第114話 戦勝:勝者の不安〜ある男爵の独白〜
百年の戦争が、唐突に終わりを遂げた。
先のノルデン戦だ。帝国軍はわずか一日で、百年の決着をつけた。あれからまだ日も浅い。
帝都の大広間で、祝賀の宴が開かれていた。杯が鳴る。卓の上には肉と果実と酒が並び、焼いた肉の脂の匂いが広間に漂っている。楽士の奏でる弦の音が天井に反響し、蝋燭の灯りが何百と揺れて、広間全体を琥珀色に染めていた。あちこちで将校や貴族が肩を叩き合い、杯を交わし、ノルデン統合の勝利を祝っていた。
めでたいことだ。
帝国はノルデンを統合し、領土を広げた。百年にわたる北方の脅威は消え、安定が約束された。陛下の治世における最大の成果と、誰もがそう言っている。
俺もそう思う。良い時代になった。
「素晴らしい勝利でしたな!」
隣の男爵が俺に杯を掲げた。俺も笑って掲げ返した。中身を口に運ぶ。良い酒だった。喉を通る感触が温かい。
あの日のことが、頭から離れない。
戦の半月ほど前だったか。領地に書状が届いた。帝国の紋章が押された、丁寧な文面の招待状だった。
──ノルデン戦に際し、貴殿の観覧を賜りたい。
観覧。
最初、意味がわからなかった。
従軍を命じるのではない。兵を出せとも言わない。ただ──見に来い、と。
断れるはずがなかった。陛下からの招きだ。丁寧な文面ではあったが、断る余地など最初からない。俺は家臣を数人連れて、指定された場所へ向かった。
そこには、俺のような地方領主が何十人も集められていた。顔見知りの者もいた。皆、同じ困惑を顔に浮かべていた。
「お前も来たか」
「ああ。何をさせられるんだ?」
「さあ。観覧だと」
誰も意味がわからなかった。
俺たちは丘の上に案内された。前方の平原にノルデンの軍勢が見え、後方には帝国軍が展開していた。俺たちはそのどちらでもない、少し離れた高台に、椅子と天幕を用意されて──座らされた。
剣は帯びていた。
だが、抜く場面は一度もなかった。
◆
最初に見たのは、大地が消し飛ぶところだった。
ノルデンの軍勢が、前方の平原を進んでいた。五万はいただろうか。旗が翻り、騎馬が陽を浴びて光っている。
帝国軍は──動かない。
突然、轟音が世界を呑み込んだ。
腹の底を殴られたような衝撃。空気が震えた。天幕の布が大きく揺れ、椅子に座っていた俺は腰を浮かせた。
両軍の中間──誰もいない平原に、巨大な穴が空いていた。土煙が天を突くように立ち上っている。
隣にいた男が声を上げた。何を言ったか覚えていない。俺も何か言ったかもしれない。覚えていない。
ノルデン軍が止まった。帝国軍も動かない。静寂が、戦場を支配した。
──次の爆発は、ノルデン軍の方へ近づいた。
一つ。また一つ。大地が噴き上がるたびに、穴が増えていく。やがて爆発がノルデンの軍勢に届いた。土煙の中に、何かが──いや、誰かの破片が、空から降ってきた。
俺たちの丘にまで、土の匂いが届いた。
次に見たのは、人が倒れるところだった。
遠かった。豆粒ほどの大きさにしか見えない距離だ。それなのに──人が倒れた。弓の射程よりも遥かに遠い。投石器でも届かない距離だ。
だが、人が倒れた。
次々と。一人、また一人。何かに撃たれたように、糸の切れた人形のように。乾いた音が、遅れて聞こえた。破裂するような、耳慣れない音が、連続して響く。
矢は飛んでいない。石も飛んでいない。
何も見えない。何も飛んでこない。
なのに、人が倒れる。
魔法か。そう思った。いや、魔法でもこんな芸当は聞いたことがない。だが、魔法以外に何と呼べばいい?
極めつけは、ノルデンの残兵が城に逃げ込んだ後のことだった。
白い光。太陽のように眩しい、凝縮された輝き。それが城門に触れた瞬間──溶けた。
崩れたのではない。溶けたのだ。
わかるだろうか。この異様さが。
鉄が。石が。城門を構成しているものが、赤く変色し、ドロドロと流れ落ち、白い光の中に沈んでいった。
城門が、消えていく。
それから、どれくらい経っただろう。
気がつくと、戦は終わっていた。
俺たちは、ただ座って見ていただけだった。
◆
──宴の喧騒が、遠い。
目の前で誰かが笑っている。どこかの伯爵が武勇伝を語っている。近衛兵が整然と立っている。侍従が酒を注いで回っている。
皆、平然としている。
……いや。
あの戦場で、近衛の者たちも呆然としていた。陛下の最も近くに仕える者たちですら、あの兵器を知らなかったのだ。
では、あの力を知っている者は──どれだけいる?
あの「観覧」の招待状を──誰が書いたのだろう。
……どちらでもいい。問題はそこではない。
なぜ俺たちを、あの丘に座らせたのか。
……あれは招待だったのか。
招待という形をした──。
いや、命令とも違う。もっと静かなものだ。もっと──恐ろしいものだ。
俺たちはあれを見せられて──そして帰ってきた。無傷で。
丁寧に。穏やかに。一滴の血も流さずに。ただ、見せた。
逆らえないということを。逆らったらどうなるかを。
……まさか。
あの幼い摂政が、そこまで考えて。
いや、幼いと言っていいのか。あの方はまだ十にも満たないと聞く。
だが、あの戦場を作った人間が──あの招待状を書いた人間が──子供のはずがない。
宴で見かけた陛下は、小さかった。華奢な体に立派な衣装をまとい、玉座に座っていた。子供だった。どこから見ても子供だった。
だが──あの目。
一瞬だけ、目が合った。
淡い色の瞳が、俺を見た。見たというより──通り過ぎた。風景でも見るように、群衆の一部として、俺を含めた「地方貴族」を一括りに流し見た。
あの目に、感情はなかった。
怒りも。喜びも。軽蔑すらも。
ただ──確認していた。
俺たちがここにいることを。見たものを理解したことを。そして、理解した上で、笑って杯を掲げていることを。
全部──見透かされている気がした。
俺は杯の酒を見つめた。琥珀色の液面に、大広間の灯りが揺れている。
先祖代々、守ってきた。
曾祖父が荒野を開墾した。祖父が石を積んで城壁を築いた。親父が水路を引いて田畑を広げ、領民を増やした。俺はそれを継いだ。次の代に渡す。息子に渡して、息子がまたその息子に渡す。
それだけが、俺の人生だった。
領地に帰れば、城壁がある。先祖が三代かけて積み上げた、立派な石の城壁だ。俺はあれを誇りに思っていた。
だが──あの大地を消し飛ばす力の前で、俺の堀に何の意味がある。堀の底ごと吹き飛ぶだろう。
あの見えない弾の前で、俺の剣に何の意味がある。届かない。近づく前に倒れる。何が来たかもわからないまま、倒れる。
あの白い炎の前で、城壁に何の意味がある。俺の城壁と、ノルデンの城門で、何が違う。同じ鉄だ。同じ石だ。同じように溶ける。同じように崩れる。
三代かけて築いたものが、あの兵器の前では──紙と同じだ。
……足元が揺れている気がする。
この宴の床が。この帝国の床が。
いつ抜けてもおかしくない気がする。
俺は勝者の側にいる。今は。
だが「今は」だ。陛下が俺の城壁を溶かそうと思えば、溶ける。俺の兵を倒そうと思えば、倒せる。俺の領地を消そうと思えば──消える。
それを止める術が、俺にはない。
あの招待状は、それを教えるために送られたのだ。
◆
「おい、飲んでるか?」
声をかけられた。
顔を上げると、同じ丘にいた男爵の一人が立っていた。赤ら顔で、杯を片手に、上機嫌だった。
「今日は祝いだぞ。浮かない顔するなよ」
「……ああ、すまん」
俺は笑った。
「ちょっと飲みすぎたかな」
「飲みすぎたなら、もう一杯だ!」
男が笑った。楽士の音が大きくなった。どこかで歌声が上がった。宴はまだまだ続く。帝国の勝利を祝う声が、大広間を満たしている。
俺は杯を掲げた。
「──勝利に、乾杯」
杯を空けた。
酒は美味かった。確かに美味かった。喉を通り、腹の底に落ちていく。温かい。確かに温かい。
だが──喉の奥に、何かが残った。
名前のつかないものだった。不安と呼ぶには静かすぎて、恐怖と呼ぶには曖昧すぎる。ただ、じわりと滲むように、消えない。飲み干しても飲み干しても、消えない。
宴は続いている。
誰もが笑っている。
俺も笑った。
笑いながら、もう一杯、注いだ。




