第110話 戦争の裏側:けりんちょ
石鹸作りから数日後のことだった。
ギュンターさんの工房から、妙なものが運び出されてきた。
鉄の棒を組み合わせた骨組み。前後に車輪が一つずつ。車輪の外周には竹を細く割いたものが編み込まれている。真ん中あたりに革張りの座面があって、その下にバネが仕込んであった。
「……何ですか、これ」
「乗り物よ」
お嬢様は満足げに完成品を眺めていた。
「乗り物……?」
車輪が二つ。前と後ろに一つずつ。
立てかけると、すぐに倒れる。
「お嬢様、これ、倒れますけど」
「跨いで、足で地面を蹴って進むの」
「……足で蹴る?」
「そう。馬のように跨いで、足で地面を蹴る。キックスケーター、キックボードとも呼ぶけれど──私の地元ではけりんちょって呼ばれてたの」
「けりんちょ」
「キックスケーター? キックボード? ……けりんちょ? どれも聞いたことがないんですが」
お嬢様の地元は、私の地元でもある。同じ領地で生まれ育った。でも「けりんちょ」どころか「キックスケーター」も「キックボード」も聞いたことがない。
お嬢様は時々、こういう謎の言葉を使う。どこで覚えたのか聞いても、はぐらかされるだけだ。
ギュンターさんが工房から出てきた。
「おう、できたぞ。鉄のフレームは俺の傑作だ。溶接の精度には自信がある」
「竹のタイヤはどう?」
「まあまあだな。本当は別の素材が欲しいところだが、今はこれが精一杯だ」
「そうね。いずれ手に入れるわ」
お嬢様はけりんちょの車輪を回した。くるくると滑らかに回る。
「エマ、乗りなさい」
「え」
「試乗よ」
「なぜ私なんですか!!」
「メイドは主人より先に毒見をするものでしょう?」
「乗り物に毒見はありません!!」
「いいから乗りなさい」
「お嬢様、そもそもこれ、立てかけても倒れるんですよ? 人が乗ったら余計に──」
「走れば倒れないわ」
「走らなかったら!?」
「倒れるわね」
「それは乗り物として欠陥では!?」
お嬢様は私の言葉を無視して、けりんちょのハンドルを持って差し出した。
「……」
断れない。断れたことがない。
「……はい、お嬢様」
◆
城の庭に出た。
広い芝生の上に、けりんちょが置かれている。カール陛下も見物に来ていた。
「エマ、何するの?」
「あの乗り物に乗るそうです……」
「すごい! 頑張って!」
陛下の純粋な応援が胸に刺さる。頑張らなくていい仕事を頑張らされているのだが。
私はけりんちょに跨った。
サドルに座ると、足がちょうど地面に届く。お嬢様が高さを調整してくれていたらしい。
「右足で地面を蹴って。強めに」
「は、はい」
右足で地面を蹴った。
けりんちょが、ぐらり、と前に進んだ。
「わ、わわわ──」
バランスが取れない。左に傾く。慌てて足を着いた。
「もう一回。今度はもっと強く」
もう一回蹴った。少し進んだ。そして──左に倒れた。
膝を擦りむいた。
「痛い……」
「ガハハ! 盛大にいったな!」
ギュンターさんが笑っている。笑わないでほしい。
「エマ! 大丈夫!?」
カール陛下が駆け寄ってきた。この方だけが人の心を持っている。
「大丈夫です、陛下。ありがとうございます」
「もう一回」
お嬢様は容赦がなかった。
二回目。蹴って、進んで、倒れた。
三回目。蹴って、少し長く進んで、倒れた。
四回目。蹴って、もう少し──
「あ」
倒れなかった。
蹴り続けているうちに、ふっと安定する瞬間があった。体が真っ直ぐになる。車輪が回り続けている間だけ、けりんちょは倒れない。
「あ、あれ……?」
もう一回蹴った。速度が上がる。安定感が増す。
「乗れてるわ」
お嬢様の声が聞こえた。
蹴った。蹴った。蹴った。
風が、顔に当たった。
「──っ!」
速い。足で蹴っているだけなのに、歩くより遥かに速い。景色が流れていく。芝生の緑が、石壁の灰色が、空の青が、横に流れていく。
気持ちいい。
「……っ、はは」
笑ってしまった。
自分でも驚いた。いつから笑っていなかっただろう。毎日毎日、書類と帳簿と報告書に追われて、お嬢様の無茶振りに振り回されて、胃を押さえながら走り回って。
でも今、風を切って走っている。ただそれだけのことが、こんなに楽しい。
「速い……速いです!!」
声が出た。
もっと蹴った。もっと速くなった。
「もっと速く!!」
庭を一周した。止まる気がなかった。もう一周。風が髪を乱す。スカートがばたばたと翻る。メイドとして完全に不適切な姿だが、そんなことはどうでもよかった。
「私は風です!!」
叫んでいた。
自分でも何を言っているのか分からなかった。ただ、体の底から湧き上がるものがあって、それを止められなかった。
庭の隅で、ギュンターさんが腹を抱えて笑い転げていた。
「ガハハハ! あのメイド、壊れやがった!!」
カール陛下は目を丸くしていた。
「エマ、楽しそう……」
お嬢様は──腕を組んで、呆れた顔をしていた。
エマが何周もしている間に、カール陛下がお嬢様の袖を引いていた。
「僕も乗りたい!」
「エマが戻ってきたらね」
私がようやく止まった──正確には転んで止まった──後、カール陛下がけりんちょに跨った。
お嬢様が後ろを支えながら、ゆっくり走らせる。
「わ……わあ! 動いてる!」
陛下の笑顔が眩しかった。この国の皇帝が、芝生の上でけりんちょに乗って笑っている。平和な光景だった。
次にギュンターさんが乗った。
「どれ、俺も──おっ、おおっ!?」
体が大きすぎてバランスが取りにくいらしく、蛇行しながら庭を横切っていった。豪快に笑いながら。
「ガハハ! こいつは面白え!!」
ヨハン様も乗った。最初は慎重に蹴っていたが、すぐにコツを掴んで滑らかに走り始めた。
「……なるほど。速度と安定性に相関がある。車輪の回転数が──」
走りながら分析している。この人は本当に科学者だ。
◆
みんなが一通り乗り終わった後、私はもう一度けりんちょに跨った。
今度は落ち着いて──と思ったのだが、蹴り始めたらやっぱり楽しくて、また何周もしてしまった。
さすがに息が上がって、止まろうとした。
足を地面に着こうとした瞬間──
「わっ──!」
バランスが崩れた。走っている間はあんなに安定していたのに、速度が落ちた途端に、けりんちょが傾く。
盛大に転んだ。
芝生の上を転がって、空が見えた。
「…………」
仰向けのまま、空を見つめた。
青い空。白い雲。静かだった。
……私は今、何を叫んでいただろう。
記憶が蘇ってきた。
「速いです!!」
「もっと速く!!」
「私は風です!!」
「…………」
顔が、みるみる赤くなっていくのが分かった。
私は起き上がった。お嬢様が、すぐ横に立っていた。
「い、今のは忘れてください……!!」
「忘れないわ。一生覚えておく」
お嬢様の口元が、わずかに歪んでいた。笑っている。イタズラっぽく。
ギュンターさんが近づいてきた。
「おい風、大丈夫か」
「風って呼ばないでください!!」
「ガハハ! 自分で言ったんだろうが!」
「で、エマさん、風速何メートルだったんすか」
「ヨハン様まで!? やめてください!!」
みんなにいじられる私。可哀想な私。
「──で、気づいた?」
お嬢様の声が、すっと真面目になった。
「走っている間は倒れなかったでしょう」
「……え?」
「止まったら倒れた。でも走っている間は、ずっと安定していた」
言われてみれば、そうだった。蹴り続けている間は、不思議なほど安定していた。速ければ速いほど、倒れる気がしなかった。
でも止まった瞬間、一気にバランスが崩れた。
「なんで走ってるときは倒れないのに、止まると倒れるんですか!!」
「いい質問ね」
お嬢様は微笑んだ。
「ジャイロ効果っていうんだけど、まあ詳しい話は明日話すわ」
「今日教えてください!!」
「駄目よ。体が覚えた後に頭で理解した方がいいの」
「……」
「今日はたくさん転んだでしょう。体が覚えたわ。明日、理屈を教える。その方が深く分かるの」
お嬢様はそう言って、城に戻っていった。
私は芝生の上に座ったまま、膝の擦り傷を眺めていた。
……楽しかった。
悔しいけど、認めざるを得ない。あんなに楽しかったのは、いつ以来だろう。
でも「私は風です」は忘れてほしい。本当に忘れてほしい。
絶対に忘れてもらえないだろうけど。




