第100話 交換所の行列〜アルブレヒト視点〜
旧ノルデン領に戻ってきた。
視察という名目だった。通貨統合がどのように進んでいるか、この目で確かめろ、と。
「殿下、こちらです」
護衛が先導する。
街道沿いに、見慣れぬものが立っていた。木の柱が等間隔に並び、その間を黒い線が繋いでいる。
前は、こんなものなかった。
俺がノルデンを離れていた間に、何かが変わり続けている。
旧首都の中心部、広場に面した建物に交換所が設けられていた。
長い列ができている。
「……多いな」
「はい。連日このような状態です」
俺は列の最後尾へ向かった。護衛が慌てて止める。
「殿下、並ばれる必要は」
「いい。民の声を、直接聞きたいんだ」
護衛は何か言いたげだったが、俺の表情を見て引き下がった。
列に並んでいる間、周囲の会話が聞こえてきた。
「おい、聞いたか。交換レート」
「ああ。1ギルが2ヴィルだとさ」
「思ったより悪くないぞ。パンの値段で換算したら、だいたい同じくらいだろ」
「……ああ、そうだな」
「何だよ、その顔」
「いや……こんなもんでいいのかって思ってな」
「贅沢言うなよ。負けたんだから」
俺は黙って聞いていた。
あの会議で決まったレートだ。シャルロッテが「パンの値段で換算しなさい」と言った。ビッグマック指数とか何とか、訳の分からない説明をしながら。
結果として──良心的なレートになった。
民は、どう受け止めているのか。
列が進む。
俺の前に、老婆と孫らしき子供がいた。
「おばあちゃん、まだ?」
「もう少しだよ。待っておいで」
やがて老婆の番が来た。窓口の役人が、帳簿を確認する。
「100ヴィルですね。50ギルになります」
「50ギル……」
老婆が、しわだらけの手で新しい貨幣を受け取る。銀色に光るギル硬貨。
「おばあちゃん、それで何が買えるの?」
「パンが……50個分だね」
「50個も! すごい!」
「昨日までも、100ヴィルでパンは50個だったんだけどね……」
老婆は硬貨を眺めた。
「数字が小さくなると、なんだか少なくなった気がするねえ」
「減ってないの?」
「減ってないよ。買えるものは同じ。でも……」
老婆は孫の頭を撫でた。その目は──安堵と、どこか寂しさが混ざっていた。
「ヴィルがなくなるのは、やっぱり寂しいねえ」
俺は黙って聞いていた。
損はしていない。購買力は同じだ。シャルロッテが言った通り、パンの値段で換算した公平なレート。
だが──通貨が消えるということは、国が消えるということだ。
数字上は同じでも、心の中で何かが失われていく。それを止める術は、俺にはない。
列から離れ、交換所の周囲を歩いた。
様々な人がいた。商人、職人、農民。老人も若者も。誰もが、旧通貨を新通貨に換えようとしている。
「旦那、両替ですかい」
声をかけてきたのは、初老の男だった。服装から見て、元兵士だろう。片足を引きずっている。
「……ああ」
「あんた、見ない顔だな。どこの出身だ」
「……この辺りだ」
嘘ではない。ノルデンの王城は、ここから遠くない。
「そうかい。俺は南の方でね。戦争で足をやられて、故郷に帰ってきたんだ」
「……そうか」
「あの爆発、見たか?」
俺は頷いた。見た。見たどころではない。あの中にいた。
「あれを見たらよ、もう戦う気なんて起きねえよ」
男は笑った。自嘲的な笑みだった。
「正直、こうして生きて帰れただけでもありがたいと思ってる」
「……」
「交換レートがどうこうとか、どうでもいいんだ。生きてる。それだけで十分だ」
俺も、あの爆発を見た。あの炎を見た。
こいつの言う通りだ。生きているだけで、ありがたい。
なのに──それを素直に認められない自分がいる。
交換所を離れ、街を歩いた。
見慣れた街並み。だが、所々に変化がある。
帝国の旗が掲げられている。看板の文字が、帝国語に変わりつつある。商人たちの会話に、帝国の言葉が混ざり始めている。
「いらっしゃい、ギル使えるよ!」
「ヴィルでもいいよ、今月中なら!」
並行流通期間。シャルロッテが決めた政策だ。混乱を最小限に抑えるために、一定期間は両方の通貨を使えるようにする。
合理的だ。
悔しいほど、合理的だ。
日が暮れかけた頃、俺は酒場に入った。
護衛は外で待たせた。一人になりたかった。
カウンターに座り、酒を頼む。出てきたのは、帝国産のワインだった。
「……ノルデンの酒はないのか」
「すまねえな、旦那。最近は帝国のが安くてよ」
安い。
そうか。関税がなくなったからか。
帝国の酒が、ノルデンの酒より安く手に入る。
ノルデンの醸造所は、どうなるのだろう。
隣の席で、男たちが話していた。
「結局さ、悪くない条件なんだよな」
「ああ。もっと搾り取られると思ってた」
「他の国が征服された時の話、聞いたことあるか?」
「あるある。通貨なんて紙くず同然にされたって」
「それに比べたら……まあ、まともだよな」
「……」
一人が黙った。他の二人が顔を見合わせる。
「どうした?」
「いや……恨めないのが、なんか嫌なんだよ」
「……」
「俺たち、負けたんだぜ? 国がなくなったんだぜ? なのに、条件が良いから感謝しろって? おかしくないか?」
「……まあ、気持ちは分かるけどさ」
「でも、どうしようもないだろ」
「あの爆発見ただろ? 逆らったら、俺たちもああなる」
「……」
「悔しいけどさ、生きてるだけましだよ」
俺は黙って聞いていた。
こいつらの言葉が、俺の中で反響している。
隣の席で、女たちが話していた。
「うちの人、戦争で死んだわ」
俺の手が止まった。
「帝国軍に殺されたの」
「……」
「でもね、交換レートが良いから感謝しろって言われても──できるわけないじゃない」
「……そうよね」
「でも、子供たちは食べさせなきゃいけない」
女の声は、淡々としていた。
「ギルで、生活していかなきゃいけない」
「……」
「恨んでるのに、恩恵を受けてる。おかしいわよね」
俺は杯を握りしめた。
「うちの人」──俺の部下だったかもしれない。俺の命令で戦場に送り、死なせた兵士かもしれない。
杯を空にした。
もう一杯頼む気にはなれなかった。
恨めない。
あの女──シャルロッテは、俺たちを殺したのに、恨めない。それどころか、感謝している者すらいる。
これが、あの化け物の支配か。
恨みがあれば、反抗できる。怒りがあれば、立ち上がれる。
でも──恨めなかったら?
感情のやり場がなかったら?
諦めるしかない。受け入れるしかない。生きていくしかない。
それが──一番残酷なんだ。
酒場を出た。
夜風が冷たい。護衛が近づいてきた。
「殿下、お戻りですか」
俺は頷いた。
だが──俺は、この仕組みを使う側に回る。ノルデンの民のために。
あの女は俺たちを見本にしている。「帝国に負けたらこうなりますよ」という広告に。
なら──俺はその広告を使う。「ノルデン人でも、帝国で活躍できますよ」という広告を作る。
利用されながら、利用し返す。
それが──俺にできる唯一のことだ。
旧ノルデンの夜空には、星が瞬いていた。
同じ星が、帝国の首都でも見えるのだろう。
もう──国境はない。




