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私はメイドです!〜お嬢様の世界征服に巻き込まれた哀れな日々〜  作者: ほしみん
第一章 国内改革

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第117話 戦後処理の裏側:音とは何か

「届いてないわね」


お嬢様が呟いた。


何が?


声が、だ。


大広間での通達だった。廃藩置県に伴う行政区画の再編について、文官たちに周知するための場である。お嬢様が正面で話し、百人あまりの文官が並んで聞いている。


──はずだった。


後方の者たちが、首を傾げている。隣同士で「何て言った?」「聞こえなかった」とひそひそやっている。


侍従が復唱に入った。お嬢様の言葉を、大広間の中ほどで繰り返す。その声をさらに奥の侍従が繰り返す。


「……シャルロッテ様は、行政区画の再編において、各領の境界を河川に準拠させると仰せです」


「……各領の境界を、河川と山脈に準拠させるとのことです」


「……山脈に準拠させ、道路を新設するとのことです」


増えている。


お嬢様の眉がぴくりと動いた。私はその微かな変化を見逃さなかった。


「道路の話なんてしていないわ」


広間が静まった。


通達は打ち切りになった。文書で配布する、という形に切り替えて、文官たちは解散した。


廊下を歩きながら、お嬢様は苛立たしげに言った。


「声が届かないのは不便ね」


「もっと大きな声で仰れば……」


「喉が潰れるわ」


そりゃそうだ。お嬢様は九歳だ。身長も声量も、百人の文官に届くようにはできていない。


お嬢様はふと足を止めた。


「そもそもエマ、音って何だと思う?」


「音、ですか?」


唐突だった。が、お嬢様の唐突には慣れている。


「……音は、音です」


「それは答えになっていないわ」


「ですよね」


自分でも分かっていた。





翌日。ヨハン様の研究室に連れてこられた。


研究室にはいつも通り、ヨハン様がいた。机の上に鉱物標本と数式の走り書きが散乱している。その横に、場違いなものが置いてあった。


太鼓だ。


それも、軍楽隊が使うような革張りの大きな太鼓。横にはリュートと、長い金属のバネと、細い糸と、紙の筒が二つ。


「師匠、全部揃えたぞ」


「ご苦労様。エマ、近くに来なさい」


お嬢様は太鼓の革の上に、細かい白い砂をさらさらと撒いた。


「……なぜ砂を?」


お嬢様は答えずに、にこりと笑った。砂は革の表面に薄く広がって、静かにそこに乗っている。


「叩くわよ」


お嬢様が撥で太鼓を叩いた。


どん、と低い音が響いた──瞬間、革の上の砂が跳ねた。ぱっと弾けるように散って、また落ちて、また跳ねる。


「砂が踊ってます!」


思わず声が出た。


お嬢様が太鼓をもう一度叩く。砂がまた跳ねる。叩くたびに、白い砂が弾んで散っていく。


「太鼓の革の表面が、上下に細かく震えているの。これを振動と言うわ。砂が跳ねるのは、その上に乗っている砂が振動で押し出されているからよ。この震えが、空気を通じてあなたの耳まで届くの」


「空気を通じて……?」


お嬢様は唐突に机の上から長いバネを取り上げた。


「ヨハン、端を持ちなさい」


「あ?ああ」


ヨハン様がバネの片方を持ち、お嬢様がもう片方を持つ。二人でバネを水平に伸ばした。


お嬢様が端をヨハン様の方向にぐっと押した。


バネの一部が、ぎゅっと詰まった。その詰まりが──するするとヨハン様の方へ移動していく。


「見えた?」


「詰まったところが、動いていきました」


「もう一度、よく見なさい」


お嬢様がまた押した。今度は注意して見る。押された部分が密になり、隣が疎になる。密と疎が交互に、波のようにヨハン様の方へ伝わっていった。


「バネの一巻き一巻きは、その場で前後に揺れているだけよ。でも『詰まり』は移動する。空気も同じなの」


お嬢様はバネを置いた。


「太鼓の皮が空気を押す。押された空気が詰まって、隣を押す。その隣がまた押される。ずっと続いて、あなたの耳の中の薄い膜──鼓膜を揺らす。それが音よ」


「じゃあ、空気がないところだと……」


「音は届かない。空気が震えなければ、鼓膜も震えない」


「バネの詰まりが移動するってことは、空気の粗密の移動にも同じように速さがあるってことだよな?」


ヨハン様が聞いた。


「あるわ。空気中だと、だいたい一秒間に三百四十メートル」


「三百四十メートル……」


一秒で三百四十メートル。矢よりもはるかに速い。


「ただし温度で変わるの。温かい空気の方が速く伝わるわ」


「温度で?」


「空気の粒が活発に動いていると、振動の受け渡しも速くなる。寒い日と暑い日では、音の速さが少し違うの」


「……そんなの、気づきもしませんでした」


「でもエマ、雷を思い出しなさい。光ってから、遅れて音が届くでしょう?」


「はい。ぴかっと光って、少し経ってからごろごろ……」


「光はほぼ一瞬で届く。でも音は一秒に三百四十メートル。光ってから音が届くまでの秒数を数えれば、雷までの距離がわかるわ」


「三秒なら……千メートルくらいですか?」


「正解」


お嬢様が満足げに頷いた。


私は太鼓の上の砂を見つめた。見えない。触れない。でも確かにそこにある。一秒に三百四十メートルの速さで、空気の振動が私の耳に届いている。


「面白い……」


「でしょう?」


お嬢様が、ほんの少しだけ嬉しそうな顔をした。こういう顔をするのは、科学の話をしている時だけだ。


「糸電話を作るわ。ギュンターの端材を使って」


「糸電話?」


お嬢様は机の上の紙の筒を二つ取り上げた。底に小さな穴が空いていて、細い糸で繋がっている。


「エマ、片方を耳に当てなさい」


私は言われるまま、紙の筒を耳に当てた。お嬢様がもう片方を口元に寄せて、糸をぴんと張る。


──聞こえますか。


囁き声だった。すぐ隣で話しているかのように、はっきり聞こえた。お嬢様との距離は、部屋の端から端まである。


「聞こえます! 糸を伝って……!」


「声が紙を震わせて、振動が糸を伝って、向こうの紙を震わせたの。空気の代わりに糸が震えているのね。原理は全部同じよ」


全部同じ。太鼓も、空気も、糸も。震えが伝わる。ただそれだけのことなのに、こうも不思議に感じるのか。





「次は、音の大きさと高さの話よ」


お嬢様は太鼓の前に戻った。砂を撒き直す。


「まず、大きさ」


弱く叩いた。


とん、と小さな音。砂はほんの少しだけ揺れた。


「次」


強く叩いた。


どん。砂が大きく跳ね上がった。さっきの何倍も高く弾んでいる。


「振れ幅が大きいほど、音は大きい。これを振幅と呼ぶわ」


「振幅……」


「弱く叩けば皮の震えは小さい。強く叩けば大きい。大きく震えれば、空気も大きく押される。だから大きな音に聞こえる」


なるほど。言われてみれば当然のことだが、砂の跳ね方で目に見えるようにされると、腑に落ちる。


「次は高さ」


お嬢様はリュートを手に取った。ヨハン様が横から覗き込む。


「弦を弾きなさい」


私は長い弦を指で弾いた。低い、響くような音が鳴った。弦がゆっくりと左右に揺れている。目でもはっきり見える。


「次は短い弦を」


今度は短い弦を弾いた。高い、澄んだ音。弦の揺れは──速い。速すぎて、ほとんど見えない。


「長い弦はゆっくり震えるから低い音になる。短い弦は速く震えるから高い音になる」


「速く震えると高い音になるんですね」


「一秒間に何回震えるか。それが音の高さを決めるの」


お嬢様はリュートの弦を途中で指で押さえた。


「押さえると、振動する部分が短くなる。短くなれば、速く震える」


弾いてみなさい、と促された。


指で押さえた弦を弾く。さっきより高い音が出た。押さえる位置をずらすと、また音が変わる。


「……面白い」


つい、何度も弾いてしまった。押さえる位置を変えれば音が変わる。上にずらせば高くなり、下にずらせば低くなる。


「遊ぶのはいいけど、リュートの持ち方が酷いわね」


「す、すみません」


ヨハン様が笑っていた。


「さて、振動の速さに名前をつけましょう」


お嬢様がリュートを手に取り直した。


「一秒間に一回振動することを、1Hzと呼ぶわ」


「へるつ……」


「振動の速さを表す単位よ。百回なら100Hz。千回なら1000Hz。数字が大きいほど高い音」


「はい」


「ヨハン、ラの音を出して」


「ラ?」


「この音よ。──ラー」


お嬢様の澄み渡った声が研究室に響いた。高すぎず低すぎず、真っ直ぐに伸びる音。


ヨハン様がリュートの弦を合わせていく。何度か弾き直して、お嬢様の声と同じ高さを見つけた。


「これが真ん中のラ。一秒間に442回震えているの」


「442回!?」


一秒間に。目には全く見えない速さだ。


「この音を基準にするわ。オーケストラでは、最初にいろいろな楽器をこの高さに合わせるのよね」


なんの話だろう。


ヨハン様もきょとんとしていた。お嬢様は時々、誰にも分からないことを呟く。


お嬢様はリュートの弦を、ちょうど半分の長さで押さえた。


「弾いてみなさい」


弾いた。さっきより高い音──でも、どこか同じに聞こえる。


「高いのに……同じラに聞こえます」


「一オクターブ上のラ。振動数は884Hz。ちょうど二倍よ」


「二倍で……同じ音に?」


「高さは違うけど、響きが同じでしょう? 逆に半分にすれば──」


お嬢様が弦を長く取って弾いた。低い、深いラ。


「221Hz。一オクターブ下。やっぱりラに聞こえるでしょう?」


低いのに、確かにラだった。二倍と半分。数字はこんなに違うのに、耳は「同じ音」と言い張る。


「不思議ですね……」


「でも人間の耳には限界があるの。聞こえる範囲は、だいたい40Hzから30000Hzくらいまで」


「それ以外は……?」


「音は存在する。でも人間の鼓膜が反応できないの。たとえばコウモリは、人間に聞こえない高い音を出して、その跳ね返りで暗闇を飛ぶのよ」


「跳ね返り?」


「音が壁や虫にぶつかって戻ってくる。それで距離や形を知るの。目の代わりに耳を使っている」


コウモリが暗闇を飛べる理由が、音だったとは。


「知らないだけで、人間に聞こえない音は今もこの部屋に溢れているかもしれないわ」


少し、怖い話だった。


「もう一つ」


お嬢様がリュートでラの音を鳴らした。


「ヨハン、同じ高さのラを声で出しなさい」


「こうか。ラー──」


……全然違う。リュートの音より、だいぶ低い。


「違うわ。もっと高く」


「ラー──」


まだ低い。


「もっと」


「ラー……」


今度は高すぎる。お嬢様の眉間に皺が寄った。


「……音の授業をしているのに、あなたの音感が一番の問題ね」


「うるせえ、俺は職人であって吟遊詩人じゃねえんだよ」


お嬢様がため息をついた。


「エマ、ヨハンに合わせなさい」


「え、私がですか?」


「ヨハンがラに合わせるのは無理よ。あなたがヨハンの声に合わせて」


ヨハン様がむっとした顔をしたが、何も言い返せないあたり、自覚はあるのだろう。


「ラー──」


ヨハン様が声を出す。さっきと同じ、微妙にずれた音。


「ラー……」


私はヨハン様の声をよく聞いて、同じ高さに合わせた。


──合った。同じ高さだ。でも、全然違う声に聞こえる。ヨハン様の方が太くてざらついていて、私の方が細くて柔らかい。


「同じ高さよ。なのに二つの声は全然違うでしょう?」


リュートの澄んだ音。ヨハン様の太い声。私の細い声。同じ高さのはずなのに。


「これが音質よ」


「音質……」


「一つの音に聞こえるけれど、実は複数の振動が重なっているの。442Hzのラを鳴らすと、その二倍の884Hz、三倍の1326Hz、四倍の1768Hz……という振動が同時に鳴っている。これを倍音と呼ぶわ」


「そんなに重なって……!」


「倍音のバランスが違うと、同じ高さの音でも響きが変わる。ヨハンの声は低い倍音が強いから太い。エマの声は高い倍音が多いから澄んでいる」


「同じラなのに、中身が違う……」


「そう。何十もの振動が重なっていて、その配合が一人一人違う。だからあなたの声は、世界に一つだけなの」


私は自分の喉に手を当てた。声を出すと、喉が震える。この震えの中に、何十もの倍音が混ざっている。


──私の声は、私だけのもの。


なんだか、少し嬉しかった。





「面白いことを教えてあげる」


お嬢様は太鼓の前に立った。


「人間の耳は、正直じゃないの」


「正直じゃない?」


「ヨハン、太鼓を叩きなさい」


ヨハン様が撥を受け取って、太鼓を叩いた。どん。


「エマ、音の大きさを覚えておいて」


「はい」


「もう一人、加わるわ」


お嬢様がもう一本の撥を取り、ヨハン様と同時に叩いた。どん。


「……あれ?」


確かに、さっきより大きい。でも──二倍になった気がしない。


「二倍の音になった気がしません」


「そう。叩く人を二倍にしても、音は二倍に聞こえないの」


「なぜですか?」


「耳が比率で聞いているからよ」


お嬢様は腕を組んだ。


「十倍にして、ようやく『倍になった』と感じるの」


「十倍で……ようやく二倍?」


「そう。人の耳は、差ではなく比で捉える。小さい音の変化には敏感だけれど、大きくなるほど鈍感になっていく」


「……不思議ですね」


「不思議ではないわ。合理的なのよ」


お嬢様は窓の外を見た。


「森の中を想像しなさい。葉擦れの中から、獣の足音を聞き分ける必要がある。静かな音の中の小さな変化に敏感でなければ、生き残れない。でも、雷の音が少し大きくなったところで、そんなものは知ったことではない」


「なるほど……」


それは確かに、道理だった。


「この仕組みを数式にする方法があるの。対数というのだけど──」


お嬢様がそこで言葉を切った。


私はお嬢様を見た。


お嬢様は、ほんの少しだけ口角を上げた。


「いつか教えるわ」


来た。


「三回目です!!」


思わず叫んだ。ルシャトリエ、角運動量保存則、そして対数。お嬢様の「いつか教えるわ」が、ついに三つ目に到達した。


「覚えてるのね」


「覚えてますよ! 一つ目はルシャトリエ、二つ目はかくうんどうりょう、三つ目はたいすう! 全部名前だけで中身がありません!」


「名前を覚えているなら十分よ。教えるのは、あなたの準備ができてからにするわ」


「私の準備って何ですか!?」


「計算ができるようになってからよ」


「計算は……一応できます……」


「足し算と引き算でしょう?」


「掛け算もできます」


「対数には足りないわね」


悔しかった。何が悔しいかと言えば、確かにお嬢様の言う通りだと思えてしまうところが悔しかった。


ヨハン様が横で堪えきれずに笑っていた。


「笑わないでください、ヨハン様」


「いや……すまん。でもエマさん、ちゃんと覚えてるのがすげえよ」


褒められた気がしない。





授業が終わって、私は城内を歩いていた。


夕暮れ時の城は、いろんな音に満ちている。


中庭を横切ると、鳥の声が聞こえた。高い声、低い声、短い声、長い声。一つ一つが違う。今朝までは「鳥が鳴いている」としか思わなかった。でも今は、声の高さが違うということは、羽のどこかが──いや、喉だろうか──震える速さが違うのだと分かる。


渡り廊下を歩く。自分の足音が石畳に響く。靴の底が石を叩いて、石が震えて、空気が震えて、耳に届く。


遠くから、鍛冶場の槌音が聞こえた。金属が打たれる甲高い音。鳥の声よりずっと高い。ということは、金属の方が速く震えているのか。


厨房の近くを通ると、包丁がまな板を叩く音。とんとんとん、と規則正しい。あれも全部、空気が震えているのだ。


風が吹いた。窓を揺らして、かすかな音を立てた。


不思議だった。


何も変わっていない。昨日と同じ城で、同じ風が吹いて、同じ鳥が鳴いている。


でも、聞こえ方が少しだけ違う。


あの鳥の声は、空気が震えて私の鼓膜まで届いたものだ。この足音は、石畳が震えて空気に伝わって聞こえている。厨房の包丁も、鍛冶場の槌も、窓を揺らす風も、全部。


目に見えないのに、確かにある。


お嬢様はいつも言う。自然の仕組みは、驚くほど少ない原理でできている、と。


全部、振動だ。


全部、何かが震えて、空気が震えて、耳に届いているだけだ。


たったそれだけの仕組みなのに──こんなに豊かに聞こえる。


鳥の声と、槌の音と、風の音が、同じ原理で私の耳に届いている。なのに、全部違う音として聞き分けられる。速さが違うだけで、こんなにも違って聞こえる。


私は立ち止まって、耳を澄ませた。


世界が、少しだけ広くなった気がした。


「エマ」


振り返ると、お嬢様が廊下の向こうに立っていた。


「で──何の話だったかしら」


「何の話、ですか?」


「今日、そもそもなぜ音の授業を始めたの?」


あ。


「声が……届かなかった」


「そう。大広間で声が届かない問題。すっかり脱線したわね」


お嬢様は不敵に笑った。


「拡声器を作るわよ」


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