第109話 戦争の裏側:石鹸の副産物〜ヨハン視点〜
※作者の趣味で科学蘊蓄が延々と続きます。興味ない方は遠慮なく飛ばしてください。
※本作に登場する化学反応は実際の科学に基づいていますが、絶対に真似しないでください。
ある日、師匠から呼び出しがあった。
「明日の朝、馬車を用意しなさい。場所はあとで伝えるわ」
それだけだった。行き先も、目的も、何も言わない。いつものことだ。
ただ、一つだけ違った。
「軍事機密よ。誰にも言わないこと」
師匠の口から「軍事機密」なんて言葉が出たのは初めてだった。背筋に、冷たいものが走った。
◆
翌朝。
馬車に揺られて二時間ほど。帝都から離れた山奥に、見たことのない建物があった。
石造りの、頑丈な工房だ。周囲には木々が生い茂り、人の気配がない。窓は小さく、壁は分厚い。
「師匠、こんなとこに工房があったのか」
「秘密の工房よ。知っているのは私とギュンターだけ」
中に入ると、ギュンターが先に来ていた。
「おう、小僧。遅えぞ」
「おっさん、知ってたのかよ」
「嬢ちゃんに呼ばれて、三ヶ月前から出入りしてる」
三ヶ月前から。俺の知らないところで、何かが動いていたのか。
工房の奥に進むと、棚にずらりと並んだ容器が目に入った。透明な液体が入っている。何十本もある。
見覚えのある容器だった。俺が管理を任されていたグリセリンだ。石鹸を作るたびに出る副産物を、師匠の指示で一滴も捨てずに貯め続けていた。
だが──こんなにあったのか。俺が管理していた分だけではない。他の工房でも石鹸を量産していたはずだから、そちらの分も全て集められていたのだろう。
「師匠……これ、俺が貯めてた分だけじゃないよな」
「ええ。帝国中の石鹸工房から集めさせたわ」
「なんのために、こんなに……」
「ここからが本題よ」
師匠は棚の前に立った。いつもの紅茶を飲む時の余裕はなかった。表情が、真剣だった。
「ヨハン、ギュンター。これから見せることは、誰にも言わないこと。軍の上層部にも」
「……おう」
「分かってるよ、嬢ちゃん」
嫌な予感がした。
◆
「近々戦争になる。その時のために、火薬を作っておきたいの」
戦争──。
ギュンターが腕を組んだまま、低く唸った。
「……マジかよ」
俺も声が出なかった。師匠の口から『戦争』なんて言葉が出るとは思わなかった。
だが、師匠は俺たちの動揺に構わず、作業台に向かった。
師匠が材料を並べた。
グリセリン。硝酸。硫酸。氷水の入った大きな桶。
「ってことは、ここにあるグリセリンが?」
「ええ、そうね」
石鹸の副産物──じゃなかったのか。最初から、これが目的だったのか。
硫酸──H₂SO₄。鉱山から採れる硫黄を燃やしてSO₂、触媒で酸化してSO₃、水と反応させて作る。S → SO₂ → SO₃ → H₂SO₄。工場で量産しているやつだ。
硝酸──HNO₃。原料は硝石、硝酸カリウムKNO₃。ガキの頃、洞窟で見つけた白い結晶だ。師匠に見せたら目の色が変わった。「理由は今は言えないけど」──あの時、師匠はそう言った。
これか。これが、あの時言えなかった理由か。
硝石に硫酸をかけて蒸留すると硝酸が得られる。
どちらも師匠の指示で、この工房に運び込まれていたらしい。
全部、準備されていたのだ。俺の知らないところで。
「今から、グリセリンをニトロ化するわ」
「ニトロ化……」
ニトロ基──NO₂。窒素と酸素の塊だ。有機化合物にこいつが付くと、性質が激変する。師匠から教わった知識が頭の中を駆け巡る。
詳しい手順は──師匠に口止めされている。軍事機密だ。
ただ、一つだけ言えるのは、生きた心地がしなかったということだ。温度管理を一瞬でも間違えれば、俺たち全員吹き飛ぶ。師匠だけが涼しい顔をしていた。
何時間経っただろう。最後の工程が終わった時、俺は汗だくだった。
容器の底に、淡い黄色の油のような液体が沈んでいた。
「これがニトログリセリンよ」
師匠がそう言った。
「ちなみに、これは狭心症の薬にもなるの」
「……は?」
「体内でニトロ基が分解されて一酸化窒素──NOが発生する。NOは血管の平滑筋を弛緩させるの。つまり血管が広がる。心臓の血管が詰まりかけている患者に使えば、血流が改善する」
「爆薬が、薬……?」
「そう。胸に貼ったり、舌の下に含ませたりするの。少量であれば爆発しないわ」
師匠は淡い黄色の液体を見つめた。
「火薬工場の労働者が、工場にいる間だけ胸の痛みが消えるという報告があったの。ニトログリセリンの蒸気を吸っていたからよ」
爆薬が、人を救う薬になる。
──化学は、本当に分からない。
俺は、その液体を見つめた。
グリセリンにニトロ基が三つ付いただけ。たったそれだけで、無害な石鹸の副産物が──。
……待て。
石鹸を作ると師匠が言い出した時──俺はただの衛生事業だと思っていた。グリセリンが出るから貯めておけと言われて、そうした。
「師匠、石鹸つくるとか言ってたけど、まさか、最初からこれが──」
師匠の顔を見た。師匠は何も言わなかった。ただ、微かに笑っていた。
「……想像に任せるわ」
背筋が冷えた。
石鹸を広めて、みんなが喜んで、帝国中の工房がグリセリンを貯め続けて──その裏で、師匠はこれを見ていたのか。
怖い人だ。
俺の師匠は、本当に怖い人だ。
師匠は、俺の顔を見て何かを察したのか、話題を切り替えた。淡い黄色の液体を指さす。
「さて、なぜこれが爆発するか。仕組みを教えるわ」
師匠が言った。
「普通の燃焼は、燃料が外の空気から酸素を吸って燃える。薪が燃えるのも、蝋燭が燃えるのも同じ。空気中の酸素を取り込む時間がかかるから、ゆっくり燃えるの。まあこれは以前教えたとおりね」
「……おう」
「でもニトロ基──NO₂は、分子の中に酸素を持っている。外から酸素を吸う必要がない」
「自前で酸素を持ってるから……外の空気を待たなくていい」
「そう。燃料と酸素が最初から同じ分子の中にある。だから反応が一瞬で完了する。空気を吸う時間がゼロ。それが爆発よ。式を見たらわかりやすいわね」
師匠は黒板の前に移動する。
「普通の燃焼、たとえば炭素が燃える反応はこう」
師匠が黒板に書いた。
「左辺に酸素O₂がいるでしょう? 炭素が燃えるには、外から酸素をもらわなきゃいけない。空気中の酸素よ。だから空気を吸う時間がかかる。ゆっくり燃える。
一方で──」
師匠が黒板にニトログリセリンの化学反応式を書いた。
「これがニトログリセリンの分解の式。ほら、左辺にO₂がいないでしょう?」
──本当だ。左辺にはニトログリセリンしかない。外から酸素を足していない。
「分子の中の酸素だけで、全ての炭素がCO₂に、全ての水素がH₂Oになっている。しかも酸素が余ってO₂まで出る。自前の酸素だけで燃え尽きて、なおお釣りが来るのよ」
自分の体だけで完結する反応。外の空気を待つ必要がない。だから一瞬で終わる。
それが爆発の正体か。
「しかも生成物は全て気体。液体から気体になると体積は一万倍以上になる。一瞬で一万倍に膨張する。その圧力が、衝撃波になるわ」
「一万倍……」
◆
山中の広場に出た。
周囲に人はいない。木々が茂るだけの、静かな場所だった。
師匠がニトログリセリンのごく少量を、岩の上に置いた。
「離れなさい。遠くへ」
俺とギュンターは、200メートルほど離れた。
師匠が長い導火線に火をつけて、走ってきた。
待った。
そして──
轟音。
大地が揺れた。腹の底を突き上げるような振動。土煙が噴き上がり、岩があった場所に穴が開いていた。木々がなぎ倒されている。
耳が痛い。熱い風が頬を叩いた。焦げた土の匂い。
「……」
言葉が出なかった。
ほんのわずかな量で、これか。
「すげえ……」
声が震えていた。
科学の力だ。原子と原子の結合が組み替わるだけで、これだけのエネルギーが放出される。
高い棚に載ったボールが床に落ちるようなものだ。不安定な状態から安定な状態へ、一気に転がり落ちる。その落差が、この衝撃になる。
美しい、と思った。
──直後に、気づいた。
これは、兵器だ。
人の上で使えば──。
「師匠」
「何?」
「……これ、兵器だよな」
「そうよ」
師匠は、何でもないことのように答えた。
「俺は……」
言葉を探した。
「石の中に原子が見えるようになって、世界の見え方が変わって……それが嬉しかった。結合が見える。反応が見える。全部繋がってるんだって」
「……」
「でもこれは──こんなもんのために、俺は化学を学んだのか?」
静かになった。
師匠は俺を見ていた。あの冷たい目で。でも、怒ってはいなかった。
「ヨハン」
「……」
「『作れるかどうか』と『作るべきかどうか』は別問題よ」
「……おう」
「でもね。いずれ誰かが作るの。原理がある以上、いつか必ず誰かが辿り着く」
「……」
「ならば、責任を持てる者が管理すべきよ」
師匠は、爆発で抉れた地面を見つめた。
「それに──これがあれば、兵士を万単位で死なせなくて済む」
「……どういう意味だ」
「戦争は来るわ。必ず」
師匠の声は、静かだった。
「その時に、一方的に終わらせる力があれば──長引かない。長引かなければ、死ぬ人間は減る」
「……」
「圧倒的な力は、抑止力になるの。戦わずに済む力」
俺は答えられなかった。
師匠の理屈はわかる。わかるが──。
目の前の穴を見た。あの岩が、跡形もなく消えている。
ここに人がいたら。
考えたくなかった。
◆
工房に戻った。
師匠は次の作業に取りかかった。
「ニトログリセリンは不安定すぎる。少しの衝撃で爆発する。このままでは運べない」
「……」
「安定化させる必要があるの」
師匠は棚から白っぽい粉を取り出した。
「珪藻土よ。微生物の殻が積もってできた土。細かい穴が無数に開いている」
「穴?」
「この穴にニトログリセリンを染み込ませるの。液体が固体に閉じ込められて、衝撃に強くなる」
師匠が、珪藻土にニトログリセリンを少しずつ染み込ませていった。
やがて、粘土のような塊ができた。
「これがダイナマイトよ」
ダイナマイト。
持ち運べる爆薬。
ギュンターが、その塊を手に取った。
「……とんでもねえもんだな」
ギュンターの声は低かった。いつもの豪快さがなかった。
「おっさん……怖くねえのか」
俺は聞いた。
ギュンターは少し考えてから、答えた。
「怖えよ」
「……」
「だが嬢ちゃんが使うなら、無駄には使わねえ」
短い言葉だった。
でも──その言葉に、俺は少し救われた。
ギュンターは怖がっている。それでも、師匠を信じている。怖いことと、信じることは、両立するのだ。
俺にはまだ、その覚悟が足りない。
でも──おっさんがそう言うなら。
もう少し、考えてみてもいいのかもしれない。
片付けをしながら、師匠が黒板の前に立った。
「ニトロ化の応用を教えておくわ。火薬の多くは、ニトロ基を付けることで作れるの」
師匠が化学式を次々と書いていった。
「ピクリン酸──C₆H₂(NO₂)₃OH。フェノールにニトロ基を三つ付けたもの。黄色い結晶で、強力な爆薬よ。日露戦争では下瀬火薬という名前で砲弾に詰められたの」
「フェノールにニトロ基……」
「ピクリン酸は鉄と反応してピクリン酸鉄を作る。これが極めて鋭敏で、3000度の高熱を発するの。砲弾が戦艦の鉄板に命中すると、ピクリン酸が鉄と反応して──鉄板そのものが燃えるのよ」
「鉄が……燃える?」
「ロシアの軍人が記録しているわ。『日本砲弾の爆発力は鉄板をも燃焼せしむる』と。ただし欠点もある。鉄と反応しやすいということは、自分の砲弾の内壁とも反応するということ。暴発の危険が常にあったわ」
こええな。
「トリニトロアニソール──C₆H₂(NO₂)₃OCH₃。ピクリン酸のOHをOCH₃に変えたもの。性質は似ているけれど、鉄との反応性が低いから、ピクリン酸より暴発しにくいわ」
「ニトロセルロース──[C₆H₇O₂(ONO₂)₃]ₙ。セルロース、つまり綿にニトロ基を付けたもの。綿火薬とも呼ぶわ。これは別の用途があるのだけれど、それはまた今度」
黒板が化学式で埋まっていく。全部、ニトロ基。全部、同じ原理だ。
一つの原理で十に応用が効く──師匠がいつも言っていることだ。
だが今、その言葉が重い。十の応用が、全て爆薬なのだから。
「そして──本当はもっと安全な爆薬が作れるのだけど」
「……もっと安全?」
「コークス炉から出る黒い油があるでしょう。コールタール」
「ああ、あの臭いやつか」
「あの中にトルエンという成分が含まれているの。トルエンにニトロ基を三つ付ければ、もっと安定した爆薬になる」
師匠が黒板にさらさらと化学式を書いた。
「トリニトロトルエン。TNTとも呼ぶわ」
「じゃあ作れば──」
「分留技術がまだないの」
師匠は首を振った。
「コールタールは何百種類もの物質が混ざっている。その中からトルエンだけを取り出す技術が、まだ確立されていない」
「……」
「研究はさせているけれど、戦争は待ってくれないの」
師匠はそう言って、手袋を外した。
俺は黙っていた。
師匠は、俺が悩んでいる間にも、もう次を見ている。今ある技術で何ができるか、足りない技術をどう補うか。常に先を。
「ヨハン」
「……おう」
「悩みなさい。それは大事なことよ」
「……」
「でも、手は止めないで」
師匠は工房の扉を開けた。
山の向こうに、夕日が沈んでいくのが見えた。
石鹸を作る時に出た副産物が、大地を砕く爆薬になった。
自然の仕組みは、驚くほど少ない原理でできている。一つ理解すれば、十に応用が効く。
──師匠がそう言っていたのを思い出した。
石鹸と爆薬。人を清めるものと、人を殺すもの。原理は同じだ。
それが化学なのだと、俺はこの日初めて知った。




