第117話 戦後処理の裏側:音とは何か
「届いてないわね」
お嬢様が呟いた。
何が?
声が、だ。
大広間での通達だった。廃藩置県に伴う行政区画の再編について、文官たちに周知するための場である。お嬢様が正面で話し、百人あまりの文官が並んで聞いている。
──はずだった。
後方の者たちが、首を傾げている。隣同士で「何て言った?」「聞こえなかった」とひそひそやっている。
侍従が復唱に入った。お嬢様の言葉を、大広間の中ほどで繰り返す。その声をさらに奥の侍従が繰り返す。
「……シャルロッテ様は、行政区画の再編において、各領の境界を河川に準拠させると仰せです」
「……各領の境界を、河川と山脈に準拠させるとのことです」
「……山脈に準拠させ、道路を新設するとのことです」
増えている。
お嬢様の眉がぴくりと動いた。私はその微かな変化を見逃さなかった。
「道路の話なんてしていないわ」
広間が静まった。
通達は打ち切りになった。文書で配布する、という形に切り替えて、文官たちは解散した。
廊下を歩きながら、お嬢様は苛立たしげに言った。
「声が届かないのは不便ね」
「もっと大きな声で仰れば……」
「喉が潰れるわ」
そりゃそうだ。お嬢様は九歳だ。身長も声量も、百人の文官に届くようにはできていない。
お嬢様はふと足を止めた。
「そもそもエマ、音って何だと思う?」
「音、ですか?」
唐突だった。が、お嬢様の唐突には慣れている。
「……音は、音です」
「それは答えになっていないわ」
「ですよね」
自分でも分かっていた。
◆
翌日。ヨハン様の研究室に連れてこられた。
研究室にはいつも通り、ヨハン様がいた。机の上に鉱物標本と数式の走り書きが散乱している。その横に、場違いなものが置いてあった。
太鼓だ。
それも、軍楽隊が使うような革張りの大きな太鼓。横にはリュートと、長い金属のバネと、細い糸と、紙の筒が二つ。
「師匠、全部揃えたぞ」
「ご苦労様。エマ、近くに来なさい」
お嬢様は太鼓の革の上に、細かい白い砂をさらさらと撒いた。
「……なぜ砂を?」
お嬢様は答えずに、にこりと笑った。砂は革の表面に薄く広がって、静かにそこに乗っている。
「叩くわよ」
お嬢様が撥で太鼓を叩いた。
どん、と低い音が響いた──瞬間、革の上の砂が跳ねた。ぱっと弾けるように散って、また落ちて、また跳ねる。
「砂が踊ってます!」
思わず声が出た。
お嬢様が太鼓をもう一度叩く。砂がまた跳ねる。叩くたびに、白い砂が弾んで散っていく。
「太鼓の革の表面が、上下に細かく震えているの。これを振動と言うわ。砂が跳ねるのは、その上に乗っている砂が振動で押し出されているからよ。この震えが、空気を通じてあなたの耳まで届くの」
「空気を通じて……?」
お嬢様は唐突に机の上から長いバネを取り上げた。
「ヨハン、端を持ちなさい」
「あ?ああ」
ヨハン様がバネの片方を持ち、お嬢様がもう片方を持つ。二人でバネを水平に伸ばした。
お嬢様が端をヨハン様の方向にぐっと押した。
バネの一部が、ぎゅっと詰まった。その詰まりが──するするとヨハン様の方へ移動していく。
「見えた?」
「詰まったところが、動いていきました」
「もう一度、よく見なさい」
お嬢様がまた押した。今度は注意して見る。押された部分が密になり、隣が疎になる。密と疎が交互に、波のようにヨハン様の方へ伝わっていった。
「バネの一巻き一巻きは、その場で前後に揺れているだけよ。でも『詰まり』は移動する。空気も同じなの」
お嬢様はバネを置いた。
「太鼓の皮が空気を押す。押された空気が詰まって、隣を押す。その隣がまた押される。ずっと続いて、あなたの耳の中の薄い膜──鼓膜を揺らす。それが音よ」
「じゃあ、空気がないところだと……」
「音は届かない。空気が震えなければ、鼓膜も震えない」
「バネの詰まりが移動するってことは、空気の粗密の移動にも同じように速さがあるってことだよな?」
ヨハン様が聞いた。
「あるわ。空気中だと、だいたい一秒間に三百四十メートル」
「三百四十メートル……」
一秒で三百四十メートル。矢よりもはるかに速い。
「ただし温度で変わるの。温かい空気の方が速く伝わるわ」
「温度で?」
「空気の粒が活発に動いていると、振動の受け渡しも速くなる。寒い日と暑い日では、音の速さが少し違うの」
「……そんなの、気づきもしませんでした」
「でもエマ、雷を思い出しなさい。光ってから、遅れて音が届くでしょう?」
「はい。ぴかっと光って、少し経ってからごろごろ……」
「光はほぼ一瞬で届く。でも音は一秒に三百四十メートル。光ってから音が届くまでの秒数を数えれば、雷までの距離がわかるわ」
「三秒なら……千メートルくらいですか?」
「正解」
お嬢様が満足げに頷いた。
私は太鼓の上の砂を見つめた。見えない。触れない。でも確かにそこにある。一秒に三百四十メートルの速さで、空気の振動が私の耳に届いている。
「面白い……」
「でしょう?」
お嬢様が、ほんの少しだけ嬉しそうな顔をした。こういう顔をするのは、科学の話をしている時だけだ。
「糸電話を作るわ。ギュンターの端材を使って」
「糸電話?」
お嬢様は机の上の紙の筒を二つ取り上げた。底に小さな穴が空いていて、細い糸で繋がっている。
「エマ、片方を耳に当てなさい」
私は言われるまま、紙の筒を耳に当てた。お嬢様がもう片方を口元に寄せて、糸をぴんと張る。
──聞こえますか。
囁き声だった。すぐ隣で話しているかのように、はっきり聞こえた。お嬢様との距離は、部屋の端から端まである。
「聞こえます! 糸を伝って……!」
「声が紙を震わせて、振動が糸を伝って、向こうの紙を震わせたの。空気の代わりに糸が震えているのね。原理は全部同じよ」
全部同じ。太鼓も、空気も、糸も。震えが伝わる。ただそれだけのことなのに、こうも不思議に感じるのか。
◆
「次は、音の大きさと高さの話よ」
お嬢様は太鼓の前に戻った。砂を撒き直す。
「まず、大きさ」
弱く叩いた。
とん、と小さな音。砂はほんの少しだけ揺れた。
「次」
強く叩いた。
どん。砂が大きく跳ね上がった。さっきの何倍も高く弾んでいる。
「振れ幅が大きいほど、音は大きい。これを振幅と呼ぶわ」
「振幅……」
「弱く叩けば皮の震えは小さい。強く叩けば大きい。大きく震えれば、空気も大きく押される。だから大きな音に聞こえる」
なるほど。言われてみれば当然のことだが、砂の跳ね方で目に見えるようにされると、腑に落ちる。
「次は高さ」
お嬢様はリュートを手に取った。ヨハン様が横から覗き込む。
「弦を弾きなさい」
私は長い弦を指で弾いた。低い、響くような音が鳴った。弦がゆっくりと左右に揺れている。目でもはっきり見える。
「次は短い弦を」
今度は短い弦を弾いた。高い、澄んだ音。弦の揺れは──速い。速すぎて、ほとんど見えない。
「長い弦はゆっくり震えるから低い音になる。短い弦は速く震えるから高い音になる」
「速く震えると高い音になるんですね」
「一秒間に何回震えるか。それが音の高さを決めるの」
お嬢様はリュートの弦を途中で指で押さえた。
「押さえると、振動する部分が短くなる。短くなれば、速く震える」
弾いてみなさい、と促された。
指で押さえた弦を弾く。さっきより高い音が出た。押さえる位置をずらすと、また音が変わる。
「……面白い」
つい、何度も弾いてしまった。押さえる位置を変えれば音が変わる。上にずらせば高くなり、下にずらせば低くなる。
「遊ぶのはいいけど、リュートの持ち方が酷いわね」
「す、すみません」
ヨハン様が笑っていた。
「さて、振動の速さに名前をつけましょう」
お嬢様がリュートを手に取り直した。
「一秒間に一回振動することを、1Hzと呼ぶわ」
「へるつ……」
「振動の速さを表す単位よ。百回なら100Hz。千回なら1000Hz。数字が大きいほど高い音」
「はい」
「ヨハン、ラの音を出して」
「ラ?」
「この音よ。──ラー」
お嬢様の澄み渡った声が研究室に響いた。高すぎず低すぎず、真っ直ぐに伸びる音。
ヨハン様がリュートの弦を合わせていく。何度か弾き直して、お嬢様の声と同じ高さを見つけた。
「これが真ん中のラ。一秒間に442回震えているの」
「442回!?」
一秒間に。目には全く見えない速さだ。
「この音を基準にするわ。オーケストラでは、最初にいろいろな楽器をこの高さに合わせるのよね」
なんの話だろう。
ヨハン様もきょとんとしていた。お嬢様は時々、誰にも分からないことを呟く。
お嬢様はリュートの弦を、ちょうど半分の長さで押さえた。
「弾いてみなさい」
弾いた。さっきより高い音──でも、どこか同じに聞こえる。
「高いのに……同じラに聞こえます」
「一オクターブ上のラ。振動数は884Hz。ちょうど二倍よ」
「二倍で……同じ音に?」
「高さは違うけど、響きが同じでしょう? 逆に半分にすれば──」
お嬢様が弦を長く取って弾いた。低い、深いラ。
「221Hz。一オクターブ下。やっぱりラに聞こえるでしょう?」
低いのに、確かにラだった。二倍と半分。数字はこんなに違うのに、耳は「同じ音」と言い張る。
「不思議ですね……」
「でも人間の耳には限界があるの。聞こえる範囲は、だいたい40Hzから30000Hzくらいまで」
「それ以外は……?」
「音は存在する。でも人間の鼓膜が反応できないの。たとえばコウモリは、人間に聞こえない高い音を出して、その跳ね返りで暗闇を飛ぶのよ」
「跳ね返り?」
「音が壁や虫にぶつかって戻ってくる。それで距離や形を知るの。目の代わりに耳を使っている」
コウモリが暗闇を飛べる理由が、音だったとは。
「知らないだけで、人間に聞こえない音は今もこの部屋に溢れているかもしれないわ」
少し、怖い話だった。
「もう一つ」
お嬢様がリュートでラの音を鳴らした。
「ヨハン、同じ高さのラを声で出しなさい」
「こうか。ラー──」
……全然違う。リュートの音より、だいぶ低い。
「違うわ。もっと高く」
「ラー──」
まだ低い。
「もっと」
「ラー……」
今度は高すぎる。お嬢様の眉間に皺が寄った。
「……音の授業をしているのに、あなたの音感が一番の問題ね」
「うるせえ、俺は職人であって吟遊詩人じゃねえんだよ」
お嬢様がため息をついた。
「エマ、ヨハンに合わせなさい」
「え、私がですか?」
「ヨハンがラに合わせるのは無理よ。あなたがヨハンの声に合わせて」
ヨハン様がむっとした顔をしたが、何も言い返せないあたり、自覚はあるのだろう。
「ラー──」
ヨハン様が声を出す。さっきと同じ、微妙にずれた音。
「ラー……」
私はヨハン様の声をよく聞いて、同じ高さに合わせた。
──合った。同じ高さだ。でも、全然違う声に聞こえる。ヨハン様の方が太くてざらついていて、私の方が細くて柔らかい。
「同じ高さよ。なのに二つの声は全然違うでしょう?」
リュートの澄んだ音。ヨハン様の太い声。私の細い声。同じ高さのはずなのに。
「これが音質よ」
「音質……」
「一つの音に聞こえるけれど、実は複数の振動が重なっているの。442Hzのラを鳴らすと、その二倍の884Hz、三倍の1326Hz、四倍の1768Hz……という振動が同時に鳴っている。これを倍音と呼ぶわ」
「そんなに重なって……!」
「倍音のバランスが違うと、同じ高さの音でも響きが変わる。ヨハンの声は低い倍音が強いから太い。エマの声は高い倍音が多いから澄んでいる」
「同じラなのに、中身が違う……」
「そう。何十もの振動が重なっていて、その配合が一人一人違う。だからあなたの声は、世界に一つだけなの」
私は自分の喉に手を当てた。声を出すと、喉が震える。この震えの中に、何十もの倍音が混ざっている。
──私の声は、私だけのもの。
なんだか、少し嬉しかった。
◆
「面白いことを教えてあげる」
お嬢様は太鼓の前に立った。
「人間の耳は、正直じゃないの」
「正直じゃない?」
「ヨハン、太鼓を叩きなさい」
ヨハン様が撥を受け取って、太鼓を叩いた。どん。
「エマ、音の大きさを覚えておいて」
「はい」
「もう一人、加わるわ」
お嬢様がもう一本の撥を取り、ヨハン様と同時に叩いた。どん。
「……あれ?」
確かに、さっきより大きい。でも──二倍になった気がしない。
「二倍の音になった気がしません」
「そう。叩く人を二倍にしても、音は二倍に聞こえないの」
「なぜですか?」
「耳が比率で聞いているからよ」
お嬢様は腕を組んだ。
「十倍にして、ようやく『倍になった』と感じるの」
「十倍で……ようやく二倍?」
「そう。人の耳は、差ではなく比で捉える。小さい音の変化には敏感だけれど、大きくなるほど鈍感になっていく」
「……不思議ですね」
「不思議ではないわ。合理的なのよ」
お嬢様は窓の外を見た。
「森の中を想像しなさい。葉擦れの中から、獣の足音を聞き分ける必要がある。静かな音の中の小さな変化に敏感でなければ、生き残れない。でも、雷の音が少し大きくなったところで、そんなものは知ったことではない」
「なるほど……」
それは確かに、道理だった。
「この仕組みを数式にする方法があるの。対数というのだけど──」
お嬢様がそこで言葉を切った。
私はお嬢様を見た。
お嬢様は、ほんの少しだけ口角を上げた。
「いつか教えるわ」
来た。
「三回目です!!」
思わず叫んだ。ルシャトリエ、角運動量保存則、そして対数。お嬢様の「いつか教えるわ」が、ついに三つ目に到達した。
「覚えてるのね」
「覚えてますよ! 一つ目はルシャトリエ、二つ目はかくうんどうりょう、三つ目はたいすう! 全部名前だけで中身がありません!」
「名前を覚えているなら十分よ。教えるのは、あなたの準備ができてからにするわ」
「私の準備って何ですか!?」
「計算ができるようになってからよ」
「計算は……一応できます……」
「足し算と引き算でしょう?」
「掛け算もできます」
「対数には足りないわね」
悔しかった。何が悔しいかと言えば、確かにお嬢様の言う通りだと思えてしまうところが悔しかった。
ヨハン様が横で堪えきれずに笑っていた。
「笑わないでください、ヨハン様」
「いや……すまん。でもエマさん、ちゃんと覚えてるのがすげえよ」
褒められた気がしない。
◆
授業が終わって、私は城内を歩いていた。
夕暮れ時の城は、いろんな音に満ちている。
中庭を横切ると、鳥の声が聞こえた。高い声、低い声、短い声、長い声。一つ一つが違う。今朝までは「鳥が鳴いている」としか思わなかった。でも今は、声の高さが違うということは、羽のどこかが──いや、喉だろうか──震える速さが違うのだと分かる。
渡り廊下を歩く。自分の足音が石畳に響く。靴の底が石を叩いて、石が震えて、空気が震えて、耳に届く。
遠くから、鍛冶場の槌音が聞こえた。金属が打たれる甲高い音。鳥の声よりずっと高い。ということは、金属の方が速く震えているのか。
厨房の近くを通ると、包丁がまな板を叩く音。とんとんとん、と規則正しい。あれも全部、空気が震えているのだ。
風が吹いた。窓を揺らして、かすかな音を立てた。
不思議だった。
何も変わっていない。昨日と同じ城で、同じ風が吹いて、同じ鳥が鳴いている。
でも、聞こえ方が少しだけ違う。
あの鳥の声は、空気が震えて私の鼓膜まで届いたものだ。この足音は、石畳が震えて空気に伝わって聞こえている。厨房の包丁も、鍛冶場の槌も、窓を揺らす風も、全部。
目に見えないのに、確かにある。
お嬢様はいつも言う。自然の仕組みは、驚くほど少ない原理でできている、と。
全部、振動だ。
全部、何かが震えて、空気が震えて、耳に届いているだけだ。
たったそれだけの仕組みなのに──こんなに豊かに聞こえる。
鳥の声と、槌の音と、風の音が、同じ原理で私の耳に届いている。なのに、全部違う音として聞き分けられる。速さが違うだけで、こんなにも違って聞こえる。
私は立ち止まって、耳を澄ませた。
世界が、少しだけ広くなった気がした。
「エマ」
振り返ると、お嬢様が廊下の向こうに立っていた。
「で──何の話だったかしら」
「何の話、ですか?」
「今日、そもそもなぜ音の授業を始めたの?」
あ。
「声が……届かなかった」
「そう。大広間で声が届かない問題。すっかり脱線したわね」
お嬢様は不敵に笑った。
「拡声器を作るわよ」




