第101話 便乗値上げ〜アルブレヒト視点〜
通貨統合から、半月が過ぎた。
俺は再び旧ノルデンを訪れていた。定期的な視察──という名目だが、実際は民の声を聞くためだ。
市場を歩く。
前回来た時より、活気が戻っているように見えた。並行流通期間が終わり、ギルだけが通用する世界になった。
露店には野菜が並び、魚屋からは威勢のいい声が飛ぶ。肉屋の前には行列ができている。
一見、平和だ。
だが──
主婦たちが、値札を見ながら話していた。
「ねえ、パンの値段、上がってる気がしない?」
「え? そうかしら」
「統合前は2ヴィルだったでしょ? 今1ギル」
「レートで換算したら同じじゃない」
「でもさ、なんか……量が減ってない?」
主婦の一人が、手に持ったパンを眺めた。
「……言われてみれば」
「前はもっと大きかったわよ。子供二人で分けて、ちょうど良かったのに」
「今は足りないの?」
「足りない。三つ買わないと」
俺は足を止めた。
量が減っている。同じ値段で、中身が少なくなっている。
ああ、これは──
便乗値上げだ。
別の露店で、老人が店主と言い争っていた。
「おい、この芋、5ギルだと? 先週は3ギルだったろう」
「しょうがねえだろ、仕入れ値が上がったんだ」
「嘘つけ。帝国との関税がなくなって、物流は良くなったはずだ」
店主は舌打ちした。
「うるせえな。嫌なら買うな」
老人は黙って立ち去った。その背中は、小さく見えた。
俺は何も言えなかった。声をかければ、正体がばれる。護衛が止めるだろう。
だが──見ていることしかできないのが、歯がゆかった。
店の裏手を通りかかった時、商人たちの会話が聞こえた。
「ヴィルからギルに変わったからな……端数を切り上げても、誰も気づかねえよな」
「だよな。1.8ギル相当を2ギルで売っても、客は換算できないから分からない」
「通貨が変わるなんて、一生に一度あるかないかだ。稼げる時に稼がねえと」
笑い声が響いた。
俺は眉をひそめた。
こいつらは──ノルデンの民だ。帝国人じゃない。自分の同胞から、搾り取っている。
これは──問題だ。報告すべきか。
帝国に戻り、報告した。
執務室には、シャルロッテとクラウスがいた。俺は末席に控え、視察の報告を行う。
「──以上が、旧ノルデン領の現状です」
クラウスが書類をまとめながら言った。
「概ね順調のようですね。通貨の切り替えも混乱なく進んでいる」
「はい。ただ──」
俺は言葉を選んだ。
「一部の商人が、通貨統合に乗じて値上げをしているようです」
シャルロッテが顔を上げた。
「……便乗値上げね」
「はい。量を減らして実質的な値上げをしたり、端数を切り上げて──」
「具体的にはどの程度?」
「一割から二割ほどかと。民の間でも不満の声が出始めています」
クラウスが眉をひそめた。
「取り締まりますか? 商人への罰則規定は存在しますが」
シャルロッテは窓の外を見た。
沈黙が流れた。俺は当然、取り締まるものだと思っていた。民を守るのが、統治者の務めだ。
だが──
「いいえ。放っておきなさい」
「……は?」
思わず声が出た。クラウスも驚いた顔をしている。
「よろしいのですか? 民の生活に影響が──」
「影響はあるわね。でも、致命的ではない」
シャルロッテが振り返った。その目は、いつものように冷静だった。
「小さな不満は、ガス抜きになるの」
「ガス抜き……」
「国が滅びた。通貨が変わった。民の中には、怒りや不満がある。当然よね」
「……」
「その怒りが帝国に向いたら、面倒でしょう?」
クラウスが頷いた。だが俺には、まだ理解できなかった。
シャルロッテは続けた。
「便乗値上げをしている商人がいる。民はそれに怒る。『悪いのは帝国じゃなくて、あの商人だ』と思う」
「……帝国への恨みを、別の方向に逸らす」
「そういうこと」
俺は黙って聞いていた。
「もちろん、あまりにひどければ対処する。でも今は──泳がせておきなさい。商人たちが調子に乗りすぎたら、その時に取り締まればいい。『帝国が悪徳商人を成敗した』という形でね」
クラウスが書類に何かを書き込んだ。
「承知しました。監視は続けますが、即座の介入は控えると」
「そう。アルブレヒト、引き続き報告を頼むわ」
俺は頭を下げた。
「……御意」
そこまで計算しているのか。
便乗値上げは悪だ。民を苦しめている。老人は芋を買えず、主婦はパンを余分に買わなければならない。
でも──取り締まらない。なぜなら、その怒りは「商人」に向かうから。「帝国」には向かない。
そして最終的には、帝国が「正義の味方」として登場する。悪徳商人を取り締まる救世主として。
完璧だ。完璧すぎて、吐き気がする。
恐ろしい。こいつは、民の怒りすらコントロールしている。
執務室を出て、廊下を歩いた。
宮殿の窓から、帝都の街並みが見える。
俺は考え続けていた。
正しいのか、これは。
便乗値上げを放置する。民の怒りを、商人に向けさせる。帝国への反感を、そらす。
民にとっては──損だ。値上げされた分、生活は苦しくなる。あの老人は芋を諦め、あの主婦は家計をやりくりしなければならない。
でも──反乱は起きない。帝国への恨みは、薄れる。「悪いのは帝国じゃなくて、あの商人だ」と思う。
効果的だ。効果的だから、余計に恐ろしい。
そして──俺自身も、その仕組みの一部になっている。
視察して、報告して、シャルロッテの判断材料を提供している。俺の報告が、この「放置」という判断に使われた。
共犯だ。
だが──逆らえない。
窓の外を見た。
帝国の首都は、今日も平和だ。商人が行き交い、子供が走り回り、職人が仕事に励んでいる。
この平和は──こうやって作られている。
民の怒りを逸らし、不満を分散させ、最終的には帝国が「正義」として振る舞う。
完璧な支配だ。剣も、牢獄も必要ない。民が自ら従う仕組みを作っている。
俺に何ができるだろうか。
便乗値上げを告発する? シャルロッテに逆らう?
馬鹿げている。俺は元敵国の王子だ。人質同然の立場で、発言権などない。
今日の会議でも、俺は末席に座り、報告を求められた時だけ口を開いた。それ以上のことは──許されていない。
でも──見届けることはできる。学ぶことはできる。
あの化け物がどうやって国を治めているのか。どこに隙があるのか。何が弱点なのか。
いつか、俺がノルデンのために動ける日が来たら。その時のために、今は──学ぶ。
あの化け物の手法を。支配の技術を。そして──その隙を。
……隙など、あるのだろうか。
今日見せられたのは、完璧な統治術だった。怒りすら利用し、最終的には感謝させる。恨みを持つ者を、従順な民に変える。
父上は正しかった。「勝てるはずがなかった」と。
でも──諦めたくない。まだ。
夕陽が、窓から差し込んでいた。
赤い光が、俺の手を照らしている。
この手で、何かを変えられる日は来るのか。
まだ──何もできない。
でも、いつか。
いつか、必ず。




