第119話 戦後処理の裏側:布石の回収
「そろそろやりましょうか」
お嬢様は窓の外を見ながらふと口にした。
「何をですか?」
私は問い返す。
「ほら、数年前に言ってたじゃない。不正な貴族を〜ってやつ」
「あぁ、遂に……」
アルブレヒト様は首を傾げている。でも、私は──わかってしまった。
「準備はできてる?」
「はい。各都市の広場にスピーカーの設置が完了しております」
「じゃあ、始めましょう」
何か、考えている。
あの時のことを思い出した。スピーカーが完成した日。「後で話すわ」と言ったお嬢様の横顔。あれから数週間が経っていた。
「エマ、クラウスを呼んできて」
「……はい」
「それで申し訳ないのだけど、アルブレヒト、あなたは退室してくれるかしら?」
「──わかった」
不承不承にアルブレヒト様は退室した。
数分後クラウス様が執務室に入ってきた。私が扉を閉める。三人だけになった。
お嬢様は机の前に座っていた。クラウス様は立ったまま、私もいつものようにお嬢様の斜め後ろに控えた。
「二人に話があるの」
お嬢様はそう切り出した。
「スピーカーを何に使うか──あの時、後で話すと言ったわよね」
「……はい」
「『後で』が来たわ。ただ、ちょっと長くなる」
お嬢様が椅子に座り直した。
普段、お嬢様は立って話すことが多い。窓際に立つか、部屋を歩きながら指示を出す。椅子に腰を落ち着けるのは珍しい。
──長い話になるのだ。
「そもそもこの国の問題は何だったかしら。そうね、私がここに来た5年前のことを思い出してちょうだい」
突然の質問だった。
お嬢様は私を見ていた。答えを求めている目だ。
「……貴族の不正、でしょうか」
「ええ。でも不正は症状よ。病気そのものじゃないわ」
症状と病気。お嬢様はよくこういう言い方をする。一段深いところを見ている。
お嬢様はクラウス様にも目を向けた。
「先代の王が無能だったせいで、国庫は殆ど空。貴族たちは私腹を肥やす。そんな状態だったわよね」
「……否定はできません」
クラウス様が静かに答えた。貴族の出であるこの方が「否定はできません」と言う。その一言の重さを、お嬢様はわかっているのだろう。
「先代が食中毒──『事故』でいなくなって、多少はましになったわ」
事故。
あの日のことは、よく覚えている。先代の王が亡くなった日。お嬢様は「事故」という言葉に、あの時も微かな含みを持たせていた。今もそうだった。
でもお嬢様はそれ以上は触れなかった。
「でも、本質的な問題は残ったままよ」
お嬢様が指を一本立てた。
「封建制。これが病気。
──領地ごとに仕組みが違う。税率も、単位も、帳簿の付け方も」
お嬢様は淡々と語った。授業をしている時の声だ。
「仕組みが違えば比較ができない。比較ができなければ不正が見えない。私腹を肥やし放題よ」
「……確かにそうでした」
クラウス様が小さく頷いた。
「帳簿の形式すら統一されていませんでした。各領地が独自の方式で記録していた」
「不透明な仕組みは、不正を生む。これは個人の善悪の問題じゃないの。仕組みの問題よ」
個人の善悪ではなく、仕組みの問題。
お嬢様がこれまでやってきたことが、頭の中でちらつき始めた。
「だから仕組みを統一した。MKS単位系。複式簿記。戸籍。全部、同じ基準で測るためよ」
私の中で、何かが繋がり始めた。
「単位の統一も……帳簿も……戸籍も……全部、そのため……?」
「透明にするためよ。誰が、いくら集めて、いくら使ったか。数字で全部見えるようにする。
──でもあの時、不正が見つかっても私は貴族たちを罰しなかったでしょう?」
お嬢様の声は変わらなかった。同じ温度、同じ速度。
「……はい。ずっと、不思議でした」
私は正直に答えた。帳簿を改めて、不正が明るみに出て──それでもお嬢様は何もしなかった。ずっと、わからなかった。
「私もです」
クラウス様も同じだった。
お嬢様が笑った。淡々と。表情の温度がない笑いだった。
「泳がせていたのよ」
一瞬、意味がわからなかった。
「……泳がせ……?」
「不正の証拠を全て記録し続けた。誰が、いくら、いつ。帳簿は嘘をつかないわ」
クラウス様の表情が変わった。
内務大臣として帳簿を見てきた人だ。「記録し続けた」の意味に、私よりも先に気づいたのだろう。目の奥に、何かが走った。
「そしてそれを──民の前で、全て読み上げる」
「っ……もしかして、スピーカーで……」
「そう。首都の人たち、同時に、全員に。文字が読めない人にも聞こえるように。伝令が途中で中身を変えられないように」
背筋が冷たくなった。先程整備が完了したスピーカーがまさかこんな目的で使われるとは。
あの日──スピーカーを見た時の「何かある」という直感。当たっていた。当たっていたけれど、想像の何倍も重かった。
あの夜、お嬢様が言った言葉が蘇る。
──声は、剣より怖いわよ。
こういうことだったのだ。
クラウス様は何も言わなかった。ただ、組んでいた手の指が白くなっていた。
「でもね」
お嬢様の声が続く。同じ調子で。
「不正を暴くのは──目的じゃないの」
「……え?」
「手段よ。本当の目的は──」
お嬢様が立ち上がった。椅子を引いて、窓の前に立った。逆光で、表情が見えなくなった。
「領地を全て廃止する。貴族領をなくして、国の直轄にする」
振り返った。
「『廃藩置県』なんて呼ばれることもあるけど──つまり帝国内すべての『領』を廃し、国直轄の『県』をおくことね」
沈黙が落ちた。
さっきまでとは違う沈黙だった。部屋の空気が変わった。重くなった。何かが、ぎゅっと締まったような。
「……全ての……領地を……」
声が震えていた。自分のものだとわかっていても、止められなかった。
クラウス様が立ち上がりかけて──止まった。
「……不正のない貴族も、ですか」
声は平静だった。だが、さっきまで組んでいた手が、膝の上で握りしめられていた。手が震えている。きつく握りしめられて手が真っ白だ。
クラウス様は貴族の出だ。今の言葉が何を意味するか──この部屋の誰よりもわかっている。
「もちろん全員よ」
お嬢様は、まるで明日の天気の話をするように言った。
「それは私のお父様も当然例外ではないわ」
お嬢様は実のお父様にも容赦ない。
「不正を暴くのは、民衆を味方につけるためよ。自分の領主が横領していたと知った民が、その領主のために立ち上がると思う?」
「……立ち上がらないでしょう。不信感でいっぱいでしょうから」
「そう。反乱の基盤を奪った上で──制度を変える」
私はお嬢様の横顔を見ていた。
10歳の少女が、何百年と続いた制度を壊すと言っている。表情一つ変えずに。
──恐ろしい、と思った。
初めてだった。怖いとはずっと思っていた。
でも、お嬢様をここまで「恐ろしい」と思ったのはこれが初めてだ。
「でも……貴族が反発するのでは」
やっとそれだけ言えた。
「こちらが何も準備してなかったら当然するでしょうね。だから、反発ができないように、しようが無いように、備えがいるの」
お嬢様が指を折った。
「一つ。放送で数字を直接国民に伝える。貴族が情報を操作する余地を潰す。全員が同時に聞けば、個別に対処する暇もない」
スピーカーがあれば、直接、タイムラグなしにすぐに声が届けられるのだ。
「二つ。ノルデン戦争の時、貴族たちを招待したでしょう」
「……観覧の招待状。あれですか」
クラウス様の声がかすかに揺れた。
「そう。領地を失うと知った貴族が、反乱を考えたとき──あの兵器を思い出すわ。ライフル、ダイナマイト、そしてテルミット焼夷弾」
お嬢様は窓の外を見たまま、続けた。
「城壁が溶けて、地面が爆ぜて、見えない弾が飛んでくる。それを間近で見た人間が、武器を取ると思う?」
「っ!」
クラウス様と私は息を呑んだ。
誰も答えなかった。答えられなかった。
頭がクラクラする。クラウス様も顔が真っ青だ。
「……お嬢様」
私は声を絞り出した。
「あの招待状は──最初から、今日のためだったんですか」
「ええ、もちろんよ」
何かが崩れた。頭の中で、点が線に変わっていく。一つ繋がるたびに、足元が崩れていく感覚。
「まさか……道路整備も?」
「ええ、当然。県制度に移行したら、中央からの物流が生命線になるわね」
「官僚試験も……」
「貴族に代わって統治する人材がいなければ、県は回らない」
私は椅子の背もたれを掴んだ。立っていられなかった。
「教育も……?」
「国民自らが貴族たちの不正を判断できなければ、また同じことが起きるわ。数字を公開しても、読み解ける民がいなければ意味がない」
「印刷……新聞も……」
「声が届かない場所には、文字を届ける。同じ情報を、同時に、全国に。貴族が民に嘘をつけなくなるのよ」
止まらない。聞けば聞くほど繋がる。あれも、これも、全部──。
お嬢様は淡々と続けた。声色が一切変わらない。それが余計に怖い。
「石鹸で疫病を減らしたわよね。お風呂を広めた。農業改革で収穫を増やした。硫酸で肥料を作った」
お嬢様が振り返った。
「民の暮らしは──誰のおかげで良くなった?」
「……国の、政策で……」
「そう。領主じゃない。国の政策よ。民がそれを実感していれば──領主がいなくなっても困らない。むしろ、いない方がいいと思うようになる」
頭の中で、記憶が次々に蘇った。
「……お嬢様。石鹸を作った時のこと、覚えていますか」
「ええ」
「副産物のグリセリン……使い道がないって、文句をおっしゃっていましたよね」
「言ったわね」
「あれは──ダイナマイトの原料でしたが」
「ええ、ダイナマイトをつくるためにグリセリンを作ったのよ。石鹸の改良はおまけ」
お嬢様は微笑んだ。あっさりとみとめた。
「声が届かないと、おっしゃっていました。大広間で声が後ろまで届かないと」
「言ったわね」
震える声で続けた。
「それでスピーカーを作りましたよね。でもそれは──」
「お察しの通りよ。民の前で、不正を読み上げるため」
怖い……怖い……
「お嬢様の『困った』も、『欲しい』も、『文句』も……全部、この、『廃藩置県』の入口だったんですか」
お嬢様は一拍置いて、答えた。
「そのとおりよ」
あっさりと。何でもないことのように。
「……あれは……全部、演技だったんですか」
「演技じゃないわよ。だって、石鹸臭かったじゃない。あなたも文句言ってたでしょ?」
──覚えている。
あの時の石鹸の匂い。確かに臭かった。確かに二人で文句を言った。お嬢様は本気で顔をしかめていたし、私も鼻をつまんでいた。あれは嘘じゃなかった。
「ただ、本当の目的が石鹸の改良じゃなかったってだけね。さっきも言った通りおまけよ、おまけ」
さらっと。本当に、さらっと言った。
嘘じゃないのだ。全部本心だ。石鹸は本当に臭かったし、お風呂には本当に入りたかった。声が届かないのにも、本当に困っていた。
でも、同時に──その先を全部見ていた。
それが一番怖い。
善意と計略が矛盾しない人なのだ、この方は。
「教育で判断力を。国策で帰属意識を。印刷と放送で情報を。火力で戦意の喪失を」
お嬢様は窓の前に立ったまま、静かに言った。
「これまでの施策はすべて──廃藩置県を実現するための布石だったのよ」
沈黙が落ちた。
私はクラウス様を見た。
──息を呑んだ。
あの冷静な内務大臣の目が、焦点を失っていた。初めて見た。
クラウス様の紫色に変色した唇がわなわなと震えていた。
クラウス様は何かを口にしようとするが、声にならなかった。何かを数えるように、指が震えていた。
MKS単位系。複式簿記。戸籍。道路。官僚試験。教育。印刷。石鹸。風呂。農業。スピーカー。戦争視察。
全部だ。自分が携わった政策の全てが──一本の線で繋がっている。
クラウス様がよろめいた。
「クラウス様!」
私は咄嗟に肩を支えた。クラウス様の体が重い。顔が蒼白だった。
「……す、すまない……」
めまいだ。理解した瞬間──体が耐えられなかったのだ。
この人は内務大臣だ。全ての政策を実務で支えてきた人だ。私よりも遥かに深く、一つ一つの施策の重さを知っている。それを全部、自分の手で動かしてきた。
だからこそ──「全部繋がっていた」と気づいた瞬間の衝撃は、私の比ではなかったはずだ。
自分が歩いてきた道の全てに、最初から設計図があった。自分はその設計図の上を、知らずに歩かされていた。
──その恐怖。
お嬢様は動かなかった。よろめいた二人を見ていた。表情は変わらない。
私はクラウス様の腕を取って、椅子に座らせた。
「……お嬢様」
「何?」
「い、いつから……考えて、いたんですか」
「いつからかしら。私がはじめて城に来たあの時から、かもしれないわね」
最初から。
あの日──5歳のお嬢様が『王妃』と言い張って政務を行うようになったあの日から?
5年。5年の月日に行った施策のすべてが一つに繋がっていたなんて、お嬢様はなんて遠くを見ていらしたのだろう。
クラウス様は椅子に座っても、震えが止まらなかった。膝の上に置いた手が、小刻みに震えていた。
やがてクラウス様は、両手で頭を抱えた。
内務大臣が。この国の実務を全て支えてきた人が。頭を抱えている。
「恐ろしい──あなたはなんて、恐ろしいお方だ」
頭を抱えたまま、絞り出すように。
内務大臣が──敬語を忘れていた。
「あら。褒め言葉として受け取っておくわ」
お嬢様はいつもの顔で微笑んだ。何事もなかったかのように。
私はクラウス様の肩に手を置いたまま思った。
──私もそう思います、クラウス様。
──心の底から。
しばらく沈黙が続いた。
クラウス様は少しずつ呼吸を整えていた。震えは──まだ、かすかに残っていた。
「クラウス」
お嬢様が名前を呼んだ。
「……はい」
「放送の後、貴族たちの処遇を任せるわ」
「……処遇、とは」
「使える者は中央官僚として登用。使えない者は名誉職」
お嬢様は少し間を置いた。
「あなたは貴族の出身だから、彼らの気持ちもわかるでしょう」
クラウス様は一瞬だけ目を伏せた。
かつての知己に向かって「領地を手放せ」と告げる仕事。それがどれだけ重いか。
でもクラウス様は引き受けた。
「……承知しました」
迷いを──見せなかった。
沈黙が落ちた。
お嬢様が窓の外を見ていた。夕暮れの光が、プラチナブロンドの髪を染めていた。
「──さて」
振り返った。
「行くわよ」
いつもの声だった。いつもの表情だった。これから国を根底から変える人間の顔ではなかった。
──始まる。
私はこの方のそばで、ずっと見てきた。
石鹸が臭いと文句を言った日も。お風呂に入りたいと駄々をこねた日も。声が届かないと嘆いた日も。
全部──今日のためだった。
怖い。
でも、私はこの方のメイドだ。
……怖いけど。




