」
「……質素だ。誓いの言葉を交わして、剣を交差させて、終わりだ」
「剣? 結婚式に剣を持ち込むのか」
「……武人の国だから」
「物騒だな」
「……お前の国の三日三晩の宴の方が胃に悪い」
「それは否定できない」
故郷の話をしている。いつもはしない話だ。出身地は「遠い田舎」で止めている。それ以上は聞かない。聞かないのが俺たちのルールだ。
でも今日は少しだけ、境界線がにじんでいた。祝いの夜だからかもしれない。屋根の上だからかもしれない。酒場が閉まっていたからかもしれない。
「……お前、結婚とかするのか。いつか」
「……考えたことがない」
「俺もだ。故郷に帰れないのに、誰と結婚するんだって話だよな」
「…………」
「あ、いや。変な意味じゃなくて」
「……何が変な意味だ」
「いや、だから——」
「……別に変な意味には取っていない」
「そうか。よかった」
よかったのか? 何がよかったのか自分でも分からなかった。
レオが杯を——いや、今日は杯がない。酒場が閉まっているから。代わりに水筒を持ってきていた。水筒の蓋を開けて、一口飲んだ。
「……飲むか」
水筒を差し出された。レオから何かを差し出されたのは初めてだった。酒場ではいつもレオが杯を用意しているが、あれは「余った」という体だ。今回は違う。はっきりと「飲むか」と聞いている。
「……ああ。もらう」
水筒を受け取った。口をつけた。ただの水だった。
同じ水筒で水を飲んでいることに、後から気づいた。気づいてしまったら妙に意識してしまって、水の味が分からなくなった。
レオは何も気にしていないようだった。……本当に気にしていないのか、気にしていないふりをしているのか、この男は分からない。
俺たちは待っていた。何を待っているのかは分からないまま。
音楽が変わった。太鼓のリズムが速くなった。
大通りに、光が灯った。
一つ。二つ。三つ。
等間隔に並んだ鉄の柱の先端が、白く輝き始めた。火ではない。炎の揺れがない。風が吹いても消えない。まっすぐな白い光が、大通りを端から端まで照らしていく。
一本ずつではなかった。一斉に灯った。大通り全体が、一瞬で昼のように明るくなった。
沿道から歓声が上がった。悲鳴に近い声もあった。笑い声もあった。子供が泣いている声も。光を見て泣いているのだ。
俺は動けなかった。
見たことがない。こんなものは。火でも魔法でもない。何なのか分からない。だがこの光は——
レオも動かなかった。隣で、膝を抱えたまま、光を見ていた。
光の中を、馬車が通った。馬車自体にも電灯が取り付けられている。光を纏った馬車だ。闇の中を、光の塊が進んでいく。沿道の人々が手を振っている。花びらが舞っている。光と花と音楽。まるで夢の中の行列だった。
綺麗だった。
綺麗だった。
だが——
「……すごい国だな」
レオが呟いた。あの夜と同じ言葉だった。初めて会った酒場で、戦勝の話を聞いた時と同じ。
「……ああ」
今度は俺が短く返す番だった。
城壁が溶けた。見えない矢で敵を倒した。死者ゼロで戦争を終わらせた。——あの時は、噂だった。酒場の噂話だった。
今、目の前にある。
この光は噂ではない。帝都の大通りを埋め尽くしている。何千人もの人間が見ている。技術だ。帝国が作った技術だ。火でも魔法でもない、新しい何かだ。
これが——祖国に向いたら。
あの夜と同じ恐怖が、同じ場所に戻ってきた。
光のパレードは続いていた。
馬車が遠ざかっていく。大通りの光は灯ったままだ。消えない。風が吹いても、時間が経っても。あの光はずっとそこにある。
「……綺麗だな」
言ったのは俺だった。
レオは何も言わなかった。
「……なあ、レオ」
「……なんだ」
「あの光がさ、自分の国に向いたら——どうなると思う」
長い沈黙だった。屋根の上に風が吹いて、瓦がかすかに鳴った。
「……終わるだろうな」
短かった。だが正直な答えだった。レオが故郷の話を自分からしたのは、初めてだった。
「……だよな」
「……でもこれを国の人間に伝えても、分かってもらえないだろうな」
「……分かる」
レオが杯でも——いや、水筒でもなく、ただ膝を抱えたまま言った。
「……これはその場にいないと伝わらないものだ」
そうだ。この光を見ていない人間に、この恐怖は伝わらない。言葉で説明しても、数字を並べても。「城壁が溶けた」と聞くのと、目の前で光が灯るのとでは、まるで違う。
俺たちは見てしまった。見たから分かる。分かるから怖い。
そして——それを共有できる相手が、隣にいる。
屋根の上で、二人で光を見ていた。綺麗で、怖い光だ。あの光を作った国に、俺たちは住んでいる。あの光の恩恵を受けている。留学生として。役人として。
だが俺たちの故郷には、この光はない。
もし帝国がこの光を——この技術を——他国に向けたら。城壁を溶かした力と同じだ。抵抗できない。故郷が、どうなる。
考えたくなかった。でも考えてしまった。レオも同じことを考えている。隣に座っていれば分かる。
「……帰ったほうがいいのかな」
「……帰って、何をする」
「分かんねえ。でも——」
「……俺はきっと──帰っても、何もできないだろう」
それは——俺もたぶん同じだ。
帰っても何もできない。この光に対抗する手段を、俺たちは持っていない。故郷に帰って「帝国はすごいぞ」と言ったところで、何も変わらない。
「……じゃあ、ここにいるしかないか」
「……ああ」
ここにいるしかない。借り物の居場所で、借り物の名前で。帰れない故郷のことを考えながら。
光のパレードが終わった。大通りの光はまだ灯っている。消えない光だ。
「……寒くないか」
「……別に」
嘘だ。レオの肩が少し震えている。春の夜とはいえ、屋根の上は風が吹く。
上着を脱いで、レオの肩にかけた。
「……何をしている」
「お前、震えてるだろ」
「……震えてない」
「嘘つくの下手だって言っただろ」
レオは上着を返さなかった。小さく「……ありがとう」と言った。今度は聞こえた。
レオが立ち上がった。屋根の端に立って、帝都を見下ろしている。風が金髪を揺らしていた。月明かりと電灯の光が混じって、不思議な色をしていた。
俺の上着を羽織ったまま、帝都を見下ろすレオの背中を見ていた。
「……降りるか」
「ああ」
屋根を降りた。裏路地に着地する。レオが上着を返そうとした。
「明日返せよ。酒場で」
「……酒場で」
「明日は開いてるだろ」
「……ああ」
レオは反対方向に歩いていった。俺の上着を着たまま。振り返らなかった。
明日、酒場に行く。レオが上着を返しに来る。杯が一つ余っている。今日のことには触れないだろう。触れなくていい。
屋根の上で、隣にいた。同じ光を見た。同じことを考えた。同じ水筒で水を飲んだ。
それだけで十分だ。




