第77話:油田プラントの恩恵と、和食の挫折、そして新たな熱狂
建国4年、初夏。
帝都の工業区画は、これまでとは次元の違う活気と轟音に包まれていた。
「見ぃや、九条。この滑らかな動きを」
真野巧は、油にまみれた手で、高速回転する大型旋盤のギアを指差した。
その顔には、隠しきれない歓喜の色が浮かんでいる。
「郷田の油田プラントから専用タンカーでドカドカ送られてくる精製済みの『軽油』。それだけやない。副産物として完璧に精製された『潤滑油』……こいつがマジでヤバい」
真野は、黒光りする金属の表面を愛おしそうに撫でた。
「これまでは、どんだけ精度を上げて削っても、金属同士の摩擦熱でどうしてもガタが来とった。長時間の連続稼働には限界があったんや。せやけど、この潤滑油を差した途端、摩擦という物理的なロスが完全に消え去りよった」
「……機械の寿命が劇的に延び、24時間の連続フル稼働が可能になったという事だな」
九条蓮は、整然と並び、唸りを上げて稼働し続ける何十台もの工作機械を見渡した。
50人の職人たちと、追加で動員された労働者たちが、交代制で絶え間なく部品を削り出している。
「ああ。これで軍事インフラの拡張も、次なる兵器の試作も、予定より大幅に前倒しできる。……エルワの手を借りんくても、俺たちだけで絶対にやり遂げたる」
真野の言葉には、身重の妻を安全圏に隔離したことへの責任と、意地が滲んでいた。
『……完璧なロジスティクスだ』
九条は内心で頷いた。
エネルギーの制約から解き放たれた帝国は今、文字通り「物理的な限界」を突破しつつある。
***
同日、夕刻。
統治局の最上階、建国メンバー専用の会議室。
激務を終えた6人の男たちが、重い溜息をつきながら椅子に深く腰掛けていた。
「あー……クソ、サボりてえ……」
東航平が、机の上に突っ伏して呻いた。
「マヤやリナたちを安全圏に隔離してからというもの、俺の食生活と身の回りのマネジメントが完全に崩壊してる。自分で自分の服を用意して、自分で飯を食うのがこんなに面倒だとはな……」
「甘えんな、東。俺たち全員同じ条件だ」
鬼頭陣が、青銅の薬莢を指先で弄りながら鼻を鳴らした。
「とはいえ……うちのゼナやカーラたちも、最初は大人しくしてたが、最近は『体が鈍る』『少しぐらい動きたい』って不満が溜まってきてるみてえだ。あの好戦的な女どもを、何もないコンクリートの部屋に閉じ込めとくのは、骨が折れるぜ」
「ガハハ! 違いない!」
郷田剛が、豪快に笑いながら首を鳴らした。
「うちのティオなんか、『つわりが終わったんだから、現場の土を運ばせろ!』ってスコップ持ってバリケード突破しようとしたからな。必死でなだめるのに一苦労だったぜ」
笑い声が響く中、6人の間にふと、奇妙な沈黙が落ちた。
これまで、カロリー至上主義で肉や麦を貪ってきた彼らだが、極限の緊張と過労の連続の中で、ふと『故郷』の記憶がフラッシュバックする。
妊娠中期に入り、精神的にも肉体的にも負担を抱える妻たち。彼女たちに、真の意味での「安らぎ」を与える手段。
「……醤油だ」
東が、顔を上げてポツリと漏らした。
「醤油で焼いた、香ばしい肉……」
「ダシの効いた、温かい味噌汁……」
郷田が、ゴクリと唾を飲み込む。
「そして……炊きたての、真っ白な飯(米)だ……!!」
鬼頭が机を叩いて立ち上がった。
狂気にも似た執念を燃やす彼らに対し、冴島陸が眼鏡の位置を直し、静かに口を開いた。
「よし。分かった。僕が責任を持って、農業・化学R&Dの総力を挙げて『和食』を錬成しよう」
冴島の言葉に、男たちの目に希望の光が宿る。
だが、次の瞬間、冴島は冷酷な事実を突きつけた。
「とはいえ、当然だが……種籾の選別から品種改良を始め、醤油や味噌の元となるカビ(菌)の採取と発酵プロセスを一から構築するんだ。最低でも数年単位の長期プロジェクトになる。……今回の第一陣の出産には、絶望的に間に合わないぞ」
「お、遅えよ!!」
東が思わず頭を抱えた。
「出産と育児のストレスを抱える嫁たちに、今すぐ必要なんだよ! 数年後じゃ遅いんだ!」
「無理を言うな。発酵や植物の世代交代は、物理法則のようにはショートカットできない」
ため息をつく冴島に対し、九条が静かに立ち上がった。
「冴島、和食のプロジェクトは長期的スパンで着手してくれ。帝国市民の食の豊かさにも繋がる」
九条は、会議室の窓から、夕暮れの帝都を見下ろした。
「そして……今の彼女たちのストレス解消と、急激に増えた帝国市民たちのガス抜きのために、即効性のある『娯楽』を導入する」
「娯楽? 酒の次はなんだ?」
鬼頭が怪訝な顔をする。
九条は振り返り、鋭い眼光を放った。
「『スポーツ』だ。人間が最も熱狂し、熱を消費できる原始的なシステム。……ルールを与え、観戦させる」
***
翌日の夕刻。
帝都の一角、農地の隣に急造された広大な平原予定地に、仕事を終えた数十人の血気盛んな若者たちが集められていた。
タタンカをはじめとする防衛部隊の面々や、土木作業で力を持て余している者たちだ。
「集まってもらったのは他でもない。お前たちの有り余る体力を発散させ、さらに見物人を楽しませる『娯楽』に参加する者を募るためだ」
九条が声を響かせると、若者たちがざわめいた。
「娯楽……ですか? 九条様」
タタンカが代表して首を傾げる。
九条は、手に持っていた丸い物体を足元に転がした。
冴島が抽出した天然ゴムのチューブを、なめした獣の革で覆い、手縫いで球状に仕上げた特製品のボールだ。
「『蹴球』という。ルールは至ってシンプルだ。手を使わずに、足だけでこの球を蹴り、相手の陣地の奥……あの木の枠に叩き込む。それだけだ」
「手を使わずに……?」
「足だけで戦うのか?」
狩猟や戦闘で「手」を使うことに慣れきっている若者たちにとって、それは未知の概念だった。
「近日中に、大々的な大会を開く。優勝したチームには、蒸留酒の特別配給と、極上の塩漬け肉を約束しよう。……腕に、いや、足に覚えのある者はいるか?」
酒と肉。
その言葉を聞いた瞬間、若者たちの目の色が露骨に変わった。
「や、やります!!」
「俺も!! 俺の足は風より速いぞ!」
我先にと手を挙げる若者たちを見て、九条は口角を上げた。
「よし。なら、まずはいくつかチームを分けて、軽く練習してみろ。タタンカ、仕切れ」
「は、はいっ!」
タタンカの号令で、若者たちがグラウンドに散らばる。
「いくぞ! そっちだ!」
一人の若者がボールを蹴り出す。
初めての感触に空振りをしたり、思わず手が出そうになって「反則だぞ!」と笑い合ったりと、最初はぎこちない動きだった。
しかし、狩猟で鍛え上げられた彼らの身体能力は凄まじかった。
わずか数十分もすると、彼らはボールの軌道に適応し、土埃を上げながら激しくボールを奪い合い始めた。
足だけでボールをコントロールし、相手を抜き去るという不自由さが、逆に彼らの闘争心と遊び心を強烈に刺激していた。
『……悪くない』
九条は、熱中してボールを追いかける若者たちを見つめた。
複雑なオフサイドなどのルールは一旦省き、まずは単純にボールを追いかける形にしたのが正解だった。
ふと視線を上げると、厳重な警備で守られた「特別居住区(安全圏)」の巨大なバルコニーから、身重の妻たちが見下ろしているのが見えた。
「ちょっとティオ! 危ないってば!」
「でも、見てよ! あの5番の男の子、すっごく足が速い!」
身を乗り出そうとするティオを、ルルとミナが慌てて止めている。
エルワやアナヒータも、土埃を上げて走り回る男たちの姿に、楽しそうに笑い声を上げていた。
『……少しは気晴らしになりそうだな』
妻たちの笑顔を見て、九条の胸の奥底にあった焦燥感が、ふっと和らいでいく。
一方、グラウンドの隅では、真野と鬼頭が若者たちの熱狂を冷静な目で観察していた。
「スポーツ、か。こりゃいいガス抜きになるな。余剰な体力とヘイトを、ボール一つで発散させられる」
鬼頭が鼻を鳴らす。
「ああ。せやけど、俺らの本分はこっちやない」
真野の瞳には、冷徹な職人の光が宿っていた。
彼の頭の中にはすでに、ボールの軌道ではなく、次なる機構の設計図が広がっている。
「近日中の大会本番までに、俺は俺の仕事を終わらせる。油圧プレス機が完成させて、金属薬莢のプレス加工に入るぞ」
「ああ、分かっとる」
「待ちきれねえぜ」
父親となった男たちの、家族を守るための「狂気の兵器開発」と、帝都を熱狂させる「娯楽の祭典」に向けた準備が、今、同時に幕を開けようとしていた。




