第108話 戦争の裏側:本当の石鹸
※作者の趣味で化学蘊蓄が延々と続きます。興味ない方は遠慮なく飛ばしてください。
時は遡る。
王城に風呂を敷設して、しばらくの頃のことだ。
「ああ、もう臭い!」
風呂場から、お嬢様の声が響いた。
私は廊下で洗濯物を運んでいたのだが、その声を聞いて足を止めた。
──お嬢様が、大きな声を出している。
それだけで異常事態だった。
私は洗濯籠を廊下に置いて、風呂場に駆けつけた。
「お嬢様、どうされましたか」
「これ」
お嬢様は、手に持った石鹸を睨みつけていた。
灰色がかった、ぶよぶよした塊。獣脂と木灰を混ぜて作った軟石鹸だ。私も正直、あまり好きではなかった。洗っているのか汚しているのか分からない匂いがする。獣脂の、あの生臭い匂い。体を洗った後なのに、指の間に匂いが残る。
お嬢様は石鹸を桶の中に放り投げた。
「風呂を作った意味がないわ。せっかく体を洗っても、石鹸が臭かったら台無しじゃない」
「……お気持ちはわかります」
「臭い、べたつく、すぐ溶ける。水に浸けたら一日で半分になるのよ? しかも泡立ちが悪いから、どれだけ使ったのかも分からない。使えば使うほど不快になる石鹸なんて、石鹸と呼ぶ価値もないわ」
お嬢様がここまで長く不満を言うのは珍しい。よほど腹に据えかねていたのだろう。
「エマ、ヨハンを呼びなさい。石鹸を作るわよ。本物の」
来た。
この「作るわよ」が出た時のお嬢様は止められない。過去の経験から、私はそれをよく知っていた。
「……はい、お嬢様」
◆
翌日。
工房に入ると、ヨハン様が既に来ていた。油脂の入った壺、白い粉、水、大きな鍋──材料が手際よく並べられている。
「あ、エマさん。おはよう」
ヨハン様は目の下に隈を作っていた。
「……寝てないの?」
「昨日の夜中に師匠から『明日の朝、工房に材料を並べておきなさい』って」
「何時に?」
「夜中の三時」
それは「明日の朝」ではなく「今すぐ」ではないだろうか。
お嬢様は材料の前に立ち、私たち二人を見た。
「まず、今の石鹸がなぜ臭いか教えてあげるわ」
「はい」
「今の石鹸は、獣脂を木灰で煮て作っている。木灰には炭酸カリウムが含まれていて、これが弱いアルカリとして働くの」
「はあ」
「弱いから分解が中途半端で、匂いが残るし、べたつくし、溶けやすい。石鹸を良くするには、強いアルカリが要るの」
お嬢様はヨハンに目配せした。ヨハン様が奥から大きな水槽を運んでくる。中には塩水が張られ、二枚の金属板が浸けてあった。
「ヨハン、やって」
「ああ」
ヨハン様が水槽の金属板に導線を繋いだ。水力発電所からの電線──あの電気だ。
ぶくぶくと、塩水から泡が立ち始めた。鼻を突く刺激臭が漂う。
「塩は塩化ナトリウム──ナトリウムと塩素が結合したもの。電気を流すと、この結合が切れるの」
お嬢様は水槽の二枚の板を指さした。
「こちらの極に塩素が集まる。この刺激臭がそう。反対の極には水素。そして液の中にナトリウムが残るのだけれど、水と反応して水酸化ナトリウムになる。苛性ソーダともいうわね」
「塩から……」
「そう。塩と水と電気。それだけよ」
お嬢様は白い粉を指さした。先に作っておいたものだろう、水分を飛ばして結晶にしてある。
「これが水酸化ナトリウム。これで作れば、硬くて匂いの少ない石鹸ができるわ」
「苛性ソーダ……」
「触らないで。皮膚が溶けるから」
さらっと恐ろしいことを言う。
「ヨハン、手袋とメガネ」
「はい、師匠」
ヨハン様は慣れた手つきで手袋をはめ、お嬢様に渡した。自分もはめている。それから透明なメガネを二つ取り出して、一つをお嬢様に、もう一つを自分にかけた。
「……メガネも要るのですか?」
「目に入ったら失明するわ」
私だけが突っ立っていた。
「エマさんは離れて見てた方がいいぞ。素手で触るのもやばいが、飛沫が目に入ったら終わりだ」
「本当に危険な薬品よ。ヤク●が──悪い人たちがね、誰かを暗殺したいときに、ここに溶かすと跡形もなくなるの。証拠が消えて便利でしょう?」
お嬢様は肉の切れ端を溶液の中に落とした。
しゅわ、と音がして──肉片が、みるみる溶けていく。跡形もなく。
「…………」
「ね?」
怖い。この方が一番怖い。
「だから私が扱うの。あなたは見ていなさい」
お嬢様は鍋の中で油脂と苛性ソーダを混ぜ始めた。ヨハン様が横で温度を見ている。
ゆっくりと、丁寧に。
白い液体が、次第にとろりとした粘りを帯びていく。
「油脂と苛性ソーダが反応して、石鹸とグリセリンに分かれるの。けん化反応という」
「けんか……?」
「鹸化。喧嘩じゃないわよ」
「……言ってません」
言おうとしていたのだが。ヨハン様が横で笑いを堪えている。笑うな。
お嬢様は鍋をかき混ぜながら続けた。
「それより、石鹸がなぜ汚れを落とすか、教えてあげましょうか」
「お願いします」
「石鹸の分子は、細長い形をしているの。そして両端にそれぞれ違う性質があるの」
お嬢様は鍋から目を離さずに言った。
「片方の端は水と仲がいい。親水基という。もう片方の端は油と仲がいい。親油基という」
「親水基と、親油基……」
「水好きと油好き、と思えばいいわ。一つの分子の中に、水好きの端と油好きの端が同居している」
「……でも、水と油って混ざらないですよね?」
「そう。普通は混ざらない。でも石鹸の分子は、油好きの端を油の中に突っ込んで、水好きの端は水の中に残る。両方に足を突っ込めるのよ」
「……すごいですね、それ」
ヨハン様が横で頷いている。こちらはとっくに理解しているようだ。
「油汚れに石鹸をつけると、まず親油基が油汚れにくっつく。油好きだから、油に寄っていくの」
「はい」
「でもその反対側には親水基がある。水好きの端が、水に引っ張られる」
「……すると?」
「油汚れが水の中に引きずり出されるのよ。親油基が油を捕まえて、親水基が水に引っ張る。間に挟まれた油は、そのまま水と一緒に流れていく」
「なるほど……!」
水と油の間を取り持つ。混ざらないはずのものを繋ぐ。
……何だか、少しだけ自分の仕事に似ている気がした。お嬢様と皆の間に立って、どちらの言葉も分かるようにする。
「どうしたの?」
「いえ、何でもないです」
「そういえばお嬢様」
「何かしら?」
「お風呂を導入されたあと、みなに手洗いを徹底させていましたよね。あれはなぜなのですか?」
「いい質問ね。石鹸は汚れを落とすだけではないの」
お嬢様は少し嬉しそうだった。私が自分から質問したのが珍しかったのかもしれない。
「目に見えない小さな生き物──細菌というものがいるの。病気の原因になる」
「細菌……」
「細菌の体は、薄い油の膜で包まれている。細胞膜というのだけれど」
「油の膜……」
「石鹸は、その油の膜を引き裂くのよ」
「……え?」
「さっきの話を思い出しなさい。親油基が油にくっついて、親水基が水に引っ張る。油汚れが剥がされるのと全く同じ仕組みで、細菌の膜が壊れるの」
私は目を瞬いた。
「同じ……なのですか?」
「すげえ……」
ヨハン様が呟いた。こちらは純粋に感心しているらしい。
「ええ。汚れを落とすのと、細菌を殺すのと、原理は全く同じ」
お嬢様は窓の外を見た。
「自然の仕組みは、驚くほど少ない原理でできているの。一つ理解すれば、十に応用が効く」
その言葉は、何となく科学だけの話ではないような気がした。
お嬢様のやり方も、いつもそうだ。一つの仕組みで、いくつもの問題を同時に解決する。
ふと、疑問が浮かんだ。
「あの、お嬢様」
「何?」
「石鹸が細菌を殺すなら……手は大丈夫なのですか?」
「大丈夫とは?」
「石鹸で手を洗ったら、手の皮膚も壊れませんか? 細菌の膜を壊すのと同じ原理なら……」
お嬢様は、少しだけ口角を上げた。
「よく気づいたわね」
「人間の皮膚の表面は、死んだ細胞で覆われているの」
「死んだ……細胞?」
「そう。皮膚の一番外側は、もう生きていない細胞が何層にも重なっている。角質層というのだけれど」
「生きていない細胞が……守っている?」
「あなたの手は、死んだ兵士の鎧が何重にも積み重なった城壁で守られているのよ」
私は自分の手を見た。
この手の表面は、もう生きていない細胞──死んだ兵士の鎧。その奥に、生きた細胞がいる。
「石鹸が触れるのは、その城壁の表面だけ。中の生きた細胞には届かないの」
「だから、手は平気なのですね……」
「ただし、洗いすぎると城壁の間にある油が流れてしまう。隙間ができて、手が荒れる」
「あ、冬場に手がかさかさになるのは……」
「そういうことよ。でもね、しばらくすると体が油を出し直すの。奪われた分を取り戻そうとする」
「勝手に……ですか?」
「ええ。変化を加えると、それを打ち消す方向に動く。自然というのはそういう仕組みになっているの」
お嬢様は少し間を置いた。
「ルシャトリエの原理よ」
「……るしゃとりえ?」
「いつか教えるわ」
また出た。名前だけ出して説明しない。いつものことだ。
「なるほどな……」ヨハン様が自分の手を裏返して見ている。「角質層か。死んだ細胞が盾になってるって、よく出来てるな」
──死んだ兵士で、生きた者を守る。
お嬢様は何気なく言ったのだろう。でも私には、それがお嬢様の統治と重なって見えた。
犠牲の上に、安全がある。
考えすぎだろうか。
しばらくすると、お嬢様は鍋の底に溜まった透明な液体を、丁寧に別の容器に移した。
「これはグリセリンよ。けん化反応の副産物」
お嬢様は黒板に化学式を書いた。
HOCH₂—CHOH—CH₂OH
「炭素が三つ繋がって、それぞれに水酸基が付いた構造をしているわ」
「……」
何を言っているか分からなかった。ヨハン様だけが頷いている。
「捨てないで取っておいて。後で使うから。ヨハン、管理を任せるわ」
「了解」
ヨハン様が容器を受け取った。何に使うのか訊かないのだろうか。
「グリセリン……何に使うのですか?」
私が代わりに訊いた。
「いずれ分かるわ」
いつもの「いずれ分かるわ」だ。
私はもう慣れていた。お嬢様が「いずれ」と言ったものは、必ず後で何かに化ける。それも大抵、とんでもないものに。
ヨハン様はグリセリンの容器に蓋をして、棚に丁寧に並べた。その手つきが妙に慣れている。お嬢様の「取っておいて」に、もう疑問を持たなくなっているのだ。
この透明な液体が、いつか何に変わるのか。
知らない方が幸せかもしれない。
◆
その日の夕方。
石鹸は完成した。
普通なら固まるまで何日もかかるところを、お嬢様は鍋ごと湯煎にかけて加熱し続けた。熱で反応を一気に進める方法──ヨハン様が「ホットプロセス」と呼んでいた。
白くて硬い、四角い塊。手に取ると、今までの軟石鹸とは全く違う。しっかりとした重みがあって、べたつかない。
泡立てると、きめ細かい泡が立った。あの獣脂の臭みがない。
「……すごい」
私は思わず声を漏らした。
「これが本物の石鹸よ」
お嬢様は腕を組んで、少しだけ胸を張った。
ドヤ顔だ。お嬢様が、ドヤ顔をしている。
普段は表情を崩さないこの方が、こんなに得意げな顔をするのは珍しい。──かわいい、と思ってしまったことは、墓まで持っていこう。
城中の女官たちにも配られた。みな口々に「良い香り」「泡がきれい」「肌がすべすべになる」と喜んでいた。
──お嬢様がまともなものを作ってくださった。
私は少し感動していた。いつもは物騒なものばかり作るのに、今回は石鹸だ。人の役に立つ、平和な発明だ。
そう思っていた。
あの液体が何に化けるかも知らずに。




