第94話:狂気の余剰食糧と、迫る難民の影
建国6年、夏。
帝都の中枢、分厚いコンクリートと厳重な警備に守られた「絶対安全な居住区画」。
その一室で、東航平はソファに深く沈み込み、現場から届けられたばかりのプラント稼働ログや農業部門の報告書を気怠げな目で追っていた。
「……アンモニアプラントの圧力、規定値で安定。そして真野の作ったトラクターの開墾スピード……なるほどな」
「お疲れ様です、東さん。ずっと数字と睨めっこで、肩が凝ったでしょう? 終わったら、私がしっかり揉んであげますからね」
その傍らでは、妻のマヤが冷たいお茶をグラスに注ぎ、彼に差し出す。 彼女たち妻は、出産前から一切の現場労働・公務を禁じられ、この安全な居住区で暮らしている。マヤは現在、東の健康を管理し、彼が「頭脳労働以外で疲労しない」ようにプライベートのサポートを行っていた。
「サンキュー、マヤ。……しかし、すげえ数字だ。アンモニア肥料と機械化の相乗効果で、今年の秋の穀物収穫予測は、帝都の既存人口を養うために必要な量の『数倍』を叩き出してる」
東は冷たいお茶を喉に流し込み、ダウナーな笑みを浮かべた。
人間が消費しきれないほどの穀物が湯水のように生み出され、その余剰分はすべて家畜(豚や牛)の飼料へと変換されていく。カロリー変換の暴力が、畜産のメガファーム化を強制的に引き起こしていた。
「食糧問題なんていう、人類永遠のバグはこれで完全に修正された。……農業に張り付いていた帝国の労働力は、これで全部、重工業やインフラに回せるぜ」
***
同時刻。同じく安全な居住区画にある、九条蓮の私室。
東は報告書の束を片手に、九条の部屋を訪れていた。
「……素晴らしい成果ですね、蓮様、東様」
部屋の奥では、妻のアナヒータが、ゆりかごの中で眠る2歳の長男・シオンを優しく撫でながら微笑んでいた。第一秘書としての激務から完全に離れ、今は育児と平穏な生活に専念している彼女の表情は穏やかだ。
「ああ。これで帝国は、飢えという概念から完全に解放された」
九条は、窓の外を見下ろしながら冷徹な声で言った。
「だが、すべてを平等に現物支給する『配給制』は、生存の危機が去った今のフェーズでは労働意欲を削ぐ原因になる。……人間とは、腹が満たされれば、次はより美味い酒、美味い肉、上質な衣服を求める不合理な生き物だからな」
九条は振り返り、デスクの上に置かれていた「精巧な刻印が打たれた銅のメダル」を指で弾いた。
「『通貨』を導入する。価値の担保は、我々が持つ圧倒的な余剰食糧だ」
九条の目が、理知的な光を帯びる。
「休みのない過酷な労働は、疲労による事故と反発を招くだけの非効率だ。帝国では、明確なシフト制による『適切な労働時間』と『休日』を保証している。その代わり、働いた分だけこのトークンを支給する」
「なるほどな」と、東は頷いた。
「休日にトークンを使って、配給所以外の『娯楽や贅沢品』を楽しませるってわけか。……単純労働者たちに、資本主義という強烈な『欲望のニンジン』をぶら下げる。通貨を発行・管理することで、俺たち(中央銀行)が帝国の経済を完全にコントロールできる」
「その通りだ。文明のルールに従う者には、圧倒的な豊かさと余暇を与えるシステムを構築する」
***
帝都から数キロ離れた郊外。
真昼の焼け付くような太陽の下、轟音を立てて大地を震わせているのは、直列6気筒ディーゼルエンジンを積んだ巨大な『農耕トラクター』だ。
分厚い鋼鉄の塊が、圧倒的なトルクで硬い荒野をバターのようにひっくり返し、一瞬にして黒く肥沃な農地へと書き換えていく。
「あ、あれはなんだ……!? 巨獣が、地面を喰っているのか!?」
その狂気的な開墾風景を、帝都の外壁から少し離れた荒野の端から、絶望的な目で見つめている数人の若者たちがいた。
彼らは、遠方の部族から『帝国に行けば、何もしなくても美味い肉が食えて、夜も明るいらしい』という噂を聞きつけ、一攫千金を夢見て徒歩で勝手にやってきた無計画な流浪民たちだった。
だが、当然のことながら、帝都のゲートで「身元保証がなく、ローマ字も読めない」という理由で入城審査に落ちていた。
「あんたたちも、審査に落ちたのかい?」
若者たちの背後から、ボロボロの衣服を着た薄汚れた男が声をかけてきた。
男の背後には、数軒の汚いバラック小屋がひっそりと身を寄せ合っている。
「……あ、ああ。弾かれちまった」
「だろうな。だが、帝国は俺たちを完全に見捨てるわけじゃない」
男は、バラックの向こう側——巨大な城壁のすぐ外に広がる、整然と区画分けされた『労働キャンプ』を指差した。
「あっちのキャンプに行けば、土方や荷運びみたいな単純労働をさせられる代わりに、安全なテントと、死ぬほど美味いパンと肉のスープがもらえる。おまけにしっかり休みもあって『トークン』って銅貨も稼げるから、それで酒も買えるらしい」
男の言葉に、若者たちは顔を見合わせた。
「なんだ、それなら最高じゃないか! なんであんたは、あっちのキャンプに行かずに、こんな汚い小屋で暮らしてるんだ?」
若者の純粋な疑問に、男は顔を歪めて吐き捨てるように言った。
「ふざけるな……! あそこは息苦しいんだよ! 毎日決まった時間に鳴る『サイレン』って音で叩き起こされ、指定された『時間』と『手順』通りにキッチリ働かなきゃならない。少しでも遅刻したりサボったりすれば、容赦なくトークンを減らされるんだ!」
男は、過酷な労働に耐えられなかったのではない。
これまでの「腹が減った時に狩りをし、疲れたら寝る」という気ままな生活から一変し、帝国の厳格な「時間管理」と「マニュアル化された規律」に適応できず、自らドロップアウトした怠惰な人間だったのだ。
「俺はあんな時計に縛られる生活はまっぴらだ。自由が一番だよ……」
若者たちは、怯えたように後ずさりした。
圧倒的な豊かさ(光)を得るために必要な、近代という名の強烈な規律。
その規律を受け入れられず、過去の自由な貧困を選んだ極小数の人間たちが、こうして『スラム(影)』を形成し、壁の外側にこびりついていたのだ。
***
「……壁の外のバラック住人、先月より数人増えたようだな」
帝都の城壁の上から、九条が双眼鏡を下ろしながら呟いた。
現状、徒歩でしか来れないため、無計画な流浪民やスラムの住人はまだ「極小数」に留まっている。
「文明のルールに従い、共に豊かになる道を用意してあるというのに。……野生の自由を選ぶというなら、無理に引き入れる必要はない」
九条は、眼下に広がる広大な大地の向こう——はるか彼方の地平線を静かに見据えた。
「だが、いずれ『船』が定期運航し、そしてこの大地に『鉄道』が開通すれば……物理的な距離の壁は消滅する。その時、豊かさだけを求めて押し寄せる無計画な移民と、規律からこぼれ落ちる者の規模は、今の比ではなくなるだろうな」
帝国という巨大なシステムが内包する「人間という名の不合理な病巣」は、水面下で静かに、だが確実にその芽を育み始めていた。




