1 魔の犬 8
登場人物
位高 憐:創作物の探偵みたいな恰好の青年。
瀬戸 洋:オカルトマニアの男子高校生。
座間 晴香:洋のご近所さんな女子高生。
――7日目――
休日を挟んで、翌週。大きな被害を受けた教室は窓の修理が終わるまで使われない事になったので、晴香は臨時で決められた別の教室へ向かう。
途中、校舎の陰でバイクを洗っている憐を見かけた。今日は用務員の恰好をしている。まだ魔犬との戦いで負った傷が治っていないのか、腕に包帯を巻いているが。
ちょっと迷ってから、晴香は憐に声をかけた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう。ま、俺は今日でここの仕事終わるけど」
(こんな短期間だけ、簡単に就けたりやめたりできるんだ。怪物の相手をする間だけ……)
不思議に思ったが、晴香はそこを詳しく聞こうとはしなかった。
だが憐の方から話を続ける。
「学校でまでクマ騒ぎが起きるなんてクマったもんだ。ま、もう起きない事は、君だけはわかってくれてるだろうが」
教室を破壊したのは忍び込んだクマという事にされた。
洋は襲われた被害者で、第一発見者が晴香。
どう考えても不自然なんてレベルでは無いが、他に説明などつかないのである。
よってそういう事になるしかなかった。
魔犬は死とともに蒸発した。すると数分もしないうちに学校内にいた人達が教室の惨状に気づいて……まぁ、なし崩しにクマが暴れて逃げたという話になったのだ。
放課後も学校には大勢の生徒や教師がいたけれど。
洋と晴香が魔犬に襲われた時、たまたま偶然、誰にも出くわさず見られなかったのだ。
そして警察が教室を丹念に調べたにも関わらず、獣の毛一本さえ見つかっていない。
そんな物はいなかったかのように。
だが、誰も見ておらず、痕跡が無くても、教室は破壊されていた。
残っている結果から「他にはありえない」という理由でクマの獣害という事にするしかなかった。
人間の社会には理屈が必要なのだ……人間の認識できる範囲の外を想定する事など、人間にできるわけはないのだから。
晴香は鞄から一冊の洋書を取り出す。悪趣味で禍々しい装丁の本を。
「彼の部屋から持ってきました。この本が魔導書なんですよね? どうぞ」
「おいおい、窃盗は感心しないぞ」
そう言いつつ憐は本を受け取った。そしてページをぱらぱらと飛ばし読みする。
「ふむ、俺が持っているヤツの方が原書に近い。これは要らんな。持ち主の本棚に返しておいてくれ」
そう言って本を返す。
晴香は驚いた。
「怪物は退治するのに、こういう物は処分しないんですか?」
すると憐は肩をすくめた。
「その本自体は別に危険じゃないんでね。ま、正気を削られたりはするが。でも旧い支配者連中やその眷属の知識を得られたりもするからな。誰かの役に立つ事を祈っておこう。持ち主もいずれはまた読むかもしれないし」
持ち主――洋は入院している。
心身に大きな傷を負っているからだ。爪の食い込んだ体の傷と……死に直面した恐怖のせいで、まともな会話もできず、震えながらうわ言を呟き続けるようになった心の傷とを。
いつ治るのかはわからない。
いつかは治るはずだと、医者は言っていたのだが。
憐は懐から小さな洋酒の酒瓶を取り出し、それを飲んだ。
呆れる晴香。
「勤務中に飲酒ですか?」
「こいつは傷薬さ。この黄金の蜂蜜酒は魂が抜けるほどよく効くんだぜ」
ニヤリと笑って答える憐。
そう言って腕に巻いていた包帯をおもむろにほどきだす。そこには爪で裂かれた痛々しい傷跡がまだ残っていたが、それが見る間に消えて行った。
驚き、目を丸くする晴香。
だがすぐに「彼ならそうなんだろう」と納得する事にした。
警察が教室を丹念に調べたにも関わらず、憐が数えきれないほど撃った弾も、無造作に投げ捨てたいくつもの拳銃も一つも見つからなかったのだ。
あの獣の痕跡と同じく……そんな物はなかったかのように。
そんな彼に晴香は訊いた。
「本は彼の部屋に返しておきます。けれど、良くない知識も載っているんですよね? それを見つけた人が、またあの怪物みたいな物で、問題を起こすかもしれませんよ?」
憐は笑ったまま酒瓶を懐にしまう。
「そうだな。あいつら名状し難き物どもが深淵からまた出たら……俺もまた、その時その場に行くさ」
チャイムが鳴った。もうじき授業が始まる。
「ほら、君は勉強しに行きな」
「はい」
憐に促され、晴香は一礼してから教室へと向かった。
憐はその背を見送る。
そして本人の言葉通り。
その日が終わると憐は晴香の前から姿を消した。
どこかへ……次に深淵が蠢く所へと。
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