第111話 戦争の裏側:ジャイロ効果
翌朝。
庭の方から賑やかな声がする。
「おっさん、弱えな!」
「うるせえ! 紐の巻き方が悪いんだよ!」
何事かと思って駆けつけると──独楽だった。
ギュンターさんとヨハン様が、独楽をぶつけ合っている。二人の独楽がぶつかり合い、ギュンターさんの独楽が弾き飛ばされた。ヨハン様が両腕を上げて勝利宣言している。ギュンターさんが悔しそうに紐を巻き直している。
「何やってるんですか?」
「コマよ」
お嬢様は涼しい顔で答えた。呆れ顔──だが、少しだけ口元が緩んでいる。狙い通りなのかもしれない。
「さて、これが昨日の答え合わせよ」
お嬢様は二人を呼び寄せて、新しい独楽を回した。
くるくると回る独楽は、真っ直ぐ立っている。勢いよく回っている間は、微動だにしない。
「エマ、見てなさい」
やがて回転が弱まると、独楽はふらふらと揺れ始めた。首を振るように円を描いて──ぱたり、と倒れた。
お嬢様はもう一度回した。回っている間は立っている。止まると倒れる。もう一度。同じだ。
「何か気づかない?」
「……回っている間は倒れない、ですか?」
「それで?」
「それで……」
昨日のことが頭をよぎった。走っている間は倒れなかった。止まったら転んだ。
「……けりんちょと同じですか?」
「そう。同じ原理よ」
お嬢様は二つ目の独楽を回した。
「回転する物体は、その回転の軸を維持しようとするの。これをジャイロ効果と呼ぶわ」
「ジャイロ効果……」
「独楽を横から押してみなさい」
私は、回っている独楽の側面を指で押した。
倒れると思った。だが──倒れなかった。
それどころか、押したのとは全く違う方向に、独楽が傾いた。
「え……? 横から押したのに、前に傾きました……?」
「回転している物体に力を加えると、その力とは違う方向に反応するの。歳差運動というのだけれど、今は名前は覚えなくていいわ」
「……」
「大事なのはここよ。回転が速いほど、姿勢を変えにくくなる。外から押しても倒れない」
「だからけりんちょは、速く走るほど安定するんですね……!」
「なるほどな……」ギュンターさんが腕を組んだ。「昔から投げ斧は回転させた方が当たるって言われてたが、そういうことか」
「すげえ……回転で安定するって、そういう原理だったのか」ヨハン様の目が輝いている。
「そういうこと。車輪が速く回っているほど、回転軸を維持しようとする力が強くなる。だから速く走れば安定する。遅くなると、その力が弱まって──」
「倒れる」
「正解」
お嬢様は、独楽が止まるのを眺めていた。
◆
「もう一度乗りなさい。今度は速さを変えてみて」
再び庭に出た。けりんちょが芝生の上で待っている。
昨日は無我夢中だった。今日は──実験だ。
私はけりんちょに跨った。昨日よりも落ち着いている。体が覚えているのだ。蹴り方も、バランスの取り方も。
ゆっくり蹴った。
ふらふらする。独楽と同じだ。回転が遅いと不安定になる。
もう少し強く蹴った。
安定してきた。ハンドルから手に伝わる振動が小さくなる。
もっと強く蹴った。
揺れが消えた。矢のように真っ直ぐ進む。
「本当だ……速いほど倒れにくい……!」
「おお、昨日よりうまくなってんな!」ギュンターさんが声を上げた。
昨日は夢中で気づかなかった。でも、理屈を知った上で乗ると、はっきりと分かる。
遅い──ふらふら。
速い──安定。
速度を上げると安定し、下げると不安定になる。その境目が、手に伝わる振動で分かるようになった。
「面白い……」
昨日とは違う感覚だった。
昨日は「楽しい」だった。風を切る爽快感。速さの快感。
今日は「面白い」だ。理屈が体で確かめられる。知識と感覚が繋がる。
その違いが、自分でも分かった。
──あれ。私、ちょっと成長してないですか。
調子に乗りそうになったが、昨日の「私は風です」を思い出して、テンションを抑えた。あれ以上は駄目だ。
ゆっくりと速度を落として、今度はちゃんと足を着いて止まった。倒れなかった。
「上手くなったわね」
お嬢様が言った。
「昨日のおかげです。……転んだおかげとは言いたくないですが」
◆
「エマ、この原理は他に何に使えると思う?」
庭のベンチに座って、お嬢様が訊いた。
「他に……?」
回転すると安定する。ジャイロ効果。
私は考えた。
回転するもの……独楽、車輪、けりんちょ。他に回転するものは何だろう。
水車は回る。でもあれは固定されている。
投げた石は……回転しない。いや、する?
「……すみません、分かりません」
答えは出なかった。ヨハン様が何か言いたそうな顔をしていたが、お嬢様が目で制した。
「そう」
お嬢様は、怒らなかった。がっかりもしなかった。
「考えようとしたわね。それでいいの」
「……」
「答えは、いずれ分かるわ。角運動量保存則よ」
「かくうんどうりょう……」
「いつか教えるわ」
「また!?」
ルシャトリエに続いて二つ目だ。名前だけ出して説明しない。
「一つ目はルシャトリエ、二つ目はかくうんどうりょう……お嬢様、『いつか教える』リストが増えていく一方なんですが」
「覚えているのね。偉いわ」
褒められたが、全然嬉しくない。
「しかし乗り心地はまだまだ課題ね」
片付けをしながら、お嬢様がけりんちょの車輪を見つめていた。
「本当はもっと良くできるのだけど。素材がないのよ」
「素材?」
「ゴムの木という植物がある。南方の大陸にしか生えないのだけど、その樹液を固めると弾力のある素材になるの」
「弾力……」
「今の竹編みのタイヤの代わりに使えば、もっと滑らかに走れる。衝撃も吸収できる」
お嬢様は少しだけ、残念そうな顔をした。
「ない素材は使えない。今ある技術でできることをやるしかない」
珍しい言葉だった。お嬢様が「できない」に近いことを言うのは、ほとんど見たことがない。
「いつか手に入れるわ」
お嬢様は、遠くを見ていた。南の方を。
──「いつか」が、また一つ増えた。
でもこの「いつか」は、ルシャトリエや角運動量保存則とは少し違う気がした。お嬢様の目に、欲しいものを見つけた子供のような光があったから。
私はけりんちょを工房に戻しながら、膝の擦り傷を撫でた。
痛い。でも、悪くない二日間だった。




