第92話:鋼鉄の奔流
建国6年、春。
帝都の外れにある化学プラント区画。そこは常に強酸の刺激臭と、高圧蒸気の吹き出す危険な音が鳴り響く、一般市民の立ち入りが厳しく制限されたエリアだ。
だが、その一角にある防爆壁に囲まれた小さな休憩室だけは、場違いなほど甘く、そして複雑な香りに包まれていた。
「……んー、ちょっと温度高すぎたかな。アルコールの角が立ってる。あと少しだけ冷却を強めにして……よし、こんなもんか」
白衣を着崩したミカが、ガラス管と銅のチューブを複雑に組み合わせた『小型の蒸留器』を前に、真剣な目でバルブを微調整していた。
シューッという微かな音と共に、透明な液体が一滴、また一滴とビーカーに落ちていく。
「おいミカ、また勤務中に趣味の密造酒かよ。鬼頭にバレたらシバかれるぞ」
休憩室のドアを開けて入ってきた東が、コーヒーの入ったマグカップを片手に呆れたような声を上げた。 彼の背後には、冴島もひっそりと続いている。
「あ、東さん。冴島先生もお疲れ様。別にサボってるわけじゃないですよ。火薬の精製プロセスの待ち時間ですって」
ミカは飄々とした態度のまま、ビーカーの液体を小さなグラスに注ぎ、二人に差し出した。
「飲んでみてくださいよ。この前、北の森で採ってきたネズの実に近い植物と、いくつかのハーブを漬け込んで再蒸留したんです。……名付けて『ミカ特製・香草蒸留酒』です」
東は苦笑しながらグラスを受け取り、一口含んだ。
「……ッ、なんだこれ。めちゃくちゃ澄んでるじゃねえか。前の宴で飲んだイモの臭い蒸留酒とは完全に別次元だぞ。ネズの実とハーブの香り……これ、完全に現代の『ジン』じゃねえか」
「驚いたな。アルコール度数は高いのに、非常に華やかな香りがする。計算された調和を感じるよ」
冴島も自身のグラスを口に運び、目を丸くして感嘆の声を漏らした。
『こいつの嗅覚と味覚は完全にバケモノだ。化学プラントの致死性のガス漏れを匂いで察知する能力を、そのまま酒のブレンドに使いやがるとは』
「ふふっ、でしょ? アルコールは過酷な労働を忘れさせる『最高の娯楽』ですからね。市民のモチベーション管理のためにも、こういう嗜好品の研究は必須なんですよ」
ミカが悪戯っぽく笑う。
強烈な危険と隣り合わせのR&Dチームにとって、このささやかなプライベートの時間は、正気を保つための重要な儀式でもあった。
「……まぁ、鬼頭さんは今、酒どころじゃない『もっとデカい花火』に夢中ですけどね」
ミカが、窓の外の製鉄所エリアから立ち上る黒煙を見つめながら呟いた。
***
同時刻。帝都の工業区画にそびえ立つ、巨大な製鉄所。
これまで、帝国の主力マテリアルは「鉄(鋳鉄や錬鉄)」だった。
しかし、その内部は今、次なる時代への産声とも言える、地鳴りのような重低音と殺人的な熱気に包まれていた。
「ガハハハ! ええぞチャパ! そのまま回転数キープや!」
「は、はいっ! だけど真野さん、モーターの唸りが凄すぎて、足元から揺れてますよ!?」
真野巧と弟子のチャパが、油と汗に塗れながら巨大な機械の調整を行っていた。
彼らの目の前で唸りを上げているのは、先日完成したばかりの『三相交流モーター』だ。
だが、今回は単なる回転テストではない。モーターの太いシャフトの先には、真野が全精力を傾けて削り出した巨大なカタツムリ状の鉄の塊——『遠心式ブロワー(超強力送風機)』が直結されていた。
キィィィィン……ッ!
ゴオオォォォォォ……!!
三相交流によって生み出された数千rpmという暴力的な回転が、ブロワー内部の羽根車をぶん回す。
吸い込まれた空気が圧縮され、大口径の鋼管を通って、猛烈な「風の弾丸」となって吐き出されていく。
「見ろや、この風圧! 直流モーターの時とはトルクの次元がちゃうわ! 数トンの液体の重さ(水圧)にも絶対に負けへん!」
真野が誇らしげに叫んだその視線の先。
圧縮された風が送り込まれているのは、洋梨のような形をした高さ数メートルにも及ぶ巨大な炉——『ベッセマー転炉』だった。
***
「……待ちわびたぜ、このイカれた風量をよ」
耐熱服を着込み、遮光ゴーグルを額に引っ掛けた鬼頭陣が、転炉の横で凶悪な笑みを浮かべていた。
「これまでは、ドロドロに溶けた鉄から不純物(炭素)を抜くのに、職人が長い棒で何時間もかき混ぜる『パドル法』ってクソみてえな手作業に頼るしかなかった。だが、お前が作ったこの三相モーターとブロワーがあれば、話は別だ」
鬼頭は、ゴオオオと唸る鋼管をバンバンと叩く。
「鉄ってのはな、炭素が多すぎると硬いが脆い。逆に炭素が少なすぎると柔らかすぎる。……その中間の、最強に強靭な状態が『鋼』だ」
鬼頭は、手元のバルブを握りしめながら、周囲の防衛部隊の兵士(現在は製鉄所の作業員を兼任している)たちに鋭い視線を向けた。
「やり方は最高にシンプルで乱暴だ。溶けた鉄の『底』から、このモーターが作る超高圧の空気を猛烈な勢いで吹き込む! 空気中の酸素で、鉄の中の炭素を直接燃やし尽くすんだよ!」
『現代じゃ当たり前すぎる製鋼法だが、この世界でこれをやるには、どうしても「溶けた鉄の水圧に負けない超高圧の風」が必要だった。……三相交流が、ついにそのパズルの最後のピースを埋めやがった』
「いくぜ真野! 転炉内に溶けた銑鉄(湯)を注げ!」
鬼頭の怒号を受け、真野の合図で上部のクレーンが動き出す。
高炉から取り出されたばかりの、オレンジ色に発光するドロドロの銑鉄数トンが、巨大な取鍋からベッセマー転炉の中へと注ぎ込まれた。
「よし……。送風開始ッ!!」
鬼頭が、鋼管のメインバルブを一気に全開にする。
ズドォォォォォォォォン……ッ!!!
瞬間、工業区画全体を揺るがすような爆発音が轟いた。
底から吹き込まれた超高圧の空気が、溶けた鉄の中を駆け抜け、酸素と炭素が激しく反応(酸化)する。
「うおぉぉぉっ!?」
「な、なんだあの火柱は!?」
見学に来ていた作業員たちが、恐怖で尻餅をつく。
転炉の炉口から、数メートルにも達する凄まじい火柱と、大量の火花が火山のように噴き上がったのだ。
「ヒャハハハ! コンプラ無用の最高にイカれた花火大会だぜ!」
鬼頭が、火の粉を浴びるのも構わず狂気じみた笑い声を上げる。
「見ろ! 炭素が燃える酸化熱のおかげで、外部から燃料を足してないのに、鉄の温度がどんどん上がってやがる! これがベッセマー転炉の魔法……『自己発熱』だ!」
ゴオオォォォォォ!!
火柱の色が、赤から眩いほどの純白へと変わっていく。
それは、鉄の中の不純物が完全に焼き尽くされ、純粋な「鋼」へと変貌を遂げている証拠だった。
職人の手作業の限界を超え、完全な液体である「溶鋼」が大量に生み出されようとしていた。
「……火炎が短くなった! 炭素が抜けきった証拠だ! 送風止めろォ!!」
鬼頭の鋭い指示に合わせ、真野がブロワーの回転を絞る。
数十分前まで単なる硬くて脆い「鉄」だったそれは、今や極上の「鋼鉄」となって炉の中で静かに波打っていた。
***
「転炉を傾けろ! 型に流し込むんや!」
真野の号令で、巨大な歯車が回り、洋梨型の転炉がゆっくりと傾く。
中から、太陽のように眩い純白の液体(溶鋼)が、滝のように巨大な鋳型へと注ぎ込まれていった。
「……すげえ。たった数十分で、数トンもの『鋼』ができちまった」
チャパが、熱気で顔を真っ赤にしながら、呆然と呟く。
これまで、何十人もの職人が数日がかりで鍛え上げていた貴重な「鋼」が、まるで湯水のように生み出されている。
製鉄所の安全な高台にあるキャットウォーク。
そこから、鋼鉄の奔流を見下ろしている男がいた。九条蓮だ。
『鉄は国家なり、と古人は言った。だが、それは過去の言葉だ。……これからの時代を蹂躙し、空間と時間を支配するのは、圧倒的な強靭さを持つこの「鋼鉄」だ』
九条は、無表情のまま、燃え盛る炉の光を瞳に反射させていた。
「よくやった、真野、鬼頭。……これで、帝国のマテリアルは完全に次の次元へと移行した」
九条の低くよく通る声が、喧騒の中でも確かな重みを持って響く。
「この無尽蔵に生み出される液体の鋼鉄と、三相交流のパワーを使って、次は何を創る気や、九条?」
真野が、タオルで汗を拭いながらキャットウォークを見上げる。
「決まっているだろう」
九条は、冷徹な笑みを浮かべ、製鉄所の外の広大な大地を指差した。
「東が作ったアンモニア肥料がある。だが、それを撒き、大地を耕すための『圧倒的な力』がまだ足りない。……この均一な溶鋼を使った一体成型の巨大部品と、内燃機関を組み合わせる。人間の手作業という非効率を完全に過去のものにする、巨大な『農業機械』を創る」
真野の目が、技術者としての獰猛な光を帯びる。
「トラクターと、コンバインか。……おもろい。鉄が液体の鋼に変わったなら、どんな巨大なギアやクローラーでも、一発で抜いたるわ(鋳造したるわ)」
狂気の物理動力が生み出した、無限の鋼鉄。
それは、帝国の風景を、そしてこの世界の大地の形そのものを、根本から塗り替えるための「最強の牙」となろうとしていた。




