第102話 プロパガンダ〜アルブレヒト視点〜
宮廷の一室に呼ばれた。
いつもの視察報告──ではなさそうだった。普段より多くの者が集まっている。
クラウスがいる。書記官が二人。そして──あのメイドも。
シャルロッテは大きな椅子に座り、机の上に広げられた地図を眺めていた。帝国と周辺諸国の地図だ。ノルデンは──もう帝国と同じ色で塗られている。
「全員揃ったわね」
シャルロッテが顔を上げた。俺は末席に控える。
「今日は、次の段階について話すわ」
次の段階。俺は身構えた。
「クラウス、旧ノルデンの様子を、周辺国に伝えなさい」
「伝える……ですか?」
「そう。『帝国に併合されたノルデンは、こんなに穏やかに統合された』と」
シャルロッテは淡々と続けた。
「『通貨交換は良心的なレートだった』と。『旧国王も処刑されず、田舎で穏やかに暮らしている』と」
クラウスが一瞬、考え込んだ。
「……どのような手段で伝えますか?」
「商人を使いなさい。帝国の商人が周辺国と取引する時に、『ノルデンの話』をさせるの」
「商人、ですか」
「外交官より信用されるわ。商人は嘘をつかない──と、みんな思ってるから」
実際には、商人は嘘をつく。利益のためなら何でも言う。俺は市場で、それを見てきたばかりだ。
だが──今回は嘘ではない。事実だ。都合の良い事実だけを選んだ、事実だ。
クラウスが頷いた。
「プロパガンダ、ですね」
「そうよ。一番効果的な嘘は、事実で作るものよ」
プロパガンダ。
嘘ではない。でも──真実でもない。「都合の良い事実」だけを伝える。
シャルロッテは地図の上で、周辺国を指でなぞった。
「次に我々と戦うことになる国の民衆は、こう思うでしょう」
「『抵抗したら、あの火の雨』」
指が止まった。あの爆発──俺もあの中にいた。あの炎は、今でも夢に見る。
「『降伏したら、意外と悪くない』」
指が動いた。ノルデンの領土をなぞる。
「『うちの王様は、どちらを選ぶのかしら』」
俺は息を呑んだ。クラウスも、書記官たちも、同じ表情をしていた。
あのメイド──エマだったか──だけが、複雑な顔をしている。何か言いたそうだが、黙っている。
シャルロッテは続けた。
「戦う前から、民心は折れる」
「王が戦争を決めても、民がついてこない」
「徴兵しても、士気が上がらない。税を集めても、協力が得られない」
「そして王は、こう考える。『戦っても勝てない。なら、降伏した方がマシだ』」
沈黙が流れた。
シャルロッテは、どこか遠くを見るような目をした。
「『百戦百勝、非善之善者也。不戦而屈人之兵、善之善者也』(ひゃくせんひゃくしょう、ぜんのぜんなるものにあらざるなり。たたかわずしてひとのへいをくっするは、ぜんのぜんなるものなり)」
流れるような読み下しだった。
「……何だ、それは」
俺は思わず聞いていた。
「東方の兵法家、孫子の言葉よ。『百回戦って百回勝つのは最善ではない。戦わずして敵を屈服させるのが最善である』という意味」
シャルロッテは淡々と続けた。
「これが本当の『勝利』よ」
クラウスが感心したように頷いている。書記官たちも目を見開いていた。
十歳の少女が、東方の古典を原文で諳んじる。この化け物は、一体どれだけの知識を持っているのか。
戦わずして勝つ──それを、この化け物は実践している。戦う前に、相手を降伏させる。
それが、この化け物のやり方だ。
父上が見たのも、これだったのか。帝国の農村を歩き、民の暮らしを見て──「勝てない」と悟った。
あの爆発を見る前から、父上は負けを認めていた。
俺たちは──最初から、掌の上だったのだ。
クラウスが書記官に何かを指示している。商人への連絡網、伝えるべき内容の草案──プロパガンダの実務が動き始めていた。
俺の番が来た。
「アルブレヒト、視察の報告を」
「……はい」
俺は立ち上がった。全員の視線が集まる。元敵国の王子が、征服者に報告をする。屈辱だ。だが──今さら逃げられない。
「民は……恨んでいない」
言葉を選ぶ。
「恨めないでいる」
シャルロッテが目を細めた。続きを促している。
「良心的な条件のせいで、怒りの矛先がない。便乗値上げに怒っている者はいる。だが、それは商人への怒りであって、帝国への怒りではない」
「想定通りね」
想定通り。すべてが、この化け物の計算の内だ。
「他には?」
「電信柱と呼ばれるものが設置されている。民は何か分かっていないが、帝国の力の象徴として受け止めている」
「そう」
シャルロッテは黙って聞いている。小さな体で、大きな椅子に座って。その目は──俺を見透かしているようだった。
「……完璧だと思った」
言葉が口をついて出た。
「悔しいが──完璧だ。民を恨ませず、従わせている。反乱の芽を摘み、不満を逸らしている。俺には──隙が見つけられなかった」
沈黙が流れた。
クラウスが何か言おうとしたが、シャルロッテが先に口を開いた。
「完璧じゃないわ」
「……何?」
「まだ始まったばかりよ。完璧かどうかは、十年後、二十年後に分かること」
シャルロッテが立ち上がった。窓際に歩いていく。その背中は小さい。だが──存在感は誰よりも大きい。
「ノルデンの統合は、序章に過ぎない」
窓の外を見ながら、シャルロッテは続けた。
「これから先、もっと多くの国を──」
途中で言葉を切った。何かを言いかけて、やめたようだった。
俺は待った。他の者も、息を潜めている。
シャルロッテが振り返った。
「アルブレヒト」
「……何だ」
敬語を使うべきだったかもしれない。だが、もう遅い。
シャルロッテは──気にしていないようだった。
「あなたの仕事はこれからよ、元王子さん」
「……」
「ノルデンの民のために働きたいと言ったわね」
「ああ」
「なら、働きなさい。機会は与えるわ」
「どういう意味だ」
シャルロッテは微笑んだ。子供らしい笑顔──だが、その目は笑っていない。
「旧ノルデン領の行政に、あなたを加えるわ。最初は補佐官として。実績を積めば、もっと上に行ける」
「……俺を、信用するのか」
「信用? そんなものいらないわ」
シャルロッテは肩をすくめた。
「あなたが裏切っても、どうにでもなる。でも、あなたが真面目に働けば、役に立つ。だから使う。それだけよ」
「……分かった」
俺は頭を下げた。
会議が終わった。
俺は最後に部屋を出た。廊下に出ると、あのメイド──エマが待っていた。
「……何か用か」
「いえ、その……」
エマは言葉を選んでいるようだった。
「大変ですね、と思って」
「大変?」
「祖国を失って、敵国で働くのは」
俺は足を止めた。
こいつは──同情しているのか。それとも、探りを入れているのか。
「……お前には関係ない」
「そうですね。でも──」
エマは俺を見上げた。その目は──意外にも、真剣だった。
「シャルロッテ様は、本当に使える人を使います。出自は関係なく」
「……」
「私もそうです。ただのメイドなのに、気づいたらこんな会議に出席させられてる」
メイドが国政の会議に同席する。普通ならあり得ない。だが、この帝国では──それが当たり前のように起きている。
「教育大臣のマリア様は、孤児院出身です。戦災で両親を亡くして、修道院に引き取られた」
エマは続けた。
「科学大臣のヨハン様は、鉱山の近くに住んでいた平民です。石ばかり集めている変わり者だと、周りから馬鹿にされていたそうです」
「……」
「でも、シャルロッテ様はそういう人を見つけて、使う。貴族かどうかなんて、どうでもいいんです。できるかどうか、それだけ」
俺は黙っていた。
孤児が大臣になる。変わり者の平民が大臣になる。そして──敵国の王子が、行政に加わる。
「だから──頑張ってください」
「……励ましか」
「励ましです」
エマは小さく笑った。
「私も毎日振り回されてますから。お互い、生き延びましょう」
そう言って、去っていった。
変な奴だ。敵国の王子を、励ますとは。
だが──不思議と、嫌な気分ではなかった。
孤児。変わり者。そして──敗戦国の王子。
この帝国では、出自ではなく能力で測られる。
それは──ノルデンにはなかったものだ。
長い廊下を歩きながら、俺は考えていた。
俺は、この化け物の手駒になる。ノルデンの民のために。
利用されているのは分かっている。「元王子がこんなに活躍していますよ」という広告にされる。「併合されても、こんなに良い待遇ですよ」という見本にされる。次に併合される国への、プロパガンダの材料にされる。
俺自身が──プロパガンダの一部になる。
でも、それでいい。
利用されながら、俺も動く。ノルデン人が少しでもマシな暮らしをできるように。帝国の中で、ノルデンの声を届けられるように。
旧ノルデン領の行政に加わる。最初は補佐官。実績を積めば、もっと上に行ける──シャルロッテはそう言った。
信用はいらない、とも言った。裏切っても、どうにでもなる、と。
恐ろしい自信だ。だが──それが事実だから、余計に恐ろしい。
窓の外には、帝国の首都が広がっていた。
大きな街。豊かな街。整然と並ぶ電信柱。行き交う馬車。笑い合う人々。
いつか──ノルデンも、こうなるのだろうか。
それが良いことなのか、悪いことなのか。俺には、まだ分からない。
でも──やるしかない。
見てろ、父上。俺は結果を出す。
夕陽が、廊下を赤く染めていた。
明日から──俺の新しい仕事が始まる。




