第116話 戦勝:気前のいい国〜ナタン視点〜
酒がタダだと言われれば、飲まない理由はない。
「戦争に勝ったんだから、今日くらいは」
店の親父がそう言って、杯を押しつけてきた。
俺はナタン。留学生だ。この国の民じゃない。この国のために戦ったわけでもない。だが親父はそんなこと気にしていない。店にいる全員に配っている。
ありがたく頂く。
周りは、もうめちゃくちゃだった。あっちのテーブルでもこっちのテーブルでも、帰還した兵士が肩を組んで騒いでいる。顔も知らない連中が乾杯して、よくわからない歌まで始まっている。
俺はカウンターの端で、その喧騒を聞いていた。
聞くつもりはなかった。だが酒場というのは、聞こえてしまうものだ。
「──城壁が溶けたんだよ! 石がだぞ?」
「死者ゼロだって。帝国軍の」
「怪我人一人。塹壕で転んだやつ」
「あ。それ俺だわ」
「お前かよ! 帝国軍唯一の負傷者!」
テーブルが揺れるくらいの笑い声が上がった。
……笑い事か?
「つまり帝国軍の被害、こいつの擦り傷だけってこと?」
「そういうことになるな」
爆笑。酒場全体が揺れている。
俺は杯を傾けたまま、動きを止めた。
死者ゼロ。怪我人は──塹壕で転んだ一人だけ。城壁が溶けて、剣を持たない兵士が一日で隣国を併合して、被害が擦り傷一つ。
……笑えない。
こいつらは笑っている。戦争を、笑い話にしている。
なぜ俺だけ笑えないのか──その理由は、飲み込んだ。
杯を口に運んだ。せっかくのただ酒なのに、味がさっぱりしなかった。
帝国学院で一年学んだ。この国の行政がどれだけ異常な速度で変わっているか、俺は知っている。
教育制度。MKS単位系。道路。法整備。
だがそれは制度の話だ。今聞いたのは──力の話だ。
城壁を溶かす。地面を爆発させる。見えない矢。
それで、味方の死者はゼロ。
……戦争を知らない人間の感想じゃない。俺は知っている。城壁がどれだけ硬いか。剣と盾で戦う兵士が、どれだけ死ぬか。
この国は──それを一日で終わらせた?
──「外国人も受け入れる。気前のいい国だ」
一年前、俺はそう思ってここに来た。
帝国学院の門は広く開いていて、南方訛りの俺を誰も笑わなかった。優秀な教師がいて、蔵書があって、望めば何でも学べた。
気前がいい?
……本当にそうか?
この国は、外国人に門戸を開く余裕があるのではなく──
外国人にすら門を開けてしまえるほど、恐れるものがないのではないか。
俺が一年かけて学んだことは──
この国の強さの、ほんの表面だったのではないか。
背筋が冷たくなった。
隣のテーブルから「味方で良かったなー!」と声が上がった。全員が杯をぶつけている。
……ああ。
味方で良かった。
これが──祖国に向いたら。
ふと、見えた。
酒場の隅。壁際のテーブルに、男が一人座っていた。周りが大騒ぎしているのに、そいつだけ──静かだった。
杯を傾けてはいるが、笑っていない。誰とも喋っていない。
帝国人じゃない。
顔を見ればわかる。肌の色、骨格、目つき。
俺と同じ──この国の人間じゃない。
見覚えがある。
帝国学院の近くで何度かすれ違った。帳簿を抱えて歩いていた。役人だろうか。俺と同じくらい若い。
俺は一人で飲むのは好きじゃない。折角の機会だ。俺は杯を持って、そいつの向かいに座った。
「隣いいか」
向かいに座っておいて何を言っているんだ、俺は。
男は──迷惑そうな顔をした。だが、出て行けとは言わなかった。
「……勝手にしろ」
よし。許可が出た。
「お前、帝国の人間じゃないだろ」
「……」
「いや、俺もだ。責めてるんじゃない」
そいつは杯に目を落としたまま、何も言わない。
「俺はナタン。帝国学院の留学生だ。去年この国に来た」
……。
「外国人、お前も珍しいだろ?ちょっと話したくなってさ」
我ながら、言い訳が下手だ。
だがそいつは顔を上げた。ほんの少しだけ。
「……レオ」
短い。だが名前は教えてくれた。口数が少ないやつだ。だが、嫌いじゃない。
「レオは何してるんだ、この国で」
「……帳簿の仕事を」
「役人か。すごいな、外国人なのに」
「……試験があった。ダメ元で受けたら通った」
意外だ。こいつ、しゃべれるじゃないか。聞けば答える。自分からは言わないだけだ。
「おぉ。なんとも剛毅なことだ。この国は懐が広いな」
「そうだな」
レオは杯を傾ける。
「──にしても、すごい騒ぎだな」
「ああ」
「一日で終わったんだってな。戦争」
「……らしいな」
「なんでも、城壁が溶けたとか」
「ああ、聞いてた」
短い。でも聞いている。
「お前も聞いてたのか。あの話」
「嫌でも聞こえるさ」
……そうだな。嫌でも聞こえる。この酒場にいれば──聞こえてしまう。
「どう思った?」
レオは少し間を置いた。杯を一口傾けて、言った。
「……すごい国だな」
褒めてるのか怯えてるのか、わからない言い方だった。でも──俺もたぶん、同じ顔をしている。
「だな」
さっきから二人ともすごいを繰り返している気がする。
二杯目を頼んだ。レオの分も勝手に。レオは断らなかった。
「お前、どこから来たんだ」
「……田舎だ」
「どの辺の?」
「……遠い田舎だ」
追及するな、と顔に書いてある。
「俺もだ。遠い田舎」
俺も嘘をついた。
レオも嘘をついている。
お互いわかっている。
だが──追及しない。
それがなぜか、心地よかった。
酒場の向こうから、また歌声が聞こえた。兵士たちの歌。勝利を讃える古い歌だ。
……知っている。こういう歌。勝った夜に、兵士が歌う歌。
ただ──この国の歌は、どこか違う。もう次がない、というような──終わりの歌だ。
「……もう一杯飲むか」
「……ああ」
レオが自分から頷いた。初めてだった。
店を出た。
夜風が冷たかった。
「じゃあな」
「ああ」
レオは反対方向に歩いていった。あいつは振り返らなかった。
……無愛想なやつだ。
だが、嫌じゃなかった。
あいつも──聞いていたはずだ。城壁が溶けた話。見えない矢の話。死者ゼロの話。あの短い「すごい国だな」に、全部詰まっていた。
俺と同じことを考えていた。
また飲むだろう。たぶん、隣に座っても──「勝手にしろ」と言うだろう。
窓を閉めた。
祭りの音が、少しだけ遠くなった。




